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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
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227 Daito モラトリアム(2)

■日本の国内情勢


 江戸時代に入り限定化した鎖国政策を本格化させてからの日本は、江戸幕府の努力の甲斐もあって国内は完全な安定期に入った。


 18世紀序盤までは、人口に対して国土もまだ余裕があったので、人口の拡大と共に経済発展も続いた。

 国内で不足する金やその他の物産も、足りない分は大東商人が持ち込んでいた。

 

 なお、戦国時代が終わると急速な人口拡大が見られ、18世紀に入る頃から人口飽和が見られるようになった。

 だがそれも、17世紀中頃から本格化していた大東への事実上の移民によって、人口圧力は大きく緩和されていた。

 

 農村部で不要となった二人目以上の無事に育った若者達は、不必要に江戸や石山などの大都市に流れてそこで朽ちることもなく、一縷の希望を託して大東へと旅立っていった。

 江戸幕府がこの移民事業を推進し、移民船ばかりか支度金やある程度の道具などすら持たせて、大東に渡らせたりする事が日常化していくようになる。


 大東政府も、国内にまだ十分に開発余地があったし、諸外国との競争のための国力拡大を求めていた為、日本からの移民を積極的に受け入れた。

 大東政府も江戸幕府も、移民による危険はある程度考慮したが、日本から大東への一方通行のみとした事で、様々な危険を回避するようにした。

 

 そして大東へと移住した日本人達は、当人達の思惑とは全く関係なく、日本と大東という日本人社会の共通化、平準化に極めて大きな影響を果たしていく事になる。

 

 さらに一部の者は、大東が領有する海外領へと旅立っていった。

 

 また、日本国内での技術開発と改善に並んで、オランダと大東から一定程度の技術や知識が輸入されていたので、日本(江戸幕府)が世界の最先端から取り残されると言うことはなかった。

 特に同じ言語を用いる大東からの様々な書物は、一般向けとして重宝された。

 大東を経由した最も大きな学術上での変化は、アラビア数字(プラス計算符号)の導入だと言われている。

 

 海外の情報についても、オランダからだけでなく大東からも一定割合で世間一般にも流れ込む形が続いた。

 このため、日本人一般が自分たちの世界以外の世界の事に対して、全くの無知という事も無かった。

 大東から伝わる海外情報は、「浦賀語り」と呼ばれ江戸庶民の娯楽ですらあった。

 

 江戸幕府の中にも、主に大東を経由して海外情報を収集、研究する部署が置かれていた。

 また、交流の中には、移民した者と残った者の間の交流手段として、実質的には近代的といえる郵便制度が日本、大東の間で作られたりもした。


 移民した子供達に手紙を書くために、庶民の間で識字率の向上が見られるという影響もあった。

 この書面による交流は日本の鎖国に触れると考えられたが、検閲を行うことで江戸幕府も認めていた。

 これは江戸幕府が、増えすぎた人口を手紙によって移民に導こうとしたためだ。

 


 他方では、八代将軍徳川吉宗の頃(18世紀前半)に、大東から導入した馬鈴薯栽培が有守州北部の開発に大きな役割を果たすなど、外から持ち込まれた文物による変化も見られた。

 この結果、有守島のさらに北にある樺太島の探検や開拓が進むことにもなる。

 また徳川吉宗は、大東から武器の新技術輸入を図り、軍船(直船)、大砲、鉄砲の導入を行ったりしている。


 逆に日本からは、年々各種手工業品の大東への輸出規模が拡大した。

 このため西日本列島での手工業の拡大と発展が促進された。

 家内制手工業から工場制手工業の発展の早さは、大東への大量輸出がなければかなり違っていた可能性が高い。

 

 日本の貿易面で少し変化が見られたのは、18世紀後半の俗に言う「田沼時代」だった。

 

 田沼時代は、日本の江戸時代におけるちょっとした重商主義時代であり、大東との交易もさらに拡大した。

 

