228 Daito モラトリアム(3)
■クックの探検(1)
18世紀末、大東国が本格的な大規模移民を考えている頃、世界情勢が大東にとって不利な方向に動き始めていた。
まずはロシア。
女帝エカチョリーナによって躍進していたロシア帝国は、1770年代に入ると再びシベリア(=大東名:沙波)の開発に力を入れるようになっていた。
表向きの目的は商業の拡大だが、本当の目的が領土拡大なのは明白だった。
凍らない海を目指すロシアは、東の果ての大東洋に出ることのできる海を、大東国から何とかかすめ取れないかと動いたのだ。
しかし、当時のロシア領から最も近い大東洋側の海(北氷海)まで1000キロメートル以上あった。
北極海から船で大東洋に出る事も、厳しい自然環境のため極めて困難だった。
そして大東国は、武力で押しのけるには、十分な国力と高い技術力を持った大国だった。
このためロシアの行動は、大東との間の交易を拡大して、大東がいまだかなりの量を産出し続けていた金を貿易によって獲得するというだけで済んだ。
大東にとっても、当時スペインが元気を無くしていたため、ロシア人が持ってきたヨーロッパの文物はかなりの価値があった。
そして互いの皇帝が親書を交換したり使節が行き交ったりしたので、歴史上の表向きは東露友好の時代と言われることもある。
しかしロシアとの交渉では、ロシア側が交渉を有利にするために軍隊を境界線に並べたりする事もあるため、大東側は久しぶりに海外勢力からの脅威を感じるようになる。
だが、ロシアよりも問題だったのは、イギリス(=イングランド=イングリッシュ)の行動だった。
1770年秋、豊水大陸から戻ってきた定期便の早船(高速直船)が、驚くべき来訪者があった事を伝えた。
イギリスのキャプテン・クック(ジェームズ・クック)がエンデバー号で豊水大陸にたどり着いたのは、1770年4月20日金曜日だった。
この時たどり着いた場所に大東人は足跡を残していなかった為、彼らは百年以上前にオランダ人が発見した、「未知の新大陸」に到達したと思っていた。
これは、大東が豊水大陸の事を諸外国に特に何も言っていなかったからで、大東側にも責任があった。
しかしエンデバー号が北上すると、そこが原始時代のままの大陸ではないことが分かってきた。
ヨーロッパら見たら未知かもしれないが、東アジア世界では未知でも何でもなかったのだ。
彼らが高度な文明と出会った場所は、大東人が征南と名付けた入植地だった。
そこには、既に1万人近くが住んでいると見られる東洋風の街並みがあった。
港湾部は街の規模以上に整備され、大型のガレオン船も接岸可能な立派な岸壁も整備されていた。
実際ガレオン船も接岸していたし、警備のための中型の軍艦も駐留していた。
沿岸の要所には、多数の大砲を据えた石造りの沿岸要塞もあった。
周辺部の土地もヨーロッパ人には多少違和感はあるが十分に開拓されており、現地人に案内された内陸部には田園や牧場が広がっていた。
そこに住む人々も、ヨーロッパとは文化風俗は違いながらも十分に文明的だった。
接近してきた事に気付いた「原住民」は外国船への応対の仕方も心得ており、敵意の無いことを示すと船の誘導を始め、無事接岸と友好的接触が実施された。
言葉についても、スペイン語を話せる者がいたので互いの意志疎通もある程度可能だった。
そこでようやくクック達は、たどり着いた場所が東の果てにある大東国が保有する入植地である事を知る。
当時のヨーロッパでアジアを知る者にとっての大東国は、世界の最も東に位置する「ジパング」もしくは「チャイナ」の一地方で、諸外国とも広く交易を行う東アジアでは珍しい地域とされていた。
少し物知りなら、スペイン船の寄港地だと知っていた。
クックの祖国イギリスとの間にも、インド洋での貿易が小規模ながら行われていた。
このため現地の大東人は、船がインドからやって来たものと思っていた。
その後大東人の案内を乗せたエンデバー号は、大陸東部の大環礁を北上して豊水大陸各地を巡回し、大東人が築いた入植地や流刑地の案内を受け、自分たちがたどり着いた場所が未知の新大陸ではなく、既に開発された他国のコロニー(植民地)に過ぎないことを知る。
