230 コンキスタドール(1)
●ナポレオン時代
ヨーロッパ世界、特に西ヨーロッパの列強が、産業革命の威力と革新的な政治、経済の仕組みを作ることによって地球全土の分割と植民地化を行う少し前、ヨーロッパ世界は大激震に見舞われていた。
と言っても地震ではない。
俗に言う「フランス革命」と「ナポレオン戦争」だ。
この大激震は、「市民革命」と「産業革命」という二種類の革新的な変化をもたらす胎動でもあったが、それだけに大きな混乱でもあった。
フランス革命が始まったのが1789年で、ナポレオンが完全に敗れ去ってウィーン会議が開かれたのが1815年なので約四半世紀の時間になる。
この間イギリスがインドなどの支配を断続的に進めた以外、ヨーロッパ諸国はヨーロッパ世界で激しい戦闘を繰り広げた。
大東にとって、ヨーロッパ世界の出来事は当初文字通り「遠い世界の出来事」だった。
事態がアジアに及んでこない限り、自分たちにはほとんど何の害もないし、逆に何も出来ないからだ。
当時、大東からはヨーロッパに時折交易船や連絡船が出かけるだけで、せめてインド洋に出てきてくれなければ、ヨーロッパ勢力は存在しないにも等しかった。
ごくまれに親書などを持った軍艦が訪問に行く事もあったが、情報収集を兼ねて訪問して挨拶するという以上では無かった。
商人レベルの交易で、必要な産物、情報、技術の多くは手に入ったからだ。
しかしナポレオンによるヨーロッパ征服戦争が進むと、大東にとって他人事ではなくなっていく。
時期にして、西暦1806年の事だった。
トラファルガー沖海戦で破れたためイギリスを潰しきれなかったフランスのナポレオンが、服属させていたスペインを通じて大東への接近を試み、ほぼ同時期イギリスも大東へ外交の職種を伸ばした。
フランスは、自らの大陸封鎖令に従わない国と貿易を行わないようにという要請が主で、できるならフランス側についてイギリスを攻撃して欲しいと持ちかけていた。
ただし大東への見返りは、戦争中に大東が受けられるような恩恵ではなかった。
イギリスにとって、フランスに併合されたオランダは敵国であり、半ば属国化されたスペインも国家としては敵だった。
そして両国は、アジアにそれなりの植民地や拠点、勢力を有しており、イギリスは基本的にはヨーロッパだけで手一杯だった。
そこで大東に自らの側への参戦を促し、その見返りに戦後に占領した地域の割譲や領有を持ちかけた。
戦争中に大東が恩恵を受けない点で、フランス側と同じだった。
また当然だが、自分たちとの貿易継続も求めた。
ここで大東国は、ヨーロッパの詳細な事情が掴めない事もあり、自分たちの周りの情勢を見つつ従来の外交方針に従うことにした。
スペインとは15世紀半ば以来の平和的で親密なつき合いがあり、東インドのオランダ(※ここだけがフランスに抵抗していた)は17世紀からの敵もしくは競争相手だった。
イギリスとの関係は別に良くも悪くもないが、ヨーロッパでの戦争自体はフランスがほぼ勝利しているというのが、この時点での半ば確定的な情報だった。
しかもここで大東がフランス側に加われば、海軍力と海運力、制海権能力でブリテンが不利になる事を意味していた。
大東にとって、選択肢は最初から一つしか無かったと言えるだろう。
大東国は、スペインを通じてフランス側への荷担を実施し、さっそくイギリスとの貿易を停止した。
大東政府は、自国に属する交易船に対して、フランス及びフランスに従う国との貿易のみを行うように通達した。
そして、形だけはスペインと合同という体裁を整えて、対仏大大同盟が無くなるとオランダ領として残っている東インド地域への侵攻を開始する。
まともな抵抗力のないオランダ領東インドは、ひとたまりもなく大東の軍門に降った。
イギリスは、大東の動きに焦りを見せる。
大東の軍事力は、大砲こそある程度旧式だがガレオン船(直船)ではほぼ同レベルなので、本格的な戦争状態に入るとインド洋が危機に瀕する可能性があったからだ。
相手が既にインド洋から追い出したフランスならまだしも、アジアの果ての大東は海洋国家として珍しいほどの大国であり、十分な数の先進的な帆船と軍艦を保有していた。
海軍を中心とした軍隊の制度、訓練度についてもヨーロッパの水準にあり、敵に回すと大きな脅威だった。
大東洋各地の植民地も多く、インド洋を攻撃する能力を十分に持っていた。
南大西洋が攻撃される可能性も十分にあった。
しかも大東国は、スペインの海上交通網を中継することで、今までほとんど行われなかったフランスとの貿易も急速に拡大した。
しかも、トラファルガー海戦以後のフランス、スペインと違って、活動も活発だった。
イギリスの事も、ほとんど恐れていなかった。
ヨーロッパに向かう大東船と、実質的に海上封鎖を実施するイギリス艦船との間で戦闘が起きる事件も起きた。
イギリスは大東国の行動を止めようとまずは交渉を実施したが、基本的に大東とイギリスの関係は希薄だった。
主な交流手段の貿易ですら、関係は薄かった。
大東が主に黄金を代金としてイギリスの工業製品を若干購入する程度でしかなかったからだ。
一応インドでは貿易のライバルだったが、取引相手と取り扱い品目の違いが大きいため衝突するというほどでもなかった。
大東はインドの物産を、主にマラータ同盟に属するインド商人、イスラム商人から買っていた。
