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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
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234 Civil_War(1)

 「Civil_War」とは、辞書通りの「市民戦争」や「公民戦争」ではなく主にアメリカでは「内戦」を意味する。

 しかし大東における戦乱の歴史には、「戦国時代」以外で内戦はなかった。

 その戦国時代ですら、後半の一時期は国土防衛戦争だった。

 

 その大東島に、戦いの季節が到来しようとしていた。

 

 しかし同時期、全世界に向けて肥大化しつつあった欧米社会も戦争にまみれていた。

 

 箇条書きにすると、おおよそ以下のようになる。

 


・アヘン戦争(1840年)

・アメリカ=メキシコ戦争(1846年から1848年)

・太平天国の乱(1851年から1864年)

・クリミア戦争(1853年から1856年)

・アロー戦争(1856年から1860年)

・シパーヒーの乱(1857年から1858年)

・仏越戦争(1858年から1862年)

・イタリア統一戦争(1859年)

・アメリカ南北戦争(1861年から)

・ドイツ統一(普墺戦争1866年、普仏戦争1870年、ドイツ統一1871年)


 この上1848年には、ヨーロッパを自由主義革命の嵐が襲った。

 そして同じ嵐が大東にも襲来した。

 順を追って見てみよう。

 



●阿片戦争


 阿片戦争ほど近代の帝国主義を象徴する戦争はないと言われる事がある。

 

 幻覚作用など人体に害悪があり中毒性のある阿片を国家が大規模に密売し、それが取り締まられた事を理由にして戦争を引き起こしたからだ。

 いちおうは清帝国に鎖国体制を止めさせるためという理由もあるが、戦争を起こした理由としては非常に帝国主義的と言えるだろう。

 

 そしてイギリスは、産業革命を一番最初に始めるなど当時最先端の近代文明を有していたので、通常なら負けて普通だといわれた戦争に一方的な大勝利を飾った。

 

 この戦争でイギリスは、傭兵など将兵4000名、軍艦16隻、輸送船27隻、そして蒸気船4隻を動員しただけだった。

 蒸気船以外の船は、全ていわゆる帆船だ。

 軍艦も大型艦は少なかった。

 

 総人口4億を越える文明家に対しては、いかにも戦力が不足している筈だった。

 これがヨーロッパなら、小競り合いを行う程度の戦力でしかなかったからだ。

 

 だが艦艇の中に含まれていた武装蒸気船「ネメシス号」は、風向きのせいで軍港で身動きできない清帝国の軍艦を、一方的に破壊していった。

 当時の清帝国の軍艦には旧式ながら大砲も搭載されていたが、戦闘以前の問題だった。

 

 この時の戦闘は、蒸気機関を実現した産業革命の威力を示す典型例であり、以後世界は産業革命をいち早く実現した国々とそうでない地域に明確に色分けされた一世紀以上の時間を過ごすことになる。

 



●混乱前夜


 大東島では16世紀内に戦国時代が終わると、以後2世紀にわたって安定期が続いた。

 この間大東島は近世技術レベル上で開発しつくされ、人口飽和に達するまでに人の数も増えた。

 

 さらに、北東アジアの他の国々のように、国内に逼塞していたわけではなかった。

 16世紀半ばに手に入れた直船(ガレオン帆船)を用いて、アジア、環大東洋各地へと積極的に進出した。

 進出した先はユーラシア大陸北東部地域、豊水大陸(豊州)、北アメリカ大陸西部、東南アジア、中部太平洋の島々など様々で、19世紀初頭の最大進出範囲は地球上の3分の1の地域にまで及んだ。

 また一時的でも領土化、植民地化した面積は、南極を除く地上の11%~13%に及ぶ。

 ガレオン帆船が活躍した約3世紀もの時間の中で、ヨーロッパ列強を越えるほどの勢力拡大を実施したことは間違いなかった。

 

