224 New Frontier(2)
●ノーザン・フロント
南方でオランダと衝突している頃、北の大地でも反対方向からやって来た人々との接触が起きていた。
大東人とロシア人とのファースト・コンタクトは、1632年に起きた。
大東人が築いた冷那川中流域の夜久人砦に、毛皮を求めて冒険的な旅を続けていたコサックの一団がたどり着いたのだ。
ロシア人達は、北極海方面から冷那川を遡って現地にたどり着いたもので、規模は数十名に過ぎなかった。
装備も鉄砲がせいぜいだった。
この時の接触は、歴史的にも幸いと言うべきか友好的接触となった。
互いに相手の言葉はさっぱり分からないが、相手の装備から文明人だと分かったので互いに軽はずみな行動に出ず、互いの毛皮、酒や食料を交換して出会いを祝ったとされる。
また、今後別の集団同士が出会うことを考慮して、身振り手振りながら接触の際の友好的方法についての取り決めも行われた。
そしてこの接触で、互いにこの先の事を知ることが出来た。
そしてそれぞれにとって最も重要だったのは、これより東又は西に進んでも、有望な獲物(毛皮資源)に出会うことが難しいという事だった。
当時北の大地で得られる高級毛皮は、ロシア人にとって有効な外貨獲得手段だった。
大東人も半分は自分たちで消費するが、もう半分はスペイン人との有力な貿易品目だった。
だからこそ、お互いに地の果てにまで足を伸ばしてきたのだ。
そしてその後も、冷那川、エニセイ川、バイカル湖近辺で、たびたび大東人とロシアン・コサックは出会うようになった。
しかしその後、ロシア側の毛皮を求める行動は過激に、そして武力を用いるものになった。
早くも1643年には、大東人の目を盗んで北極海を東に進んで、北極海の出入り口である縁具海峡を通って、大東洋への航海すら行った。
これを警戒した大東人達は、自分たちの持つ大陸での金鉱の存在を知られてはまずいので国家も乗りだし、本格的な警備隊の派遣、互いの境界線策定の為の調査を実施した。
そして逆に、ロシア勢力圏への偵察や探検も実施され、こちらでも戦闘に発展する事があった。
この偵察行では、ウラル山脈を越えた者もいた。
また同時期、中華大陸の北部地域で女真族が台頭して満州族と名を改め、新たな中華帝国となる清帝国を作りつつあった。
1636年の時点で新王朝を開いた年に朝鮮王国を完全に属国化し、満州と名が付く土地全てについての領有権を主張していた。
これは外興安嶺山脈までの黒竜江北岸も含まれるため、大東は外満州と名付けられた地域の金鉱を巡り、清帝国と紛争を抱えるようになった。
こうして17世紀中頃の大東国は、主に商業レベルでの海外進出を強めただけで、東南アジアのオランダと合わせて3つの国と紛争を抱えていたことになる。
そして外国との衝突は、可能な限り避けたいというのが大東の思惑だった。
だが、17世紀中頃の北東アジア地域は、半ば引篭りを決め込んだ西日本人(江戸幕府)を除いて大きく揺れ動いていた。
中華王朝の革命が進展しつつあったからだ。
大東がユーラシア大陸北東部に入り込んだ頃、ちょうど女真族がヌルハチによって統合され名を満州族に改める頃だった。
この頃の殆どの大東人は、中華世界の事にあまり関心を抱いていなかった。
明帝国で内乱が頻発して、北部の草原で騎馬民族が活発化している程度は認識していたが、言ってしまえば「知っている」だけだった。
大東人にとっての中華帝国とは、基本的に貿易相手でしかないからだ。
このため、中華世界に対する大東国政府の動きは鈍かった。
しかしまだ明帝国が存在している以上、清帝国は名乗っただけで新しい中華王朝ではなかった。
このため金華と呼ばれていた頃の満州族と大東国の間では、外興安嶺山脈の金鉱を巡った小規模な戦闘が行われたし、貿易路にして交通路となっていた黒竜江でも戦闘が発生した。
これを知っていた明朝が、李自成の乱とそれに続く清朝軍の進撃で北京から完全に追われることで変化が訪れる。
この時大東国は、北京から落ち延びた明朝の軍人(海軍提督の周鶴之)から、援軍要請を受けていた。
そして大東国と明朝の間に長年の貿易関係があった事を理由として、自分たちの権利を確保するべく「大陸出兵」が決定される。
●大陸出兵
大東国の「大陸出兵」目的は表向きは明朝の救援だが、実際は新たな中華帝国となる清朝に大東国の国力と軍事力を見せて、既に自分たちが得た権益を認めさせることにあった。
そして大東が選んだ自分たちの軍事力こそが、大陸国家が持ち得ない先進的な海軍だった。
既に日本が鎖国(海禁)した現在、大東国こそが東アジア最大最強の海軍国だった。
数や規模だけならまだ明朝の方が大きかったが、質が全く違っていた。
ヨーロッパのガレオン船と同じ「直船」を保有して、アジア、大東洋広く活動出来るのは、日本人が外洋船の建造を事実上止めてしまったので大東だけとなっていた。
この場合大東側の問題は、恐らく主戦場となる揚子江河口部の近くに自分たちの拠点が存在しない事だった。
事が戦争なので鎖国をしている日本が寄港地を貸してくれるワケがないし、むしろ近寄るなと警告攻撃してきかねなかった。
小琉球(台湾)には、ゼーランディアという拠点を持つオランダがいるが、こちらは現地の勢力は知れているが敵対的だった。
ヘタな事をしてジャワ島のヴァタビアなどからVOCの艦隊でも来たら面倒だった。
