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237 Civil_War(4)

●19世紀前半の教育


 大東の人々が思想に大きな興味を向けたのには、教育の進歩が大きく関わっていた。

 

 文字を読めることを「識字率」というが、17世紀以後の近世において大東国内では識字率が大きく向上した。

 

 当然だが義務教育などではなく、あくまで私学としての基礎教育の普及が、識字率の大幅な向上をもたらした。

 

 西日本列島では寺子屋と呼ばれる私塾が、簡単な文字の読み書きを教えた。

 さらに都市を中心にして、そろばんと呼ばれる計算装置の扱い方と計算方法を教えるようになる。

 同時期西日本列島でも識字率は大幅に伸びて、特に19世紀の伸びは世界的にも異常なほどのレベルに達した。


 しかし西日本の場合、知識や情報を手に入れるためではなく、娯楽としての読み物を楽しむための場合が多かった。

 このため特権階級や富裕層だけでなく、一定以上の収入のある者が自ら進んで文字の修得を行った。

 知識が権力に直結していた北東アジアではあり得ない状況だった。

 

 大東でも、西日本と大きな違いはなかった。

 

 直接的に学棟がくとうと呼ばれる大東での私塾は、14世紀頃に貴族、武士の間で少しずつ広まり始めた。

 支配する側は色々な文献に触れなければならないし、税金の管理と運用の為に一定程度の数学(=計算)の知識が求められたからだ。


 そして人口の拡大と共に人手が必要となったため、従来の家ごとの教育では追いつかなくなり、私塾が開かれるようになる。

 この流れは戦国時代に各貴族の間で大規模に実施され、全国規模になった。

 

 また神道勢力が、自らを庶民の教育組織として自覚するようになったのも戦国時代だった。

 戦国時代の間のみ発生した武装神道が権力を求めた結果だったが、その後も神社の一角で子供達が遊びながら初歩的な学問を学ぶ姿は、平和な時代での一般的な風景となっていく。


 神道がキリスト教の大学を真似て高等学問を学ぶ学校(=学社)を最初に作ったのも、戦国時代の16世紀後半だった。

 これに対向する形で、財政的にゆとりのある貴族も、自ら高等学校となる「大学」を次々に開くようになった。

 そして見栄や虚栄心を原動力とした競争原理が働き、実利が加わる形で大東の教育組織は急速に発展した。

 

 そして平和な時代が到来すると、都市の中流階層以上の住民の間で基礎教育を行う私塾がもてはやされるようになる。

 この私塾は、都市部では大商人達が資金を出し合い、農村部では豪農達が開いた。


 商業にも農業にも、知識があった方が効率が良くなるからだ。

 知識については子育てについても必要という認識が持たれるようになった事から、女子の教育も17世紀頃から一般化している。

 

 ヨーロッパとの接触による新たな知識や、日本からの移民がもたらす江戸時代の華やかな文物などに触れることで、大東での教育熱は加速した。

 まだ大東独自の文化も大きく発展したため、庶民の教育熱がいっそう高まった。


 そして大東の場合は、高等教育を教える場所ではヨーロッパの学問も特に拒絶などなく教えた為、19世紀までには先端分野を除く学術水準がほぼヨーロッパに並ぶようになっていた。

 これに反比例して中華系学問(漢学、儒学など)が大きく衰退したが、これは仏教を切り捨てた戦国時代以前から進んでいた状況が加速したに過ぎなかった。

 

 外国語教育でも、19世紀まで南部に定期的に立ち寄るスペイン船の為の西語(イスパニア語)が中心に各所で教えられ、19世紀に入ってからは英語(イングランド語)教育が徐々に広まるようになる。

 



●戦乱前夜


 大東国内での対立は、基本的に旧大東州と新大東州、大東を征服した大東人(もと日本人)と征服された側の古大東人、茶茂呂人、アイヌの二つの軸がある。

 そして戦国時代は新大東州を本拠とする北軍が勝利し、17世紀以後の大東中央政府である東京御所は、一応全ての人種に対する公平さを見せるようになった。

 近世大東国内の安定の一因は、こうしたところにもあった。

 西日本の江戸時代に、大東への移民が増えたのも安定と公平という要素が大きな役割を果たした。

 

 だが、ナポレオン戦争での大東の敗北が確定したウィーン会議で、国内の雰囲気が一変する。

 大東国は日本以外の対外戦争で初めて敗北するという経験をした。

 

 対外戦争での敗北は、国内では御所(政府)の権威が急落する事件となり、その影響で国民の前に政府及び官僚団、つまり中央の貴族と武士達の硬直化と政治の疲弊が明らかにした。

 2世紀を経過した政府で腐敗や堕落が比較的少なかったのは救いだが、産業革命に対する国内政策は、既に限界が訪れつつあることを人々に教えていた。

 

 そしてここに、国内の人々にも外圧が急速に強まっているという実感が加わる。

 と言っても、少し後の日本での「尊皇攘夷」とはかなり違っていた。

 大東の場合、既に半ば名目ながら天皇が最高権力者(=元首)であり続けていたので、何よりまず「尊皇」が不要だった。


 「攘夷」についてはある程度当てはまるが、大東は常に国を開いて海外にも相応に進出して対外戦争も経験していたので、合理的に外敵に対向する為にどうすれば良いかというのが争点となった。

