007 ビバ、インディペンデンス(1)
■大東国の独立「武士の時代の幕開け」
東国≠日本国時代(12世紀~)
・西暦1000年頃(概要)
地球全体が温暖期に入り、日本全体、特に日本の北部地域で農業が盛んとなった。
ヨーロッパでも農業生産量と人口、そして経済力と各国の経済力が拡大。これが「十字軍遠征」の遠因となった。
この頃までに大和朝廷は奈良時代以前の律令制の基本だった人別支配体制を改め、 土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換。
また、このころから荘園制下の土地開発と農法開発により、「いつつのたなつもの」と呼ばれる米・小麦・粟・豆・黍または稗の栽培が全国に広がる。
旧大東州では、広大な平地に生い茂っていた原生林(主に落葉樹)の伐採と開拓が徐々に進み、荘園へと姿を変えていく。
平坦な地形が続くため、開拓は日本列島よりもずっと容易だった。しかし日本列島よりも大きな熊、狼、そして剣歯猫に苦労する事となる。
大東は魔獣の島と言われたほどだ。
また、隠鼠人が絶滅したのはこの頃である。絶滅しても、隠鼠人が着手していたトナカイ放牧などの家畜の飼育技術は古大東人に伝播していた。
また猪を飼う習慣もそのまま維持された。
なお、西日本から大東島もたらされる各種技術と鉄器が農地を拡大していた。鉄器の供給を制御する事で、大東の統治は比較的安定した。
しかし大東島は、日本人達が知る気象条件と少し違う点がある。
旧大東州においては降水量(降雪量)が日本列島より少なく、季節による河川水落差が大きくなる。河川の流量も違っていた。
更に台風もほとんど上陸しないため、全体的に水不足となる。よって、無数のため池を用いた灌漑農業が発展した。
また、保水のため森林資源も一部が人の手により保全される風土が形成されるようになった。
古墳時代には数えるほどしか古墳が造られなかった旧大東州だったが、土木技術に関しては比較的古くから本州からの伝達があったと考えられる。
大規模なため池や灌漑用水路が非常に発展。大和朝廷最初の拠点でもある征東府(現:大坂)付近には、11世紀ごろに建設された城堀と呼ばれる巨大ため池の一部が残存している。
アンコール遺跡群の水利施設と同規模を誇る。
大坂、和良湖の施設は城郭と共に現在世界遺産にも認定されている。また平坦な地形、広大な地形が多いため、その後灌漑用水路を利用する形で、運河と陸内水運の発展が見られるようになる。
この頃、都(首都)の平安京は最盛時15万人にまで人口が拡大し、世界最古の長編小説(紫式部の「源氏物語」)など優れた文化が開花した。
この頃から本州・九州・四国・有州などユーラシア大陸沿いの列島を西日本列島、新旧大東島を東日本列島と呼んだ。大東島からも、奴隷を中心にして京、太宰府に居住するようになる。
この頃から本州・九州・四国・有州などユーラシア大陸沿いの列島を西日本列島、新旧大東島を東日本列島と呼んだ。
・1004年
遼(契丹)と北宋は盟約を結び、北宋から遼へ莫大な財貨が毎年送られるようになった。
・1019年
女真族が北部九州に来襲。小規模だったため、朝廷に与えた影響は軽微。
・1050年
古大東人と蝦夷の部族はこのころ連合し、日本におけるかつての邪馬台国レベルの地域国家を形成していた。
これを”大東国”と呼んだ。もしくは、13世紀に成立する日本系大東国と区別し、”原大東国”、”第一次大東国”などの名称もある。
警戒を強めた征東府は『境東府』を設置。多数の人員を動員して、西日本列島では不可能な巨大な城塞都市の建設を開始。境東府から各地に伸びる街道も整備される
このころ日本列島では、奥州藤原氏の祖先が陸奥に移住。
数十年後、出羽国の先住民系の豪族安倍氏、清原氏が反乱を起こし、奥州藤原氏が鎮圧にあたって武功を挙げた。
奥州藤原氏は朝廷や藤原摂関家に砂金や馬など(時には交易で手に入れた剣歯猫も)の献上品をたっぷりと送り、中央から来る国司も拒まず受け入れて関係改善に努めた。
やがて実質的に奥州は藤原氏の領地のようになった。
奥州藤原氏は十三湊大陸貿易と呼ばれる環日本海貿易によって、北宋や契丹などとの独自の大陸交易を行い富を蓄えた。
