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238 Civil_War(5)

●戦争勃発


 「大東南北戦争」は、西暦1852年春から1855年初夏にかけての、約3年間行われた。

 西欧や北米東部で、近代の扉が大きく開けつつある時代の事だった。

 

 大東での戦争の発端は、大承天皇の勅命で出された「議会の詔」だとされる。

 

 しかしこれは、本当に発端でしかなかった。

 


 「議会の詔」に対して、旧大東州の名門貴族達を中心とする「王道派」が反発して、政治的に勅命を最低でも空文化しようとした。

 それを直訴という形で阻止するべく、「帝国派」の新大東州を代表する田村公爵が境東府から東京へと、自らが保有する形の軍艦数隻の艦隊で押しよせようとした。

 

 しかしこの動きは、王道派の旧大東州の諸侯に事前に知られており、阻止する為の艦隊が東京湾沖合に事前に配備されていた。

 だがこの艦隊も、東京近辺を根城とする海軍一族の素島氏の艦艇によって行動が妨害される。

 

 ただしこの段階では、まだ双方ともに戦闘行為にまでは及んでいなかった。

 先に戦端を開いた方が政治的に不利になるばかりか、最悪「逆賊」にされてしまうからだ。

 

 しかし王道派は、自分たちの行動が出し抜かれると分かった時点で、帝国派が勝手に艦艇を動かした事は反逆行為に当たると一方的に決めつけ、実際文書を整えた上で東京での政争を実施した。

 そして何としても帝国派の実力部隊(戦闘部隊)を、東京に入れないように動いた。

 

 だが、大東最大の貴族にして唯一の皇族、王族以外の公爵である田村家の家紋を掲げた艦隊は、強引に東京港郊外へと接近する。

 そしてそこで待ちかまえていたのは、本来の東京防衛部隊でもある大東水軍に属する艦艇だった。

 

 しかしこの場合は、田村家の家紋がものをいった。

 国内で軍艦を動かしたと言っても、大貴族が移動で軍艦を使うことは今までも一般的に行われ、国からも許可制ながら認められていた。

 ましてや相手は公爵だった。


 王道派が言い立てた事も、文書にされなければ軍には意味がなかった。

 この場合水軍は、貴族の私用艦艇をエスコートして、余計な事をしないように事実上監視をするのが一般的だった。

 この時水軍が取った行動も、取り決められた通りでしかなかった。

 別に、帝国派に賛同したり田村公爵家に金を積まれたりしたわけではない。

 

 かくして帝国派の頭目でもある田村家の艦隊は東京軍港に入り、田村一族の有力者に率いられた事実上の私兵集団は広大な田村公爵家の別邸(冬殿)へと入った。

 


 これで王道派追いつめられたかに見えたが、さらに逆転を図る。

 それは天皇の側近の多くが自分たち王道派のため、数にものをいわせて、不当に軍を東京に入れた田村家の行動そのものを「逆賊の行い」としたのだ。

 

 だが帝国派も黙っているわけはなく、東京御所の状況を民衆に見せ、その上で旧州(旧大東州)の門閥貴族による天皇の傀儡化と「偽勅」であるとして、彼らこそが「真の逆賊」と名指しした。

 

 これで双方引っ込みがつかなくなり、東京郊外の広大な田村公爵別邸(冬殿)を旧主派(以後「北軍」)の息のかかった白い軍装の近衛兵が取り囲む事で戦端が開かれることになる。

 



●近代戦争の夜明け


 以上のように、大東での二度目の内乱の初期は、特権階級の戦争として始まった。

 戦争から遠のいて久しい大東人の誰もが、絵巻物や物語のような戦国時代の戦争を予想した。

 

 しかし様相は、徐々に全く違う方向へと傾いていく。

 大きな役割を果たしたのが、大東で進展中だった「産業革命」そのものだった。

 

 戦争そのものを見る前に、この当時の大東の産業についてもう少し見ておきたい。

 

 まずは大東本国の総人口の簡単な推移を見ていただきたい。

 


 1810年:6000万人

 1820年:6100万人

 1830年:6200万人

 1840年:6400万人

 1850年:6700万人


 10年ほど後に大東同様に国内戦を経験したアメリカは、戦争当時で白人人口2400万、黒人350万なので、黒人を含めても大東の方が2倍半近くの人口があった。

 当時の大東は、清朝、インド世界に次いで世界第三位の人口大国だった。

 

 そして1820年頃が、近世における大東の人口ピークだった。

 

 1830年までの人口増加はわずかに100万人で、人口増加率は1%を大きく割り込む(0.15%)ほどとなった。

 この時期の海外移民は、全てを合わせても年間1万人を越える程度だったので、完全な人口停滞に陥っていた事になる。

 また1820年代は従来の伝染病である天然痘、ペストなどに加えてコレラが大流行したため、人口増加率をほぼゼロにしてしまっていた。

 

 1840年になると、1830年代から産業革命が進展している地域で都市部への人口集中が開始され、人口増加率が10年前の倍近い数字を示した。

 またこの年代から、主に豊水大陸と北米北西部への農業移民が本格化しているので、実際の人口増加は数字以上となる。

 

 1850年までの10年間は、大東島での産業革命がいよいよ本格化すると同時に、豊水大陸と北米北西部への移民も規模が大きく拡大した時期になる。

 各地の鉄道敷設もあって都市への住民の集中はいっそう進み、工場労働者獲得の為、四半世紀以上事実上中止されていた日本からの移民受け入れも再開された。

 

 一方では、毎年10万人以上が農業移民として豊水大陸と北米北西部に移民するようになっていたので、人口増加率は0.6%を上回った。

 以後この数字は、戦争期を除いて上昇をしていく事になる。

 


 停滞期から四半世紀(ほぼ一世代)ほどで、総人口は一気に一割も上昇した。

 この住民のほとんどは、都市の工場、石炭などの鉱山に吸収され、商業資本化が進んだ国内の農地と海外植民地からもらされる食料で腹を満たした。

 

 1840年代は鉄道の敷設が進んで、連動して鉄鋼生産量も爆発的な増加を示した。

 豊水大陸北西部の鉄鉱石が、蒸気貨物船を使って初めて南部の茶茂呂に移入されたのは1846年の事だった。

 

 大東島の各地では蒸気機関が蒸気を吹き出しつつ唸り、力強くピストンを回し、数々の工業製品を無尽蔵に作り始めていた。

 国全体の動きは、イギリスはもちろんアメリカなどの二番手にも若干遅れていたが、大東は確実に文明の階段を自力で上っていた。

 

 そしてその象徴こそが、「大東南北戦争」で使われた国産兵器の数々だった。


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