 この頃日本では、有守州北部とその北にある樺太島の開発も行われ、有守州の近海や北氷洋で捕れる豊富な海産物(俵物=乾物)が清帝国に輸出されて大きな富を生み出した。

 また大東との取引でも、絹や工芸品、加工食品(酒、味噌、醤油など)の輸出が伸びて、大東が勢力圏内から集めている豊富な金(金貨=黄金)が流入して経済活性化の要因となった。

 

 一方では、この頃から大東が江戸幕府(日本)からの移民の受け入れを徐々に制限するようになり、もう少し時代が進むと拒むようになっていた。

 大東国内でも、18世紀後半ぐらいからついに人口飽和が始まっていたからだ。

 

 またこの頃、有守州北部の千島列島を巡って、両者の間でほぼ初めてと言える国境問題も発生した。

 そして外交関係のこじれが、なおさら日本から大東への移民を減少させる事になる。


 この結果江戸幕府では、本来ならば産児制限や結婚年齢の上昇などに社会全体を特化せざるを得なかった。

 移民のための船を出すのが大東商人である以上、日本側にはどうにも出来なかったからだ。

 

 しかしこの頃、大東の側から別の提案もなされるようになった。

 大東島への移住は無理だが、他の新天地なら追加料金を足せば送り届けることができる、というものだった。

 

 そしてその新天地とは、大東国が領有する豊水大陸や北アメリカ大陸西部沿岸だった。

 



■大東の国内情勢


 大東が貿易によって自国の通貨について気を遣ったのは、地域、地方によって大きく異なる農業品目での納税の均衡が難しい大東島では、西日本列島以上に貨幣経済を必要としたからだった。


 大東では、日本で実施された米の単一品目による租税徴収と武士(=官僚・軍人)への給与制度は、したくても出来なかった。

 しかも、17世紀以後爆発的に増大する国内の人口と経済が、大量の貨幣を必要とした。

 


 新大東州北部にある金城近辺の大金鉱は、16世紀初めの発見から100年以上にわたって大規模に採掘され続け、予測総量約1400トンもの黄金を大東もたらした。

 当時の世界標準の金貨に換算して4億枚分にもなる。

 

 当時の世界標準、つまりヨーロッパ標準の金貨は北イタリア・フィレンツェで生まれた「フローリン金貨」で、同じだけの価値を持つ銀貨がドイツ南部で作られた「ターレル銀貨」だ。


 大航海時代の貨幣比較は、主にターレル銀貨(※スペイン名「ドレル銀貨」)によって行うことができる。

 なぜならヨーロッパの殆どの地域で、ターレル銀貨と同じ価値を持つとされる銀貨が鋳造されたからだ。

 そして大東もスペインとの交易があったため、効率を重視して同程度の貨幣を鋳造した。

 

 大東の場合は多くが金貨だが、当時の視点からだと膨大という言葉すら不足する金貨を輸出して、同じ価値の銀貨と銅貨を手に入れて、16世紀中には自国内の通貨制度を整えることに成功している。

 貿易や戦乱での流出、貴金属になった分を差し引いて、採掘されたうちの7割の価値を持つ貨幣が、17世紀初頭の大東では流通していたと考えられている。


 大東国内でも、スペインが鋳造するドレル銀貨は一般的に流通していた。

 また海外では大東政府が鋳造した金貨は(金虎貨)、純度の高さから非常に高い信用を持っていた。

 

 その後国内の金鉱がほぼ枯渇すると、ユーラシア大陸北東部の北氷海奥にある麻臥旦近辺に大規模な金鉱が発見されたため、ここが新たに大東の金蔵となった。

 さらにその後、18世紀に荒須加の濃夢海岸で大量の金が砂金の形で見つかり、さらにその後の荒須加内陸部(番楠)でも大規模な金鉱開発が行われた。

 おかげでその後の大東は、人口と経済、海外貿易の拡大に似合うだけの貨幣を増やし続けることに成功した。

 

 大東島は、西日本列島以上に黄金の国だった。

 

 そして経済さえ安定していれば、国内統治は安定しやすい。

 特に住んでいる地域が人口飽和しなければ、巨大飢饉でも起きない限り住民はなかなか文句は言わないものだ。

 島国で他国と国境を接していないなら尚更だ。

 