仕方ないので、明確にどちらの勢力にも属していない八重山諸島の入り江に拠点を設け、大型の甲型直船(※一等または二等クラスの大型ガレオン戦列艦・当時最強クラスの戦闘艦)の1個戦隊5隻を中心にした十数隻の艦隊と輸送船(補給用)を派遣する事になる。
日本人(江戸幕府)もこれを知ったが、あえて無視した。
一方黒竜江に対しては、河に入り込める中型直船を中心にした艦隊を夏の間に送り込み、清朝軍を牽制する事とされた。
こちらは冬の間はほとんど凍結してしまう北氷海での作戦のため、春から秋にかけての短期間の作戦が予定された。
この「援明艦隊」は、大東国の歴史上で国家として出した初めての正式な遠征艦隊であり、そして遠征軍だった。
言い方を少し代えれば、文明国に対する初めての侵略戦争だった。
だが陸兵を上陸させての長期戦闘は想定しておらず、あくまで海軍としての戦いが行われた。
兵士が上陸することがあっても、基本的には相手が弱い場合、破壊できそうな拠点などの場合に限られていた。
とはいえ甲型直船(大型戦列艦)は分厚い樫の木で作られているのに、乗組員と戦闘要員の合計は1000名にも達した。
「援明艦隊」全体の兵員数も1万人を越えており、陸兵としても最大3000名が投入可能だった。
しかしそれよりも、大航海時代にヨーロッパが世界を席巻したのとほぼ同じ能力を持つ大東謹製の甲型直船の戦闘力は高かった。
というよりも、中華世界に対しては圧倒的だった。
中華側の戦闘艦艇も、火縄銃や小型で青銅製の大砲程度は装備しているものもあった。
しかし帆走能力、外洋航行能力は低く、基本的には後期和冦に対向できる程度の沿岸用艦艇でしかなかった。
そして何より、艦1隻当たりの砲撃能力が段違いだった。
またこの時の戦闘では、一時期のヨーロッパの軍艦と同様に大きなロケット花火のような構造のロケット砲も用意され、敵艦船や沿岸部の可燃物を燃やすことに多用された。
このため大東の軍艦は、敵から「海龍」や「火龍」として恐れられた。
そして大東の艦隊は、圧倒的火力を用いて揚子江沿岸、華北沿岸を荒らして回り、清朝軍と清朝側の船舶、港湾、沿岸部の都市などを攻撃して回った。
この結果、清朝の海上戦力(ほとんどは寝返ったもと明朝軍)は大打撃を受け、壊滅こそ免れるも見つかりやすい集団で動く事が出来なくなった。
港湾や一般船舶も、大東側が目に付いた側から攻撃したため、沿岸部と揚子江河口部の海運は壊滅的打撃を受けることになる。
当然と言うべきか、揚子江の河口部から渡河する事は不可能となり、一定の時間だが清朝軍の進撃を止めることに成功する。
この戦闘の結果、大東国は中華王朝となった清朝側から厳重な海禁対象とされ、大東船の寄港を完全に禁じられることになる。
そして明朝救援も実現不可能と分かると、大東側も今後の事を予期した行動に移る。
行ったことは、要するに大規模な海賊行為だった。
それまでも「援明艦隊」は、相手国の通商破壊戦の一環として私掠船活動は実施していた。
しかし今度は、戦闘や破壊を前提とせずに、掠奪を重点的に行った。
そして何より今度は、陸地にも積極的に派遣して、様々なものを奪っていった。
そして揚子江沿岸は、手工業の一大産業地帯だった。
銀(貨幣)や陶磁器、絹織物などの完成した各種工芸品の掠奪は当然で、それよりも重視されたのが当時中華地域最重要の産業地帯だった揚子江沿岸での誘拐だった。
対象とされたのは美女や屈強な奴隷ではなく、主に手工業の技術者だった。
「援明艦隊」は艦隊挙げて大東国の私掠船となり、海賊艦隊として一年以上暴れ周って中華地域中心部に大きな惨禍を残すことになった。
結果として大東には、陶磁器、絹織物、綿織物の職人、絹、茶の栽培主が多数さらわれ、大東で丁重に迎えられて手工業を発展させる大きな力となった。
このうち陶磁器技術は、貿易を通じて日本人全体の間(含む江戸幕府)にも広まり、その後日本、大東の双方から、ヨーロッパにも輸出された。
一方では、黒竜江やその流域を巡る戦闘は、清朝が有利に運んだ。
揚子江沿岸部での大東の行いを知った清朝は怒り狂い、出せる限りの兵力を北に出して大東軍を攻撃した。
しかし冬に海や河川が凍る以外の季節の制海権、制川権は大東側が握るため、清朝も完全に勝つことは出来なかった。
また火力では大東が常に上回るため、清朝の誇る精鋭八旗兵でも攻めきれなかった。
戦線が膠着すると、清朝側も辺境の大東よりもまずは中華地域の完全征服に力を入れた為、有耶無耶のまま大東と清朝の戦闘は自然休止することになる。
一方、北部でのロシア人の進入と散発的な戦闘の方は年を経るごとに多くなり、両者の主張から境界線は領域にあまりの広さもあって確定しなかった。
ロシア側の行動に業を煮やして、大東の側からエニセイ川やバイカル湖まで奇襲的に攻め込むこともあった。
中には、モンゴル軍のような馬による進軍でウラル山脈を越えた部隊もあり、その部隊はトルコ帝国にまで至ってトルコ皇帝に謁見までしている。
1689年にロシア帝国と清帝国が「ネルチンスク条約」でお互いの境界線を決めて以後も、ロシアと大東の間には結局正式な境界線は成立しなかった。
しかしロシア側も、利益を下回る不毛な争いは避けたい為、冷那川とエニセイ川+バイカル湖の中間地域となる西サハ高原(ロシア名:東シベリア高原)を自然境界とする形が徐々にできていく事になる。




