236 Civil_War(3)
●産業革命開始
前節で説明してきた通り、19世紀序盤の段階の大東は、産業革命に必要な要素の多くが揃っていた。
「資本の蓄積」が足りていないと言う論もあるが、総人口6000万という当時の全ヨーロッパの4割に匹敵する人口が欠点の多くを補っていた。
また自力の豊富な金鉱がある事は、資金調達の面で有利だった。
そして資本を集約する大商人(資本家または銀行)と、彼らが活動する社会的な仕組みの多くも出揃っていた。
大東社会は、産業革命の到来を待っていたと言われる事があるほどだった。
かくして、既に資本の蓄積などの準備の整っていた地域、炭田地帯を中心にして、大東の産業革命が始まる。
1820年代に始まった大東での産業革命の初期の中心は、海外貿易での豊富な資本と炭田地帯が近いという地の利から、旧大東州南部最大の都市南都が一つの中心となった。
加えて、南部の周辺は16世紀頃からサトウキビ栽培が盛んに行われており、砂糖産業の特徴として資本集約型の農業も進んでいた。
しかも産業革命初期はまだ帆船が船の主流だったため、北米や豊水からの資源移動の面でも大きな優位があった。
鯨油をもたらす捕鯨船の最大の母港という優位もあった。
茶茂呂人系を中心として古くから貿易船を扱う事から、資本家の多くも育っていた。
また、新大東州南端の宍菜は、周辺が綿花地帯で国内唯一の鉄鉱石鉱山があるため、こちらは北部での近代産業の中心となった。
また北部は資本集約農業が進んで羊毛産業の中心地であり、北氷州からの資源の受け取りにも有利だった為、少し遅れて産業の革新が進展するようになる。
国内で取り残されたのは、最大の人口地帯となる旧大東州中枢部だった。
同地域は大東島の中で最も人口密度が高く、農村地帯は比較的労働集約型の農業が行われていた。
そして産業革命の進展に伴い、旧大東州は先に産業革命が進んだ地域の「市場」とされてしまった。
そこで大東政府(東京御所)は、旧大東州で農業の所謂「囲い込み(エンクロージャー)」政策を実施しようとした。
これは同時期イギリスでも経済的理由により行われていた事で、労働集約から資本集約へと農地を大改造し、農業の資本主義化を進めると同時に穀物生産力を高めるのが目的だった。
何しろ、これからも増えるであろう国内人口を支えるためにも、国内での食料増産が必要だった。
また政府は、産業革命が進めば大量の低賃金労働者が必要な事を理解していたので、農地から都市へと人々を移動させる必要性を当初から感じていた。
そして大東政府もそれなりの努力を行ったので、1830年代に入ると大東での産業革命が進展するようになる。
この時期の産業革命への移行は、イギリスを除くヨーロッパ列強とほぼ同じだった。
1836年には早くも最初の鉄道の敷設が開始され、同年初めて小型ながら国産の蒸気船が建造された。
様々な産業でも蒸気機関の利用が行われるようになった。
一見すると、大東の産業革命への移行は順調だった。
しかし、政府が健全で強い指導力があれば、という付帯条件が付く。
そして2世紀続いた大東政府は、既に近世的国家の袋小路に入りつつあった。
今まで悪い面が露見しなかったのは、大東島の土地がまだ余っていて国内経済が順調だったからだ。
だが、列強の接近に伴う逼迫感、産業革命進展に伴う大東国内での地域格差の急速な拡大、コレラの大流行、そして対応が後手後手に回る硬直化した中央政府、新たな知識や情報の氾濫、近世的身分や統治への不満及び統治の限界、様々な要素が大東国内で渦巻くようになる。
●自由主義に至るまで
国家の近代化には、産業革命と自由革命の二つが必要不可欠だとされる。
少なくとも19世紀においては、この二つを成し遂げた国家が先に発展して、国家規模の大きな国は列強として名を連ねるようになった。
19世紀にイギリスとフランスが世界から突出したのは、間違いなく二つの革命が原因していた。
大東国は、12世紀末の建国以来、貴族と武士を中心とした封建制が維持されていた。
しかし大東国の封建制は、日本の公家制度を一部に残すなど古い部分が多々あった。
一方では、中世ヨーロッパや日本の江戸時代ほどの厳密な身分制度はなかった。
大東に宗教というものが無かった事からも分かるように、大東島は気候は全般において穏やかで天変地異も少ない。
だから、住民に無理を強いるような統治をする必要性が低かった。
土地も肥沃で、人に対して余っている場合が殆どだった。
12世紀の大東島は、特に北部など原生林に覆われた未開の大平原だった。
身分制度については、「貴族=武士=民衆」と大ざっぱに括られていた。
