233 コンキスタドール(4)
●豊水大陸のゴールド・ラッシュ
「ナポレオン戦争」と「ウィーン会議」の結果、大東国はヨーロッパ列強の脅威をより強く感じるようになった。
そして国防の観点からも、植民地開発に熱を入れるようになった。
そして大東にとって最も有望で最も手薄な植民地が、豊水大陸だった。
19世紀に入ったころ、大東島での人口飽和が進みつつあったため、大東政府は残された新天地の開発に力を入れるようになる。
四半世紀前から表面化していた人口飽和は、深刻な問題になりつつあった。
それまでおざなりにされていた勢力圏各地での地図作製、測量、未踏破の内陸部への探検隊の派遣など、かなりの予算と人員を投入した努力が実施される。
特に資源調査に熱心だったが、これは大東本国で産業革命を行うための地下資源が不足していたからだった。
北のサハの大地、北米大陸北西部、そして唯一大東だけのものとなった豊水大陸。
どれも広大な大地が広がる場所だったが、政府が多大な支出と人員を出すことで、精力的な活動が実施された。
そして各地を本格的に調べてみて驚いた。
大東人の見たところ、特に豊水大陸は地下資源の宝庫だったからだ。
(※サハ、荒須加は寒すぎて調査が十分できず。
北米北西部では、この時あまり何も見つからなかった。)
豊水大陸では、19世紀前半の技術レベルでの調査でも、沿岸部を中心に良質の石炭、鉄鉱石の想像もつかない程の大鉱脈が発見された。
銅、錫、鉛といった大東島で不足する資源も、順次見つかっていった(※さらに時代が進むと、ボーキサイトなど他の資源も発見された。)。
こうした地下資源の存在は、諸外国特にイギリスに狙われる事を恐れた大東政府は、出来る限り情報漏洩を防ごうとした。
しかし全く防ぐことが出来なかった地下資源の存在があった。
その資源とは黄金で、噂はたちまち広がって「ゴールド・ラッシュ」が起きたのだ。
大東洋全図と豊水大陸
豊水大陸に金があるかもしれないという説は、古くからあった。
先住民との交流から、先住民は金属加工の技術を全く知らず、金や銀の価値を少しも分かっていなかったからだ。
だが一方で、温暖な南東部でも一見大東島のような情景のため、地形的に金銀銅が存在する可能性は低いとも考えられていた。
しかし大東でも野馬金山の例があるので、探して回る山師は後を絶たなかった。
ウィーン会議後の本格的調査によって、そうした人々の努力というより執念が遂に実を結んだと言えるだろう。
発見されたのは1826年。
ウィーン会議でマラッカ海峡とマレー半島、シンガポール島を得たイギリスが、勇躍して清帝国との大規模な貿易に乗りだし、そしてお茶や陶磁器の輸入による大赤字の末に行った阿片の大量密輸の結果、最後の対清貿易赤字を計上した年だった。
豊水で大金鉱発見のニュースが全世界を駆けめぐった時、イギリスはウィーン会議での自らの失敗を悟ったと言われる。
購入してでも豊水大陸を奪っておくべきだった、と。
また同時に、失点を取り返すために、大東に戦争を吹っかけて大陸ごと奪い取ろうという算段も水面下で実施された。
実際、インド方面の軍備が俄に強化されたり、インドやニュージーランドから豊水大陸の近在に軍艦を「表敬訪問」や邦人警護の名目で派遣した示威行動を実施したりもした。
だが大東も馬鹿ではなく、黄金もそうだが膨大な地下資源を渡す気がないので、軍艦を含め十分な軍事力を豊水各所に配備し、法的にも他国に後れをとらないように動いた。
現地の治安維持のため、多数の治安維持部隊も派遣した。
大東国内では、屯田兵目的の移民の募集も大幅に強化された。
各地の開発も、政府の肝いりで大規模に実施されるようになった。
開発のために、莫大な国庫の支出も行われた。
一方で当時のイギリスは、まだインドの完全掌握に至っていないし、近在のニュージーランドは豊水よりはるかに弱小で、さらに清との貿易問題もあって、アジア・大東洋方面で「まともな海軍」を持つ国と本格的な戦争などしている場合でもなかった。
いかにイギリスがヨーロッパで他国に懸絶する海軍を保有するようになったからと言っても、まだ帆船の時代に自分たちにとっての世界の僻地で同程度の軍事力を持つ相手に戦争をしたいとは考えなかった。
加えて、大東もいちおう「ウィーン体制」に含まれる国家なので、規模が不明のゴールド・ラッシュを理由に戦争を吹っかけるわけにもいかなかった。
大東の事はともかく、ヨーロッパ外交でイギリス自身が不利となるからだ。
豊水の大金鉱は、主に温暖な南東部の2カ所で発見された。
しかし片方はほぼ砂金だけのため、短期間で大量に採掘するも数年で探し尽くしてしまう。
