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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
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225 New Frontier(3)

 ●大洋州と大東


 17世紀中頃、大東がオランダと対立を続けている頃、一つの海外進出の機会が訪れていた。

 

 西暦1642年、オランダのタスマンは新大陸を発見した。

 

 ラテン名「テラ・アウストラリス・インコグニタ」、オランダ名「ニュー・オランダ」、今の豊水大陸とその近在の島(※オランダ名「ファン・デ・イーメンスランド」=タスマニア島)の事だ。

 さらにこの時、ニュー・ゼーランド(=ニュージーランド)も発見されていた。

 

 しかし本当の最初の発見は、1522年にポルトガル人探検隊によって行われたという説がある。

 大東人の交易商人も、同時期に見付けていた可能性もあった。

 だが、金も香辛料もとれない荒地であるため、いずれも放置され、そして忘れられていた。

 


 大東国が最初に南の新大陸の情報を知ったのは、スペイン商人との取引上だったと言われている。

 

 両者にとっての宿敵ネーデルランド人が、南の果てに幻の新大陸を発見したという話が発端だった。

 ネーデルランド人の足を引っ張ろうとしたスペイン政府の謀略だったという説もあるが、大東にとっては文明人のいない新大陸が、すぐに出かけることの出来る場所に有るという事に意味があった。

 

 また一方で、新大陸の場所が自分たちが航路としている西大東洋の茶茂呂航路の南方にあることから、大東人は相応の脅威を覚えた。

 このため、立ち寄った場所がどのようなものか、オランダが拠点を設けていないかを調べることにした。

 

 大東国は、4隻の乙型直船(中型直船ながら航海能力に優れた船が選ばれた)で大洋探索衆(探検隊)を作り、約1500名が探検に従事した。

 

 赤道を越えた調査艦隊は、既に大東商人も進出していたティモール諸島に進み、ポルトガルの植民地で補給を終えた後に、噂の新大陸へと接近した。

 

 そしてパプア島とは明らかに違う大地の連なりに出る。

 そこは亜熱帯系の比較的乾いた大地で、パプア島の濃密な熱帯雨林とは大きく違っていた。

 このため、パプア島よりもオランダ人がいる可能性が高いと判断し、沿岸に接近して海岸線をなめるような航海が続いた。


 上陸に適した場所では、自分たちも上陸して調査を実施した。

 そして彼らは、約半年かけて新大陸をほぼ一周して調査航海を終えたが、分かったことは新大陸の多くの場所が入植地を作るのに向いていないという事だった。

 

 北部は亜熱帯ジャングルかサバンナ、南部と西部は砂漠か不毛な草原ばかりだった。

 人が住めそうなのは東海岸の真ん中辺りから南東海岸にかけてだが、念のため上陸して調べたところ沿岸部に住む文明程度の低い原住民に出会っただけだった。

 

 オランダ人の拠点は、痕跡すら見付ける事はできなかった。

 原住民と珍しい動物や植物には多数出会ったが、どれも土産話のネタ程度のものばかりだった。

 

 しかし予算をかけた探検で何の成果も無しでは話しにならないので、真水や生鮮食品(狩りの獲物)が手に入りそうな場所のいくつかに大東の標識を立て回った。

 その過程でタスマンが見付けた南東部にある中規模の島も発見され、茶茂呂島と名付けられた。

 新大陸の方は、オランダ人の名付けた名前では何かと問題があったので、独自性を求めた末に「豊水大陸」と名付けられた。

 

 この名は、最初の発見があった時に大陸南西部が雨期だった為だと言われている。

 実際は世界で最も乾いた大陸だったのだが、最初に発見した時には大陸の全貌など分かるはずも無かった。

 そして発見以後「豊水」の名が用いられ続けた為、そのまま正式名称になったという経緯になる。

 

 なお、大東国による命名だが、それほど深く考えられた行動ではなく、領有宣言をしたところで拠点を作ったり人員が滞在したわけでもなかった。

 

 しかしこの時は、大陸沿岸の航行を続けたため、オランダ人が見付けたというニュー・ゼーランドという場所を発見する事は出来なかった。

 このため、新大陸のどこかがニュー・ゼーランドなのだろうと推測された。

 これはタスマンが、ニュー・ゼーランドも大陸の一部と勘違いしていた事も原因していた。

 


 この時の大東の調査と探検、そして航海はこれで終わり、四半世紀ほど新大陸のことを忘れてしまう。

 

 大東国の官僚武士たちが思い出したのは1670年代末頃で、目的はオランダとの戦争ではなかった。

 思い出した切っ掛けは、インドネシア地域東部に出かける商船、武装商船が時折新大陸に立ち寄って真水の補給や修理のための木材、生鮮食料としての肉を獲得した記録であった。

 

 そして商船が立ち寄る地域は豊水大陸の北西部沿岸に集中しており、そこは大半が不毛の大地だと記されていた。

 これが東京御所の役人の目に止まったのだ。

 

 官僚達の目的は、新たな流刑地を獲得する事だった。

 

