229 Daito モラトリアム(4)
■クックの探検(2)
羽合に至ったクックは、ここにも大東人が進出している事にかなり驚いたとされる。
しかし、北極近辺に大東人が進出しているという噂を聞いていたので、大東の言葉(日本語)が分かる通訳を乗せ羽合での交流は特に大きな支障もなかった。
そして羽合で補給と休養を取ると、その後クック達はさらに北を目指した。
そして今度は、羽合の北にある先島諸島の大彩島を経由して、北アメリカ大陸北西部(現在:霧州)へと到達する。
そしてここでも、大東人のコロニーを見ることになる。
北米北西部に到達した最初の大東人は毛皮商人達だった。
次に至ったのは捕鯨船の船員だった。
そしてクックが到達した頃には、既に定住移民(農業移民)が一定数住むようになっていた。
当然と言うべきか、大東政府の施設も開かれていた。
おかげでクック達は、新鮮な食料と水を補給して休養すら取ることが出来たが、この報告はヨーロッパ世界、特にイギリスに一定の衝撃を与えることとなった。
新世界の僻地には、先にテリトリーを広げた者がいたからだ。
しかも、その後クックらは新大陸沿岸を北に進むが、やはりそこかしこで大東人の姿を見付けた。
航海の途中でも、数の激減したラッコを探す毛皮商人の帆船に出会うこともあった。
北極に近づくと、今度は大東の捕鯨船にも出会った。
何しろ荒須加の火依半島には、ごく短い夏の間だけとはいえ鯨の移動に合わせた大東捕鯨の一大拠点が存在していた。
二つの巨大大陸の間にある縁倶海峡に至るまでも同様で、クックらは北大東洋北部一帯には既に東洋人の一派が進出している事をヨーロッパ社会に最初に伝える事となった。
そしてもう一つクックがヨーロッパに伝えた事があった。
大東洋の北部一帯は極東の東洋人の鯨の狩り場となっており、既に大西洋の鯨を取り尽くしつつあるヨーロッパ世界にとっての有望性はかなり低いという事だ。
スペインなどが大東から鯨油を輸入していることが、何よりの証拠だった。
クックの報告は、その後クックの調査にも同行したジョージ・バンクーバーによっても確認され、さらに彼はイギリスに新しい植民地を提供するべく北アメリカ大東洋岸の調査航海を指揮した。
そしてクックらの大東洋探検は、1788年のイギリスによるニュージーランド領有と入植開始へとつながる。
■大東の対外政策
クックの大東洋探検は、武力を伴わない平和的なものだったにも関わらず、大東に少なくない衝撃を与えた。
ヨーロッパ世界と自分たちだけが活動している地域との距離の問題から、北大東洋奥地にヨーロッパ勢力がまともにやって来る筈がないと、先入観優先で考えていたからだ。
しかしヨーロッパ社会全体の膨張が、ついに彼らの手を彼らにとっての世界の僻地へと伸ばさせる事になった。
そしてさらに、大東本国では人口飽和が現実の危機となり始め、大東という国家にとって本格的な入植地が必要となりつつあった。
この二つの要素が、大東に海外進出の歩みを少しばかり早ませる事になる。
政策は大きく、「東南アジアでの自分たちの勢力圏の確定」、「北大東洋全域の領有宣言」、「ユーラシア北東部でのロシアとの境界線の確認」、「東の果ての新大陸(北アメリカ北西部)の調査と開発」、そして「豊水大陸への本格的な入植と詳細な調査」になるだろう。
あと、さしたる期待も持たずに、西日本列島の江戸幕府に鎖国の緩和もしくは撤廃を勧める書簡を出してみた。
そして大東の予想通り、他人の事に口出しするなと言ってきただけだった。
日本が多少なりとも興味を持ったのは、日本よりも技術的に優れていた大東が一般的に使っている各種武器や船についてぐらいだった。
18世紀後半で見れば、大東が使用している武器や艦船はヨーロッパの最先端から多少劣る程度でしかなかったのだから、興味を持つだけマシと言うべき状況だった。