 16世紀末に成立した大東国の政府も、内政統治には相応の努力を傾けていた。

 統治の邪魔になりがちな犯罪者や無法者も、どんどん自分たちが持つ外の世界に流刑や「強制移民」の形で放り出した。


 国内で足りない資源や資材も、銀や銅と同じように可能な限り海外から調達した。

 大陸北部での林業は、大東経済に無くては成らないものだった。

 

 しかし、安定した時代、経済的にも安定した時代は、大規模な人口増加が起こりやすい。

 しかも16世紀以後は、世界各地から新たな有効な農産物(※馬鈴薯ポテト甘芋スイートポテト東黍コーンなど)がもたらされたため、技術の発展と相まって人口は爆発的に拡大した。

 

 それまで穀物(米か小麦)の栽培に向かなかった場所では、甘芋、馬鈴薯が栽培され、温暖で雨量の少ない一部では東黍の栽培も行われた。

 どの作物も収穫量が多く、面積当たりの人口包容力が非常に大きかった。


 従来の小麦についても、世界中から集めた込た小麦を用いた品種改良が実施され、農法の改良も実施された。

 各種家畜についても同様で、優れた品種が次々に生み出された。

 北部の新大東州では、西ヨーロッパ最新の農法(混合農業)も、技術指導の「お雇い異人」を連れてきてまでして導入された。

 

 ここで少し総人口の推移を示して次に進もう。

 


 戦国時代開始頃(1560年頃):2,250万人

 戦国時代終了頃(1600年頃):2,150万人

 1700年頃:3,600万人

 1750年頃:5,100万人

 1800年頃:6,050万人


 19世紀初頭の大東島全体の総人口は約6000万人。

 人口密度は島全体だと約90人。

 南部の旧大東州は220人、北部の旧大東州は35人程度となる。

 ただし新大東州の北部は、一部がトナカイ放牧しかできないタイガ(針葉樹林)で覆われた亜寒帯に含まれるなど寒冷な気候のため、極端に人口密度が低くなる。

 

 ちなみに同時期の日本が約100人、当時ヨーロッパで最も人口密度の高いフランスが50人程度となる。

 

 年間降水量が少なく家畜の飼育が多いため、平地が格段に多い大東島の方が平地での人口密度は日本よりもかなり低い。

 このため全体の印象としては、日本よりも土地の使い方は贅沢となっている。


 何しろ日本の利用できる平地の合計面積は10万平方キロメートルほどしかないので、平地の人口密度は350人近くなる。

 大東島の最も人口密度の高い地域と比べても、1.5倍ほどあった。

 

 しかし約6000万人という数字は、近世末期の大東島の技術レベルでの本当の意味での人口飽和状態を意味していた。

 子孫への財産分与の考え方がないので同時期の中華中原よりはマシだが、楽観できる状態ではなかった。

 余った人は、都市部かさもなければ海外に放り出すより他無かった。

 

 大東での開発限界は、18世紀中頃から見られていた傾向で、17世紀末頃から増え始めた日本人移民が、大東島の人口増加をさらに押し上げていた。

 

 18世紀半ばからは、豊水大陸などへの「棄民」、疫病で勝手に人口が減ってくれる熱帯地域への事実上「棄民」が政府主導で徐々に拡大していた。

 連動して、18世紀末には日本からの人の流れも止めるようになる。

 この結果、日本では産児制限、結婚年齢の上昇などに特化し、少ししてから大東商人の手により豊水大陸、北米大陸などへ移民する流れが作られた。

 

 しかし19世紀に入る前後、大東の東京御所では本格的な移民、大規模な入植による本国の人減らしについて真剣に考えられるようになる。

 だが、近在の北極地域は入植には全く適さず、それ以外の場所への入植が本格的に考えられるようになっていた。

 豊水大陸以外にも、荒須加の東に広がる北アメリカ大陸北西部沿岸地域の調査も本格的に実施されたりもした。

 

 しかしその頃、ヨーロッパ世界は世界の果てまで欲望の手を伸ばそうとしていた。

 

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