だがもう片方はかなりの規模の金鉱であり、その後すぐに大東政府の直轄鉱山とされ、大東国内の採掘業者に権利を与えて大規模な開発が実施された。
そして16世紀からの優れた採掘技術を有する大東の採掘業者達は、精力的で効率的な黄金採掘を続けた。
豊水でのゴールド・ラッシュは、短期的な砂金取りが約5年ほどで取り尽くすことで沈静化する。
だがこの間に、多数の人々が豊水大陸へとやって来た。
屯田兵など募集する必要すら無かったどころか、大東政府が予測した以上の移民が発生していた。
最初の頃、砂金取りに狂奔したのは、主に従来から豊水各地に住んでいた大東人の移民達だった。
海外から主に来たのは、もちろんと言うべきか大東人だった。
しかし当時の豊水は、特に移民者の規制を行っていなかった。
このためゴールド・ラッシュの噂を聞きつけた大東人以外も、かなりの数が押しよせた。
国別で見ると、一番多いのはイギリス人だった。
豊水の近在にはイギリスの植民地のニュー・ジーランドがあったので、まずはここから約3000人の移民がやってきた。
シンガポールからもやって来たし、インドからも来た。
最終的には約1万人に達した。
他にも東南アジアに住んでいる華僑や日系人の末裔なども来ていた。
遠くヨーロッパからも、数千人がやって来たと言われている。
この間、海外から豊水南東部に押しよせた数は約20万人と考えられており、うち15万人が大東人だった。
そしてゴールド・ラッシュが終わると外国人のうち主にイギリス人を始めとする白人の半数程度は立ち去ったが、帰るだけの金がない者の方が多いため、約3万人がそのまま豊水に永住するより他無かった。
結果、以後の豊水は、東洋人が支配する土地に白人が住む土地となってしまう。
そしてこれは、その後も豊水大陸に僅かながらも白人移民(主に農業移民)が到来する契機ともなった。
またゴールド・ラッシュの間に、砂金取りが目的でない者も多数押しよせていた。
多くは金を見つけた人々に対する商売目的だった。
特に既に豊水に住んでいた大東人移民は、砂金取りに対する商売で大きな財をなす者が多数現れた。
何しろ砂金取りの者は、一攫千金を夢見て着の身着のままの者がほとんどで衣食住全てを持ち合わせていないからだ。
そして砂金取りは男性がほぼ全てなので、性を商売とする産業は濡れ手に粟のボロ儲けだった。
その後豊水は、ゴールド・ラッシュ以前と比べると大きな変化が起きた。
それまで豊水には、巨大な大陸全てを合わせても10万人程度の大東移民しか住んでいなかった。
大東島との間にはまともな定期便すらなく、年に数隻やってくる移民船ともぐりの商船が、世界で最も遅れた大陸に文明を運ぶ手段だった。
しかし1832年頃の豊水の人口は、一気に30万人を越えていた。
大東本国との定期便も開設された。
移民に関しても、人口が増えた事で現地での農業需要が一気に高まった影響で農業移民の本格的な募集が増えた。
大東島での人口飽和を受けた大東政府による農業移民も、ようやく本格的に動き始めた。
金鉱と金を運ぶ船のため、主要港に沿岸要塞も建設され、軍艦の常駐するようになった。
そしてちょうど金鉱のあった辺りが、東海岸中央部から南部にかけては大陸の中では温暖で雨量もあり、場所によってはそれなりに農業に適している事が、その後の移民を増やす大きな切っ掛けとなった。
現地は大東の乾燥している地域程度の雨量のため、稲作はよほど灌漑をしなければ難しかったが、小麦、玉蜀黍栽培、牛、馬、豚、そして羊の飼育などは問題なかった。
過去の移民の結果から土地の滋養分がすぐに無くなることも既に分かっていたので、漁業(魚肥)と連動した開発も心がけられた。
それでも10年単位で大陸規模で長期的に気候が大きく変動するので、開発、開拓には苦労が伴われた。
しかし豊水には、土地がありあまるほどあった。
何しろ総面積850万キロメートルの大陸だった。
当時の技術で農業が出来そうなのは南東部だけだったが、それでも大東島全土より広いぐらいの土地があった。
そして当時大東では土地に対して人口が完全に飽和していたため、定期航路が開設されると待ちきれないように農業移民が爆発的に伸びた。
1820年代から50年ぐらいまでの大東から豊水への移動手段は、まだ普通の帆船(直船の発展系)だったが、それでも1840年代になると毎年10万人以上の移民が大東の大地を旅立つようになる。
1850年代からの移民は、蒸気船の大幅な導入と大東での混乱もあって爆発的に伸びて、10年間で200万人を記録した。
1860年代になると、日本列島からの移民も積極的に出発するようになる。
この結果1860年の豊水の総人口は、自然増加と移民を全て合わせて450万人を記録した。