さらに分ければ、貴族も武士も同じなので、「武士と民衆」だけになる。
城塞都市の発達で都市住民層は相応の数いたが、彼らはヨーロッパで言うところの「市民」や「公民」ではなかった。
戦乱の時期に自主性は強まり「議会」と呼ぶべき自治組織も作ったが、都市の住人はあくまで「町民」または「町衆」でしかなかった。
全ての民衆には納税の義務こそあったが、それは政府が富を公平に分配する為とされていた。
義務を背負って権利(特権)を得るのは武士以上の役割だった。
また貴族や武士の多くは在地領主で、領地と地域の民衆に根ざした地方政治家といえた。
そして大東国内では、身分の対立よりも地方同士の対立が強いまま残されていた。
大きくは旧大東州と新大東州の対立であり、大東日本人と他の民族の大東人の対立だった。
また大東には権力と結びついた宗教が存在しないため、尚のこと身分制度は単純だった。
貴族と武士が全てを背負っていた。
一方、常に国を外に向けて開いていた大東国内には、大東人の好む合理的な自然哲学(科学)などの文献と共に、ヨーロッパの進んだ思想も流れ込んだ。
当然その中には政治思想も含まれており、大東の学者や文化人の間で次々に翻訳されていった。
キリスト教など宗教関連の書物も、宗教とは関係なく取り入れられた。
この事は、キリスト教関係者を始めキリスト教徒から、非常に奇異な目で見られた。
大東では僧侶のような知識の担い手がいないため、貴族と武士が知識についても先導者となっていた。
神道関係者も知識に関してはある程度の役割を果たしていたが、神道は宗教ではなく国家の庇護もないため、西日本での江戸時代の「葬式仏教」のように冠婚葬祭のみを担い、伝統知識は担っても少なくとも先端知識の担い手ではなかった。
そして東洋では宗教に哲学が付随してくるが(※儒教や仏教哲学など)、大東という国家が宗教というものに疎いため、大東の政府が国内でヨーロッパの思想が一般的に用いられている事に気付いたときには遅かった。
それに国家として他の北東アジア諸国のように鎖国していない以上、輸入を止めることも難しかった。
それに同時に流れ込んでいる自然哲学(科学)は大東の発展に大きく寄与していると考えられていたので、一つを止めるとこちらも止めざるを得ない可能性も高くなるため、政治的に急進的な人間を時折捕らえて流刑にする以外の対策は取らなかった。
なお大東国内での大東人による思想の発展だが、大東は外から文物を取り入れて自分たちに都合のよく改めて使う事が多かった。
このため自分たちに合うように改めることは得意でも、新しい思想や考えを作る事はどちらかと言えば不得手だった。
数学や科学ではそれなりの人物も出て、17世紀前半に名門貴族傍系の田村清隆が関数を発表したことで高等数学の門が開かれ、ヨーロッパから知識を吸収しつつ高等数学、物理学が進んでいった。
知識の集積所も、国営や大貴族が運営する図書館や学問所が作られている。
16世紀には、スペインからの文化的影響で、大東最初の大学が貴族と商人達によって作られた。
金儲けになるならと、商人達も知識の集積と保護育成には積極的だった。
合理的な医学や経済学も、似たような道を辿っている。
19世紀には、欧米より先に新たな発見をする者まで現れるようになる。
そして大東政府や支配層は、知識的、技術的な発展に関しては統制したり止めたりする事は殆ど無かった。
知識の蓄積や研究、技術の発展が自分たちの利益にもなると言う認識があったからだ。
対して思想面は、弱いままの時代がずっと続いていた。
それでも誰もいないわけではなく、18世紀初頭に活躍した河東大介は日本ばかりか中華の儒学、つまり東洋思想からも離れ、独自に西洋哲学を研究して合理論に関する「理ノ勧メ」を発表している。
西洋、東洋の訳本も数多く作られた。
ギリシャ哲学などでも、戦国時代には貴族などが知るようになっている。
しかし大東においては、哲学はあくまで学問だった。
そして19世紀の大東において問題となったのが、18世紀に入ってきた「啓蒙思想」とヨーロッパでも最新となる「自由主義思想」になる。
啓蒙思想が大東に紹介されたのは18世紀中頃だったが、それほど注目はされなかった。
大東人はもともと直接的な行動を好むし、大東国は一度も絶対王政的な政府は出来なかったからだ。
しかし自由主義と結びつく事で啓蒙思想が意味を持った。
とどのつまり、大東天皇を象徴君主化して民衆に権利を持ってくる立憲君主国家を作り出そうという考え方の登場だ。
だが大東人がここに至るまで、もう少しの時間が必要だった。
まずは大東史の上に積もり積もった対立を乗り越えなくてはならなかった。