 そして列強に対向するには、軍事力の近代化と産業の革新が不可欠だと考えられた。

 

 その中で台頭したのが、「帝国派」と「王道派」だった。

 

 「帝国派」は、言葉通り抜本的に政府を作り直して強力な国家を建設しようというもので、「王道派」は国内の融和と緩やかな改革で時局を乗り切るろうという一派だった。

 そしてこの場合危険なのは、「帝国派」が最終的には大東のみならず「日本人社会全て」の力を結集して、ヨーロッパ列強に対向できる強力な国家を作ろうという考えを持っている点だった。

 

 なお地域で示すと、「帝国派」が新大東州と茶茂呂地方で、「王道派」が旧大東州の中枢地域だった。

 つまり旧来の対立構造が、産業革命の進展と新しい考え方の双方に重なっていた。

 


 なお、大東の政治の中枢である広大な御所(中央政府)のある首都東京は、一種の政治的な中立地帯だった。

 

 これは大東で海路が発達したことも影響している。

 南部の南都、東京に近い素島水軍の本拠地、境東府または宍菜を結ぶ航路は、俗に「北軍航路」と呼ばれていた。

 このため東京自体は旧南軍、旧大東州の中枢に位置しながら、海路によって旧北軍勢力圏でもあった。

 新大東州の高位の者が東京に行く際も、必ずと言っていいほど海路を使った。

 

 19世紀前半、大東での産業革命が始まった頃の東京の人口は、約150万人と推定されている。

 しかし地方から流入する貧民などの不確定な人口が含まれていないので、実際は170~180万人程度と考えられている。

 この数字は、工業化以前の前近代としてはほぼ限界の数字であり、実際東京の都市機能は限界に達していた。

 

 2世紀前の城塞の内側は旧市街。

 その北部は川幅3000メートルに達する墨東川で、河川側が港湾部となっていた。

 そして川を30キロほど降ると海に出る。

 かつては郊外だった街の西部には、17世紀末に約30年かけて建設された広大な『新御所』があった。


 御所の周りには、近世的な官庁街と貴族や武士の別邸と住宅があった。

 南部は、新市街とも呼ばれる都市が無軌道に拡張される現状が広がっていた。

 

 もはや城壁で守る気は皆無と言える巨大都市であり、都市規模は世界最大級を誇っていた。

 


 そしてこの東京で、まずは「帝国派」と「王道派」の政治闘争が実施された。

 「帝国派」は産業革命のさらなる進展と富国強兵を唱え、「王道派」は現状を維持したままの緩やかな改革と革新を支持した。

 

 この争いは、貴族、武士の数というより、旧州と新州の人口差から「王道派」が圧倒的に優位だった。

 

 結果、急進的な「帝国派」は自分たちの考えに従わせようと、より急進的な行動に出て、さらに支持を失った。

 そしてここに、「帝国派」の領域でのみ産業革命が進展して富の偏在が進んでいるという考えが広まり、旧来の南北対立の構図が時代を代えて出現する。

 


 なお1850年当時、大東では急速に鉄道が普及しつつあった。

 これも対立を助長する一因だった。

 

 大東で最初の鉄道は1836年に工事が開始され、試行錯誤の末に1840年に開通した。

 その後、南部の黒岩山脈、黒炭山脈の石炭を南都に運び出す本格的な鉄道敷設が行われ、同時期に新大東州南部で宍菜へ鉄鉱石を運び出すための鉄道敷設も実施された。


 大東の鉄道は、技術こそイギリスから導入するも基本的に大東の資本で行い、大東人が技術と知識を吸収して建設から運行までを行った。

 規模の拡大も、イギリスや西ヨーロッパ各地より早いぐらいだった。

 

 それからも、産業革命の進展度合いと、陸地面積の広い新大東州の内陸交通網を先に整備するべきだという考えもあって、新大東州での鉄道工事が優先された。

 本来大東の中枢である東京=大坂間の鉄道が開通したのは1851年の事だった。


 同時期、新大東州の多くで主要路線のおおもとがほぼ作られていた。

 平坦な地形の多い大東では鉄道の敷設が難しい場所は少ないのだが、露骨に地域格差と地域対立が出た形だった。

 


 そして茶茂呂を除く南部と北部のそれぞれは、互いに思い通りにならない現状に苛立ちを募らせる。

 

 実際に行動に出たのは、北部だった。

 

 時の天皇、第四十代大承天皇が、啓蒙思想や立憲に興味があることを半ば利用して、急進的つまり近代化の大きな一歩として「議会の詔」を出させてしまったのだ。

 

 これに保守傾向の強い旧大東州の名門貴族達は一斉に反発し、両者の対立は一気に発火点に達する事になる。

 



挿絵(By みてみん)



fig.02 20世紀の大東島 赤いラインは主要鉄道網


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