222 Daito カルチャー(4)
●建造物と住居(2)
大東島で最も目に付く建造物といえば、17世紀までに各地に作られた城塞都市の城壁になるだろう。
最大規模で周囲20キロメートル以上にも達し、敵の侵入を完璧に防ぐために分厚さと高さを持ち合わせていた。
そして、深い掘り作って石垣を積み上げ、その上に煉瓦造りの強固な城壁を作るため、今日においても一部が世界遺産や重要文化財とされるなどで残されている。
それ以外となると、各城塞都市の旧市街、大貴族の郊外邸宅、そして16世紀半ば以後突如として出現し始めた、巨大な神社になるだろう。
大東では民間信仰として神道が普及していたが、あくまで民間信仰であり、各村落、都市ごとに作られるだけの小規模なものが多かった。
また、日本の神道が基本であるため、神社の社といえば木造が基本だった。
世界各地の宗教施設のような巨大さや壮麗さは、全く求められなかった。
権力も権威も必要ないのだから当然だろう。
古いだけの神社建築がこじんまりとしているのは、ある意味大東神道の最も自然な姿だった。
だが戦国時代に武装した巨大な神道勢力は、自らの権力と権威を信徒(民衆)に見せる必要があった。
そして大量の人員と資金が投入出来たこともあり、まるで城塞のような恒久的構造を持つ巨大神社が各地に建立された。
従来の木造の社やご神体であるご神木などは構造物の裏庭(※宗教上の理由で必ず露天)にひっそり存在するだけで、完全に石や煉瓦で作られた巨大建造物に飲み込まれてしまう。
戦国時代が終わると武装神道は一気に廃れたが、巨大建造物のかなりは壊すのも面倒なのでそのまま使われた。
そしてこれを見た各地の大東人は、巨大な神社を自分たちの地域や都市、村落の繁栄度合いを示す何よりのシンボルマークになるのではと考えるようになる。
この結果、17世紀以後巨大で壮麗、そして見栄えの良い神社が大東各地に建立されるようになる。
特に遠目でも目立つ高層建造物が好まれ、日本の神道とは大きくかけ離れた姿となった。
建築技術も、短期間で格段の進歩を遂げた。
当時スペインなどとの接触も始まっていたので、ヨーロッパ様式も積極的に取り入れられた。
神社がエリア・シンボルとなったのだ。
そしてこの巨大建造物は、大東の貴族達にも伝搬した。
さらに貴族達は、西日本列島で安土桃山時代以後に建設された壮麗な「見せるため」の城塞にも感化され、巨大で壮麗な自らの居城作りに権威や権力付けの一端を求めるようになる。
中には、首都東京のように、新市街を作るときに巨大城塞(この場合新御所)を新たな街の中心として作ったものまで存在した。
現在にも残る各都市郊外の巨大城塞や宮殿、離宮、庭園などはその名残だ。
ただし、巨大な恒久的建造物が大東で建設された背景として、大東全体での人口の拡大と経済の発展があることを忘れるべきでないだろう。
なお、大東島は地震災害が少ない為、石や煉瓦を積み上げただけの高層建築が作りやすかった。
特に島の東部はほとんど大きく揺れたことが無いため、高層建造物が多い。
一般家屋も、城塞都市の狭い空間を有効利用するため、二階建て以上の建造物が一般的だった。
今日においても、数百年間維持されている一般家屋というのも珍しくはない。
また住居内の内装と調度品だが、室町時代以後の日本では高い位置に床板を敷いて、さらに裕福な場合は全面畳敷きとした。
本来藁で出来た畳は、平安時代頃の日本での寝床や座椅子の役割を果たしていた。
畳の語源も、簡単に片付けられるという意味合いそのものだ。
だが時代の経過と共に部屋の中全体を覆う、絨毯のような屋内での一般的な敷物として変化していく。
大東島でも日本から文化を輸入していたので、14世紀末の「二十年戦争」まではほぼ同じ流れにあった。
しかし同戦争で広がった日本人憎しの感情と、大東の独自性を求める姿勢の強まりから、まずは権力者の側から生活様式を改める方向に傾いた。
その結果導入されたのが、古大東人、新大東州に残されそして僅かばかりの発展を続けていた様式だった。
床を高くせず靴もしくは上履きで暮らすのが一般的な古大東人は、中華大陸やヨーロッパ、中東の一部と同様に、床の上に机と椅子を置いた。
就寝の際も畳の上ではなく、寝床を使った。
そうした風俗はもとは大陸伝来のさらに日本からの伝来でもあった。
だが、そうした古さも評価され、寝床、机、椅子を用いる生活が皇族、貴族、武士の間に取り入れられていった。
そして羊の飼育開始と共に絨毯が使われるようになり、この傾向はさらに広まりを見せることになる。
またこの背景には、西日本列島より湿度が低いという点も見逃せないだろう。
とはいえ畳や高床式の住居が、完全に廃れることはなかった。
