231 コンキスタドール(2)
●ウィーン会議
大東国が「ウィーン会議」に呼ばれることはなかった。
大東は今までの海外での活動から、ヨーロッパの流儀はそれなりに理解し、つき合いのために体得もしていた。
だが、フランス語が流ちょうに話せない外交官や政府代表など、呼ぶに値しないと言うわけだった。
ましてや大東は、ヨーロッパから見れば世界の果てにある蛮族の国だった。
しかし曲がりなりにも戦争をした以上は何もしないわけにもいかないので、交戦国となったロシア、オランダそれぞれが、大東と停戦及び講和の為の交渉を持つことになる。
イギリスとの間にも話し合いが持たれたが、イギリスに対しては大東が特に宣戦布告など行わなかったし、戦闘も小規模な海賊行為以外は特に無かったため、海賊行為に対する賠償金支払いが若干行われるだけとなった。
イギリスとしては、この機に大東の植民地の一つも奪えればと考えたが、あまりに酷い火事場泥棒はヨーロッパ外交上(均衡外交上)で好ましくないし、大東の勢力圏の殆どがイギリスから遠すぎるため、結局断念した。
大東の国力と軍事力の大きさも、イギリスを諦めさせた大きな原因だった。
ただし、ヨーロッパにとっての大東が非常に厄介な相手だという事は、一連の戦乱で非常に強く印象付けられる事となった。
ロシアは当初、占領地からの無条件全面撤退と戦争被害として5000万ルーブル(=円)の賠償金を求めた。
5000万ルーブルは、かなり法外な値段だった。
その事はロシアも持ちかける前から理解していたので、代わりに東シベリア(サハ)の西半分の割譲で手を打つとも伝えた。
つまりは領土、わけても大東洋の出口を寄越せと言うことだった。
これに対して大東は、ロシアに対しては再戦も辞さずの態度を取って、ロシア方面に新たな軍隊すら派遣した。
交渉に際しても、自分たちはロシア人に負けたわけではないし、ウラル山脈より東側全てをこのまま保有し続けることも可能だと強い論陣も張った。
そしてロシア以外の国だが、ヨーロッパ世界、特に東部、中部ヨーロッパはロシア人に対する警戒感が強く、近年の急速な人口拡大、国力増大にも強い警戒を持っていた。
このためロシアが大きすぎる賠償を得ることを警戒して、ロシアの肩を持つ国は無かった。
交渉は基本的に大東とロシアの二国で行われ、大東が占領地から引き揚げて旧来の境界線まで下がること、与えた損害に対する賠償金として即金の金貨で500万ルーブルを支払うことで決着した。
500万ルーブルという金額は、当時の大東にとってそれほど大きな金額では無かった。
大東とオランダの交渉は、ロシアより少し複雑だった。
オランダが、フランスに本国が占領、併合されて以後は、大東に占領された地域以外ではイギリスに敵対的だったからだ。
このため話しは、一時は大東の占領地をイギリスに割譲する方向で進んだ。
イギリスとしても、オランダから得るのではなく大東から得る形にすることに一定の価値を見いだしていた。
しかしイギリスは、オランダからケープ(南アフリカ)、セイロン島を得ることで満足し、東インド(スンダ地域)は大東からオランダに返還する方向で話しが進んだ。
そしてここで、17世紀以後今まで入り組んでいたスンダ地域の勢力圏の整理が行われ、スンダ地域の東部と北部(スラウェジ島、モルッカ諸島、小スンダ列島が領土として認められ、ボルネオ島、パプア島の優先権も認められた。
)は大東が、西部のスマトラ島、ジャワ島をオランダが有することで決着する。
オランダはモルッカ(香料諸島)の権利はかなり渋ったが、基本的にナポレオンに本国が占領されてイギリスに敵対した事、東南アジアに十分な力を投射出来なくなった事、香料が商業的にほとんど旨みがない事の3点から、大東へと権利が引き渡された。
それにオランダとしては、農業に適した大人口地帯のジャワ島さえ保持できれば最低限は許容できた。
なおオランダ領東インドと大東領スンダの境界は、バリ島の東側の海峡とされた。
またオランダが交渉を飲んだのは、本国近辺で今までスペイン(ハプスブルグ家)の領土だった南ネーデルランド(後のベルギーなど)を併合したからだった。
大東の賠償などが少なかったのは、戦争に与えた影響が小さいのも理由の一つだが、ヨーロッパから距離が遠すぎる事、大東の国力と技術力、軍事力が他のアジア諸国と比べて高い事、そして何よりこれ以後始まるヨーロッパでの革新的な変化による勢力拡大が、まだ始まったばかりだった事が理由としてあげられるだろう。
また旧秩序の回復をヨーロッパ世界が願った事も、世界の辺境にあるアジアの国に対する風当たりを弱めたと見て間違いないだろう。