清朝についても、商人を仲介することで似たような書簡が出されたが、17世紀半ばの大東の干渉を覚えていた清朝は、大東が「東の果ての蛮族」と言うこともあり相手にもしなかった。
そして大東は、アジアの他の国とはまともな関係が少ないので(※国交があったのは、東南アジアのシャム、大越、ブルネイぐらい)、仕方なく自国だけで来るべきヨーロッパ勢力の進出への対応を進めていった。
なお、当時の大東の文明程度や技術程度だが、基本的にスペインやブリテンから技術や書籍を継続的に輸入していたので、当時既に世界最先端となっていたヨーロッパ西部と比べても大きな遜色はなかった。
自然哲学(科学)についても、多くが有用な知識や技術に利用されていた。
また、自分たちが赴いた先で様々なものや知識などを得ていたので、大東人自身が自分自身の身の丈については十分把握していた。
だからこそ、大東は特に油断も奢りもなく、とにかく自分自身が今まで手を広げた先の「縄張り」の確保に動いたと言えるだろう。
しかし18世紀も残り四半世紀の頃に限れば、西ヨーロッパに対して大東はかなり有利な位置にいた。
それは人口と直結した国力だ。
1780年頃、大東の総人口は約5800万人。
これに対してイギリス(ブリテン)は800万人程度だった。
当時ヨーロッパで最大の人口を有しているのはフランスとロシアだったが、それぞれ2500万人ほどだった。
プロイセンを含めた神聖ローマ(ドイツ語圏)全体でも2000万人に届いていない。
つまり単純な人口だけ比較すれば、後の国家でいうイギリス、フランス、ドイツを合わせたほどの人口を有していた事になる。
イギリスの産業革命直前なので、この時点でのヨーロッパは基本的にアジアの国々に対して人口とそれに付随する国力面で劣勢だった。
だからこそユーラシア各地の国々は、軍事力に優れた西ヨーロッパ各国の本格的な侵略を受けていなかった。
総人口が最低でも4億人いた清帝国が世界最大の帝国であり、当時の清帝国皇帝が貿易を求めたイギリスの商人に、自分たちが海外から欲しいものはないと言ったのも偽りのない事実だった。
大東の人口は流石に清帝国より少なかったが、それでもインドのマラータ同盟を除けば、清帝国に次ぐ人口大国だった。
そしてこの場合、6000万人という数字と基本的に海運が盛んな島国だという事が重要だった。
清帝国は巨大すぎる国内人口と、基本的に大陸国家であるため、国家としての動きが緩慢にならざるを得なかった。
前工業時代となれば尚更だった。
だが大東程度の人口ならば、島国で海運と商工業が発展しているという利点もあって、次の時代へと自力で進むだけの機動力と余裕があった。
そして大東は、海外への大規模移民という手段を用いて国内の人口調整と国内安定に乗り出そうとしていた。
同時に大規模移民は、海外領土の永続化を進める手段にもなり、結果として大東にとって一石二鳥の政策だった。
そして大東には、西ヨーロッパの列強に対して「極東」という地の利があった。
大東は地の利とそれによって得た時間を十分に使い、自分たちのテリトリーの確保を図ることができた。
さらにまた、ヨーロッパ世界の情勢が一時的に大東にとって有利に働いた。
イギリスとフランスは、北アメリカ東部とインドでの勢力争いにかまけた。
さらにフランスに勝利したイギリスは、インド征服の戦争にのめり込むも、「アメリカ独立戦争(1775年~1783年)」で一時的な後退を余儀なくされる。
しかし、北アメリカでイギリスの足を引っ張ったフランスは、今まで積もり積もったマイナス要因に、戦費による国家の債務が異常なほど膨れあがり、ついに民衆の不満が爆発する。
これが1789年に発生した「フランス革命」だった。
そしてフランス革命から四半世紀の間、ヨーロッパ世界は大きな戦乱期に入る。