そして大東側が、ヨーロッパの戦争はフランスが勝利すると予測している事もあって、イギリスの説得や交渉、さらには恫喝もほとんど無駄だった。
大東軍は、ジャワなどのオランダ勢力を簡単に降伏に追いやって、東南アジアに若干入り込んでいたイギリス軍艦艇も、インド洋に後退しなければならなかった。
しかしこの時点では、大東はフランスに与しただけでイギリスと戦争状態に入ったワケではなかった。
インドの貿易港では、双方の船が並んで停泊したりもした。
双方共に私掠活動(海賊行為)も行っていなかった。
大東の立ち位置は、フランス寄りの中立という事だった。
●ロシア遠征と諸国民戦争
俗に言う「ナポレオン戦争」の後半は「諸国民戦争」と呼ばれる。
ヨーロッパ中の国々が、ナポレオン率いるフランス帝国に反攻した戦いだからだ。
1812年頃から、ヨーロッパでの戦争が再び活発になると、連動して大東国も動き始めた。
フランスが大陸封鎖令を破ったロシアへの遠征を決めた事で、フランスから大東に東からロシアを攻撃して欲しいという要請が出された事が発端だった。
大東国に要請が届いたのが1812年に入ってからだったが、過去の因縁からロシアに対してあまりよい感情を抱いていない大東国は、フランスへの返事を返すよりも先に、サハ(東シベリア)地域での作戦準備を進める。
大東としては、春から夏の間に船でサハ(東シベリア)に兵力と物資を運び込み、秋までに地面がぬかるまない地域を進撃。
ぬかるんだシベリアの大地が固まる時、つまり冬になったら一気にウラル山脈より西側のロシア本土まで攻め上がろうという壮大な構想だった。
大東がこれだけ大胆で壮大な構想を立てることが出来たのは、サハ(東シベリア)を領土化して200年近い年月が経過しているので、世界最高の極寒の地での活動が可能となっていた事、シベリアのロシア人人口が極めて希薄な事を知っている事の二つの要素が大きかった。
そして素早く寒さに強い馬(主に蒙古馬)とトナカイによる軍隊を編成した大東は、ロシア側がまったく予測していなかった事もあって、シベリアでの快進撃を実施した。
当時西ヨーロッパでは新たなスタイルの先進的な兵団が動いていたが、世界の果てでそのようなものは不要だったし、むしろ邪魔だった。
近代的な兵器については、各地に散在するロシア人に対向できるだけの火力があれば良かった。
大東国が用意したのは、騎兵部隊だったからだ。
大東国の兵団は、1万騎以上の騎兵とそれを支える十分な物資、支援部隊(※各種馬約1万5000頭、各種馬車2500台、トナカイ橇1500台など、人員約2万)と、機動砲、各種鉄砲など相応の火力を持っていた。
火砲の中には、持ち運びやすさを買われてロケット砲も含まれていた。
このため、基本的に屯田兵でしかないシベリアのロシア・コサックでは、ほとんどの場合太刀打ち出来なかった。
特に初期の場合、ロシア側は開拓村ごとに分散していたので、各地で大隊(戦闘用の騎兵200騎+支援部隊)以上で迅速に動き回る大東軍が圧倒した。
大東の騎兵団は、たった一年で3000キロメートルも進撃した。
しかし、大東の勢力圏からロシア本土はあまりにも遠かった。
確かに1813年内には、大東の「露西亜討伐軍」は最も遠方に進出した威力偵察部隊(=西方調査兵団)がウラル山脈の西側にまで到達した。
つまりシベリアを横断して、ロシア本土の入り口、つまりヨーロッパに到達したことになる。
陸路ヨーロッパに攻め込んだ東アジアの兵力としては、実にモンゴル帝国以来の事だった。
この間ロシア軍の本格的な反撃はほとんど無かったが、無かったのは当たり前だった。
ロシアは西から押しよせる60万ものフランス連合軍の撃退で手一杯で、一時的であれ辺境のシベリア防衛を切り捨てていたからだ。
それでも現地のコサック約2000名の兵力がロシア本国に増援に向かうことを阻止したし、流石にロシアとしてもボルガ川近辺まで攻め込まれたら本格的な防衛を考えないといけないため、約1万2000名の兵力を引きつける事に成功していた。
とはいえ、ロシアの戦場ではフランス連合の遠征軍などは当初60万もあった。
その後は気象の悪化、進撃の停滞などで激減するが、それでもロシア軍との決戦(ボロディノの戦いなど)では双方10万以上の兵力をぶつけ合っていた。
それを思えば、大東が「引きつけた」ロシア軍の数はたかが知れていた。
加えて言えば、大東軍の先鋒がウラル山脈まで達した頃、フランス軍は既に「冬将軍」に敗れ去っていた。
極寒の地でのノウハウを豊富に持つ大東人から見たら俄に信じられない事態だったが、フランスの敗北は確かだった。
このため大東がこれ以上ロシアに攻め込む意味もなくなり、その年のうちに策源地にしたエニセイ川主流域からバイカル湖近辺の山岳地帯まで引き下がった。
引き揚げるときには、ロシアとの間にも取りあえず停戦条約が結ばれた。
1813年10月の「ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)」でナポレオンが敗れて翌年の1814年5月にはパリが陥落。
そしてナポレオンがエルバ島に配流。
同年9月に「ウィーン会議」が始まると、大東の外交状況は極端に悪化してしまう。
ヨーロッパの情勢に疎いままフランス側についた事が、完全に徒になった形だった。