 17世紀に入ってからの流刑地といえば、基本的に北氷海の北に広がる極寒の大地だった。

 だがそこはロシア、清朝との係争地にもなっており、流刑地には不向きとなっていた。

 国としての開発も徐々に本格化していたので尚更だった。

 このため、別の場所に重罪人の流刑地が欲しかったのだ。

 

 この時の候補としては、別に荒州とも呼ばれるようになっていた荒須加もあったが、この時東京御所は特に重罪の流刑地に荒須加を、それよりも若干軽い流刑地に新大陸を充てようと考えた。


 新大陸がやや軽い流刑地として考えられたのは、遠い将来の入植地として新大陸が使えるかも知れないと言う思惑があったとも言われているが、記録にも残されていないので真相は歴史の闇の中だ。

 しかし大東政府が本腰を入れて動いたことは間違いなく、まずは測量、地図作製の為の探査艦隊が派遣された。

 

 この頃は、既にオランダはイングランドとの戦争に敗北寸前のため、大東の動きを邪魔するものもなく調査は順調に進んだ。

 この結果、約一年で豊水大陸のおおまかな地図、位置などが明らかとなった。


 同時に大陸周辺の地図作製も実施され、大東国は大洋州での圧倒的優位を得る事になる。

 この時の調査で新たに発見された島や諸島も多かった。

 

 そして1680年、南東部の一角に4隻からなる大東国の船団が到着。

 囚人と看守、合わせて1200名が上陸して、持ってきた資材を用いて開拓と自分たちの住む場所を作った。

 

 この時、特に囲いを作った刑務所や収容所のようなものはなかった。

 文明世界から隔絶した大陸そのものが、巨大な壁や掘そのものだからだ。

 そして囚人達は、現地での開拓による減刑と恩赦が約束されていた。

 がんばりによっては、祖国への帰国や豊水で土地を正式に取得する事も認められていた。

 


 一方、政府の話しを聞きつけた交易商人の一部も、いちおう政府の許可を得て豊水大陸に足を運ぶようになった。

 彼らは流刑地となった土地よりもさらに南、つまり気候の温暖な場所を選んで、そこを「征南」と名付けた。

 

 この商人達は、回船問屋つまり海運会社だった。

 しかも当時大東の交易が全体として縮小傾向にあったため、新しい「荷物」や「商品」を得ようとしての行動だった。

 つまり移民や流刑人の運搬は、「荷物」として以上に興味はなかった。

 

 しかし「商品」が集まらなければ意味がないので、かなり力を入れて大東国内での宣伝が行われた。

 特に、人口が急速に増えている旧大東州中原での宣伝に力が入れられ、新天地の噂が既に広がっていた事もあって、意外に容易く開拓移民の希望者は集まった。

 

 そして回船問屋は、集まった開拓希望者の有金をねこそぎ巻き上げて船に押し込み、目的地で降ろしたらあとは知らない、という無責任な行為を日常的に行った。

 

 一応は降水量や見た目などそれなりの場所に降ろされたが、豊水大陸そのものは大東島よりも厳しい自然環境だった。

 一見、木々が生い茂る肥沃な温帯平原に見えても、その大地の肥沃土は地球上の他の地域(大陸)とは比べものにならないほど貧弱だった。

 降水量も全般的に少なく、南東部はともかく大陸の過半は乾いていた。

 また数十年周期で気候が変化する場所が多く、継続した開拓と農業を妨げた。

 

 それでも開拓希望者の降りたった場所は、一見豊かな大地に見えた。

 原始的な先住民の姿はあったが、密度は少なく、とても遅れた生活をしていた。

 


 こうして豊水大陸での流刑と共に小規模な入植事業が開始されたのだが、十年ほどが経過して漏れ伝わってきた現地の話しは、かなり悲惨だった。

 一見木々が生い茂って豊かに見えた土地が数年から十数年で貧しくなり、一カ所に止まって農業を行うのが難しいというのだ。


 しかも降水量が少なく物理的に大規模な灌漑が難しいので、小麦栽培や陸稲栽培はともかく水稲栽培が出来る場所は殆どなかった。

 こうした現実が伝わると、苦しい移民をするぐらいなら本国に止まって慎ましい生活を維持する方がマシとする考えが広まった。

 何しろ17世紀末頃の大東島の大地は、まだ十分に開発する土地が残っていた。

 

 このため以後1世紀にわたって、豊水の征南入植地には年間数百人(平均400名)の開拓者しか渡らなかった。

 豊水に渡った者のかなりの部分は、本国に居づらくなった犯罪者やその家族で、いわば”自費で行く流刑植民地”のようなものであった。

 この点豊水南東部の本当の流刑地との違いはあまりなかったと言えるだろう。

 違いは、自ら行くか、行かされるか、だけだ。

 

 そして自ら行っても、約3分の1は短期間の間に何らかの理由で死ぬ上に、男女比率の問題もあって出生率は低く、百年後の18世紀末でも豊水の大東人人口は囚人と看守を含めても10万人程度しかなかった。

 

 そこはまさに地の果て、流刑地に相応しい場所だった。

 

 そして当然と言うべきか、大東政府は流刑地や「棄民」の場所としての豊水に長らく真面目に興味を向けることはなかった。


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