特に畳みは寝床には寝床用の柔らかい畳を用い、座敷と言う形でも床に畳や茣蓙を敷く習慣が南部の旧大東州を中心にして残った。
もっとも北部では、羊毛の普及と共に絨毯が広く用いられ、藁を用いる畳は一気に廃れている。
●移動手段
大東と日本では違いが見られるので、補足として記す。
大東島は、長い年月をかけて自然が作り出した平らな地形が特徴で、となりの西日本列島とは大きく異なっている。
また島そのものが、日本列島の本州の約三倍の面積を有している。
このため、陸上での移動をする場合、徒歩だけでは不足だった。
河川での移動は「量」という面では有効だが、大東を流れる河川は大きい河川が比較的多いのだが、日本に比べれば数は少なく、流れも緩やかな上に季節によって水量がかなり違っていた。
このため恒常的な移動及び運搬手段として「今ひとつ」というのが結論だった。
そして選択の末に選ばれたのが、馬と馬がひく車、つまり馬車の利用だった。
平坦な地形が多いので、ある程度の道さえ整備すれば、初歩的な馬車でも十分な運搬が可能だった。
日本ではせいぜい大八車だった車輪を持つ運搬道具が発展したのは、大東の地形が大きく作用している。
大東での馬車は、荷物の運搬、貴人の移動ばかりでなく、時代が進むに連れて一般の乗り物としても普及した。
早くも14世紀には乗合馬車が出現し、17世紀中には全国規模での馬車網が張り巡らされた。
農閑期の農家の副業としても、馬車業はかなり重宝された。
そして馬車の普及が、馬そのものの飼育数の増加へ直結している。
大東島での馬へのどん欲さはかなりのもので、17世紀前半にはスペインが大東洋で運行するガレオン交易船を使い、最初の西洋馬が大東に輸入されている。
その後も、スペイン、イングランド(後のイギリス)などからの積極的な輸入と、自国産の馬との交配による数の増加、そして西洋馬単体での繁殖と品種改良までが19世紀までに進んだ。
そして新大東州北部は馬の飼育に向いていた事も、馬の繁殖と普及に大いに貢献した。
なお、こうして生まれた大東の新しい馬は、18世紀に入ると日本にも輸出されるようになっている。
これは、今までの日本から大東へというものの流れを完全に覆す一例で、一部では日本列島と大東島の力関係の逆転を物語る典型例だとする説もある。
●近世の都市
大東の都市は、日本とは違って中華大陸やヨーロッパなどのような街を城壁で囲んだ城塞都市が中心だった。
都市の規模は中華地域同様に大きい場合が多く、人口10万人を越える都市も珍しくなかった。
都市の城壁は16世紀に入るまでは高く分厚い城壁だったが、戦国時代には大砲に対応したヨーロッパに近い星形の土を盛り上げたものに大きく変化した。
都市内部は碁盤の目のような形状が主体で、戦闘よりも利便性を求めていた。
河川の側に作られ、都市内部に堀を多数入れる事も一般的だった。
大東島には、大東天皇の居城となる御所のある東京を始め、大坂や南都などいくつかの特徴的な都市があった。
中でも東京は、17世紀中頃に総人口が100万人に達した。
巨大な国の行政を中央集権の形で行うため、官僚が多数住んでいた事と、東京そのものが巨大な消費都市であり、尚かつ地域経済の中心都市、国内流通網の中継点にあったからだ。
また大都市の多くが大河の海に近い場所に作られた港湾都市でもあった。
「皇都」や「帝都」とも言われた首都東京は、まさに大東国を代表する都市だった。
それ以外の代表的な大都市といえば、旧都・大坂、商都・南都、大東のへそ・境都、新大東州の要の央都と北府だろう。
大東の代表的都市は、大坂を除いて必ず「都」か「府」が付けられている。
大坂もかつては征東府と呼ばれていた。
「都」と「府」は、首都もしくはそれに匹敵する巨大都市の事を示すのだから、当然と言えば当然の命名であると同時に、直接的な事を好む大東人らしい命名と言えるだろう。
またどの都市も、大規模河川の河口部か中流域に存在しているのも大きな特徴だ。
大東での輸送が河川を用いた水運を利用している為であり、都市丸ごとを防衛し易くするためでもあった。
また街の中に多数の堀を作って流通網にも使われた。
しかし戦国時代が終わり近世に入ると、大砲の普及と発展で城壁にほとんど意味はなくなり、経済面で有利となる河川に面していることだけが重要となった。
そして以前にも増して、地域経済の中心として発展する。
大坂、南都、央都の都市規模は東京に次ぎ、大東での人口拡大と共に都市規模も膨れあがり、どの都市も18世紀までに30万、19世紀には50万を越える事になる。
そして都市規模の拡大に伴って城壁の外に広がりを見せ、都市の景観自体も大きく変化していく事になる。