しかしこの時の航海でクックが発見したニュージーランドには、大東人はたどり着いていなかった。
少なくとも入植していないし、痕跡や標識も見付けられなかった。
このため、この時の航海のすぐ後に、イギリスにより領有宣言が出された。
そしてその後、1788年のはじめに前哨基地と囚人の入植地を設置するために、アーサー・フィリップ艦長率いる東方第一艦隊がニュー・ジーランドに上陸し、以後ニュー・ジーランドは正式にイギリスの植民地とされる。
この事は、今日においても近世における大東政府の海外政策の失敗だと見なされている。
ただし大東人がニュージーランドの事を知らなかったのではなく、凶暴な原住民がいる開発する価値の低い場所と判断していたため、進出を行わなかっただけだった。
少し先まで追ったが、とにかく大東人はイギリスの探検隊がヨーロッパ勢力が今までたどり着かなかった場所に到達したことを酷く驚いた。
しかもクックは、その後さらに二度探検隊として大東洋にやって来た。
1772年から1775年の二度目は南大東洋だったので、大東の警戒は半ば杞憂に終わったが、三度目は大東にとって憂慮すべき事態だった。
1776年~1780年にかけて行われた航海では、1778年クックの率いるレゾリューション号、ディスカバリー号が大東洋を南北に縦断して羽合諸島に到達したからだ。
当時羽合諸島は、大東の捕鯨船の一大拠点となっていた。
16世紀末から活動を活発化させた大東の捕鯨船は、国内の旺盛な需要を満たすべく鯨の狩りを続けて北大東洋を彷徨い、いくつかの偶然と必然の結果、18世紀初頭にハワイ諸島に到達した。
正確な年は分かっていないが、1705年頃だと考えられている。
そしてハワイ諸島が鯨の夏の一大繁殖地だったため、周辺一帯での捕鯨が盛んとなった。
クックらが訪れた時は、まさに最盛期で、年間約100隻の捕鯨直船が羽合諸島・小和府島の真珠湾を利用していた。
こうした捕鯨船の船員を商売とする人々も大東島からやって来て、中には農業移民として移住する者もいた。
家畜も多数持ち込まれ、現地人の生活、文化の多くも大東の影響を強く受けていた。
文字も基本的には日本語のカナ文字を使うようになり、宗教ですら大東の神道が大きな影響を与えた。
一方では、大東人が持ち込んだユーラシアの疫病の数々(天然痘や麻疹)が原住民を激減させ、接触時40万人程度いたと考えられている羽合の先住民は、四半世紀後には9万人にまで激減していた。
そして大東人が訪れた当時の羽合は、最大規模でも一つの島を統治する「アリイ・ヌイ」と呼ばれる大族長による統治が行われていたに過ぎなかった。
多くはまだ一族単位の族長レベルで、国家の形成にはほど遠かった。
そこに疫病による感染爆発が襲いかかったため、羽合の既存社会は一度崩壊の危機に瀕した。
当然大東人が疑われ、捕鯨船員達の素行不良もあって各所で争いが発生した。
そして小数の場合は、数の差で大東人が船ごと全滅に追いやられる場合もあったが、大東の捕鯨船とその業者の反応はかなり早いものだった。
複数の船で船団を組み、傭兵を多数雇って本格的な戦闘を仕掛けたからだ。
そして船には大砲が搭載され、傭兵は羽合人が加工法すら分からない鉄の武具を持っていた。
しかも傭兵達は、厳しく訓練された優秀な兵士だった。
何度かの小規模な戦闘のあと、小和府島のアリイ・ヌイと大東捕鯨船員の代表との間に話し合いが持たれ、幾つかの技術と交換という形で真珠湾とその一帯が大東人のものとなり、便宜上大東の代表者が真珠湾一帯のアリイ(族長)とされた。
その後も捕鯨の活発化に伴って大東人の羽合での勢力は増えたが、侵略や併合、植民地化について大東政府は消極的なままだった。
せいぜいが、移民の候補地にならないかと考えたぐらいだった。
このため捕鯨を行う現地の網元や大商人が、幅を利かせていた。
そしてクックが来訪する頃の羽合は、現地の人々が大東人の捕鯨を見つつ徐々に一つの王国を形成する動きを見せている所だった。