 清帝国や日本は鎖国することで究極的な国内安定を図ったし、鎖国政策こそが北東アジアでの政権安定の最も手軽な、そして堅実な手段だった。

 だが大東は、基本的に世界の僻地にあるという地理的な優位もあったため、相手の側からやって来ることが極めて少なかった。

 今まで来たのも、日本人を例外とすればスペインぐらいだった。

 オランダとの争いでも、オランダの軍艦は大東島にほとんど近寄ってすらいない。

 

 しかし大東は、相対的な技術レベルから考えると海外に膨張しすぎたという意見が多い。

 膨張しすぎた為、他のアジア諸国に先駆けてどん欲なヨーロッパ列強と接触することが必然となったからだ。

 この論の場合は、日本のように国内で止まっていれば、もう少し長く平穏に過ごすことが出来たし、19世紀前半に経験したヨーロッパ諸国に対する苦労も無かったという事になる。

 

 だが、大東の近世の歴史は、域内の開発と経済発展、人口拡大の為に未開拓地域への拡大もしくは進出が欠かせなかった。

 そして本国となる島の中で足りない資源は、海外から得られた、黄金、毛皮、鯨油、木材など様々な資源がなければ、近世での大東の経済的、産業的、そして人口学的な発展、そして繁栄はあり得なかった。

 また同時に、近隣地域から始まった海外進出が無ければ、今日の大東もあり得なかった可能性の方が高い。

 

 しかし19世紀前半までの大東はあくまで近世型の国家であり、しかも技術先進地域の西ヨーロッパから最も離れた地域に存在していた。

 そして西ヨーロッパが世界に先駆けて「近代」へと歩み出すと、大東は徐々に劣勢に追いやられていった。

 

 もしナポレオン戦争で、先進的な西ヨーロッパの軍隊と本格的な陸上での戦争になっていたら、かなりの確率で惨敗していただろう。

 戦後そうならなかったのは、ヨーロッパ諸国がナポレオン戦争以前の状態を望んだからに過ぎない。

 大東自身も、ウィーン会議で敗戦国とされた影響もあったため、ヨーロッパでの戦争を調べ上げて自らの後進性を自覚した。

 

 そして大東の人々は、外圧に対処するための力を得ようとしてヨーロッパ文明の急速な取り込みを行いある程度成功するが、それは同時に国内に劇薬を呼び込むことにもなった。

 


●産業革命への道(1)


 大東人が最初にイギリスで進行している「産業革命」に興味を向けたのは、ナポレオン戦争の終盤頃だった。

 イギリスが勝利した原動力の一つが、蒸気を利用した機械、工場の生産力だと考えたからだ。


 そうした視点が持てたのは、大東が主に海からヨーロッパの大戦争を眺めていたからであり、ナポレオンが行った大陸封鎖令こそがヨーロッパ社会の物流の流れ、イギリスの加工工業の巨大さを大東に見せることになった。

 

 戦後の大東は、勝者から学ぶという基本に則り、イギリスから技術や知識、現物を手に入れ修得しようとした。

 この試みは、イギリスが自らの金融制度構築のため大量の黄金備蓄を行い始めていた事、大東が比較的豊富な金を持っていた事から、割高ながら望むものを手に入れることができた。


 またイギリス国内での企業による自由競争が、白人ではない大東に大きく優に働いた。

 イギリスの企業家、資本家は、儲けるためなら人種偏見を脇に押しやる事を通常とした。

 

 しかし技術の獲得や修得だけでは産業革命は実行できない。

 産業革命の結果、資本主義が発展したと言われるように、「産業革命」を行うには「資本」つまり大量のお金を集中的に投資しなければならなかった。

 加えて、工場に勤務する大量の低賃金労働者、鉱山労働者も欠かせない。

 当然だが、技術を実現するための知識を持つ者の存在も必要不可欠だ。

 

 他にも様々な要素が必要となる。

 

 上記のものを加えて箇条書きにすると、「資本の蓄積」、「市場の拡大」、「自由な経済活動」、「豊富な労働力」、「豊富な資源」、「有利な輸出先」となるだろう。

 望んだ文物を望んだ場所に即座に移動できる輸送力については言うまでもない。

 

 19世紀前半頃の大東の場合はどうだったのだろうか。

 

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