契丹はタダで北宋から財貨を得ていたため、大陸交易においては格安で北宋製品を入手できる良い客であった。
日本からは砂金や刀、海産物が輸出された。マルコ・ポーロの東方見聞録に登場する黄金の国ジパングのイメージは、奥州藤原氏の金輸出によるものとの説もある。
また奥州藤原氏は、アイヌを通じて大東国とも密貿易を行った事もあった。
院政の開始。
大和朝廷官僚機構の肥大化がみられたが、官人世襲化は技能伝達・蓄積を容易にしたし、悪いことばかりではなかった。
・西暦1100年
9世紀に日本の侵略が落ち着いて以後も、旧大東州と新大東州の境目となる「二者陸繋」近辺での小競り合いが慢性的に続いていた。
大東国側は陸繋すぐ東側の山岳地帯を絶対防衛線とし、九州博多の太宰府に相当する“境東府”を建設。強固な城壁を持つ要塞を置いて、「経済的」な防衛に当たった。
二者山脈(実際は山脈というより高地だが)における古大東人や蝦夷の山岳防御は、弓兵(弓矢)と戦虎(剣歯猫)を連携させた大東国側が優勢であった。平地では、農業生産力に優れ人口が多い日本が遥かに優勢であった。
大抵は防御の立場だった大東国だが、部族間の融和期などは日本に逆侵攻を行って、朝廷側の優れた文物や技術を奪取、技術力や国力を底上げした。
新大東州では、島の北端まで古大東人による開拓が見られ、一部は千島列島や北千島半島にまで進出し、13世紀中ごろのものと思しき遺跡も現地で確認されている。
更に古大東人の和渡氏などは大陸北方に独自の交易船を差し向け、日本以外との交流を画策した。これを察知した日本側は津軽海峡には海上封鎖のための見張り台を建設、後には奥州藤原氏が水軍を置いた。
大東国の交易船は、未だ蝦夷系氏族が勢力を持つ宗谷海峡経由で大陸との交易を図った。
朝廷は征東府からの報告でこの事実を知り、胆振大宰(現:有守)に北方防備の強化を命じた。
一方、胆振大宰に就いていた宇曽利氏も日本海側の”オタ・オル・ナイ”(砂浜の中の川の意。後の小樽)を貿易拠点に北宋や契丹、粛慎と交易していた。
大東国には奴婢・剣歯猫や魚の干物以外には大した輸出品もなく、競合しなかったため宇曽利氏は放置していたが、朝廷から命じられては取り締まる他ない。
・1111年
蝦夷系氏族が反乱を起こし、鎮圧には10年の時間を要した(胆振十年の役)。
この反乱を経て、それまで”蝦夷”、”胆振”と呼ばれていた西日本列島北端の島を、和人の所有地という意味を強める為に12世紀末からは”有守”と呼ぶようになった。
大東国では12世紀を通じて日本という巨大な敵に対抗し、独自の封建制度が短期間で急速に進歩した。
蝦夷でも農耕文化や中央集権化に適応できた部族は古大東人を戦友として遇し、民族の融合が進んだ。
この民族融合は、1000年以上前に西日本列島にみられたのと同じものであった。
・1123年
金の建国者太祖崩御。女真族はそれまで遼に真珠やテンの毛皮などを安く買い叩かれる田舎者だったが、太祖によって、遼は滅亡寸前にまで衰退していた。
・1125年
遼滅亡。
・1156年
日本、「保元の乱」。日本の中央政治において武士が台頭
・1159年
「大東前八年の役」
天皇と上皇の対立などにうつつを抜かしていた朝廷に、大東国が征東府に入寇したとの報が来たことが発端とされる。
だが原因となったのは、距離の遠さもあって独自性を強めていた征東府の独断による攻勢であった。
京の朝廷は、現有の征東府戦力に加えて関東の源氏系武士を動員しようとした。だが権力を強めつつあった平清盛はこれに反発し、後白河天皇の側近である信西と図って平氏に大東征討を下命させた。
これまでに旧大東州には、既に公家出の多田野氏という武士一族が成長していた。平清盛は彼らを天皇の権威をもって従わせ、1160年に大反攻を実施した。
関東の坂東八平氏も1163年頃から軍船を伴って参戦している。
「大東前八年の役」は、規模の大きさから関東・東海・伊勢の諸平氏勢力の総力を挙げた戦いとなった。
戦争の結果、豊かな新大東島の南半分を征服された大東国は古大東系氏族の離反が相次ぎ、ほぼ抗戦力を失った。
一方で旧大東州は、戦争特需や日本からの大量の人と物の流れによって戦闘特需に沸き、また大きく発展する事になる。