また過酷な要求を突きつけた場合に、大東が戦争を再開して来ることを恐れた。
何しろ当時のヨーロッパ各国には、もう一度戦争をする財政的余裕が無かった。
●ウィーン体制下
1815年から45年までが、おおよそ「ウィーン体制」と呼ばれる時代で、ヨーロッパ各国が自由主義革命を警戒した保守体制の事を言う。
そして海外に多くの植民地を持ち、ロシアなどと国境すら接する大東は、ナポレオン戦争(諸国民戦争)にも関わった事もあって間接的にウィーン体制に含まれる国となった。
状況としてはトルコに少し近い。
ウィーン会議後の大東は、外交的に対外戦争に敗北して賠償まで取られた事でかなりの混乱に見舞われた。
国内では貴族政治家の何人かが下野せざるを得なくなり、それまでの有力政治家の欠如は、近世的統治が進んでいた大東において政治的な混乱をもたらした。
この結果、ナポレオン戦争中にヨーロッパで進んだ軍事面での革新的な進歩についても、概念(軍制、訓練方法など)からの導入が開始されるようになる。
高い報酬でヨーロッパから多数の軍人が招かれたりもした。
一方では、ナポレオン戦争が終わって余剰したヨーロッパの武器を買いあさり、とにかくヨーロッパ列強との軍事格差を埋める努力が行われた。
幸い、既に200年間世界で運用されていたガレオン戦列艦(大型直船)そのものの遅れがほとんど無かったため、最も重要な海軍力でヨーロッパの列強に対して劣勢で無かったことが、大東での軍備建て直しと変化の時間を稼ぎ出すことになる。
加えて、ヨーロッパが軍事面でも保守回帰を望んだ事が、ヨーロッパとの格差是正に大きな役割を果たした。
また古来から続いていた大東の軍制が、ヨーロッパ世界で進んだ変化(=近代化)に対応しやすかった事も大東の優位に働いた。
また大東では、ナポレオン戦争の研究が広い範囲にわたって盛んに行われ、イギリスが勝利した原動力の一つが蒸気の力を用いた産業の革新、つまり「産業革命」にある事を知る。
無論、武器と産業革命のために必要な知識と技術の購入には、莫大な財貨が必要だった。
しかしこの時は、イギリスの国家姿勢が有利に働いた。
と言っても、イギリスが大東を重視したり優遇したわけではない。
イギリスが求めたものを、限定的ながら大東が持っていたからだった。
ナポレオン戦争後にイギリスが求めたのは世界の覇権であり、そのためには産業だけでなく金融も牛耳る必要性があった。
巨大な資本なしに、世界の覇権と産業革命の拡大はあり得ないからだ。
そして大量印刷技術の向上により、18世紀後半ぐらいから国家が発行する「紙幣」という今日では当たり前の「お金」が登場する。
アメリカ独立戦争、ナポレオン戦争も、信用貨幣である紙幣(ドルやアシニア紙幣)が存在しなければ様相は大きく変化しただろう。
紙幣が戦費を作り出したからだ。
ポンドはともかく、ヨーロッパ各国の通貨単位もこの頃から従来の銀貨(ターレル銀貨の系列)から離れた。
だが紙幣とは「信用貨幣」であり、お金の価値を決めるための担保が必要だった。
通常は国家の信用そのものが担保となるが、当時のヨーロッパ世界ではまだ国家の信用が足りていなかった。
そこで注目されたのが、歴史上不変の価値を持つ希少金属である「黄金」だった。
当時大東は、世界的に見ても国内で金貨が多く流通している国家だった。
これは16世紀に大量の金を手にしたことと、その後は海外植民地で常に大量の金を供給できたからだ。
17世紀以後の有名な金鉱は北氷海奥地の麻臥旦金山で、前近代の技術でも年間で2~3トン程度の採掘が行われていた。
18世紀には荒須加でも金が採掘されるようになった。
17世紀以後の大東経済の順調な発展も、この黄金による安定した貨幣供給が大きな役割を果たしていた。
そして大きな輸出超過にもならないため、危険な外貨流出も起きていなかった。
そして大東が貿易の決済で支払う純度の高い金貨は、イギリスにとって垂涎の品だった。
大東は麻臥旦金山、荒須加各地の金山の所在地については情報を可能な限り秘匿していたが、イギリスは一時期本気で大東に戦争を吹っかけて大量の黄金を奪うことを考えていたほどだった。
しかしアジアで唯一「まともな海軍」を持つ国に本気で戦争を吹っかけても、あまりにも遠い距離の問題もあって攻めきる事は極めて難しいと判断され、大東と戦端を開くよりは貿易を拡大する方向に動いた。
つまり豊富な金貨が、ウィーン体制下での大東の地位を安定させたとも言えるだろう。
これを象徴する風刺画として、黄金の宝を守る大東を模した巨大な龍と、その前で互いに相談したり龍と交渉する白人の騎士と海賊、商人の絵が残されている。
大東海軍には、「黄金の番人」というあだ名も残されている。




