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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
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221 Daito カルチャー(3)

●衣服と髪型


 何度も取り上げたように、大東島は南北に長い。

 しかし衣服のバリエーションには、やや乏しかった。

 

 大きな原因は、羊の飼育が17世紀に入るまで行われなかったからだ。

 木綿の栽培が一般化したのも15世紀に入ってからで、戦国時代に一気に普及するまでは、様々な麻と毛皮(革)が主な衣服の原材料だった。

 

 もう一つの重要な衣料の絹は、基本的に品質の高い一部の高級品用と、繊維として用いることもできず綿の一種として使われる粗悪品しかなかった。

 絹の全体的な品質向上は17世紀に入ってから本格化するが、それまでは一般の人々が用いる衣服の材料にはならなかった。

 このため、大陸産の高級絹は大東でも長らく珍重されている。

 

 衣服の様式は、旧大東州と新大東州で違いが見られる。

 旧大東州は、日本列島とあまり大きな違いはない。

 湿度が多少低いので、その点での違いが見られるくらいだ。

 だが新大東州は、北にいくほど寒冷な気候となるため、日本式の衣服では夏はともかく冬が厳しい。


 このため下は脚絆きゃはんもしくははかまを履くことが男女を問わず一般的で、外套として毛皮の分厚い衣服を羽織る。

 逆に温暖な南部の茶茂呂では、日本よりも薄着の傾向が強かった。

 

 17世紀以後は綿花を原材料とした木綿が一般化したが、17世紀中頃からはインド綿布のキャラコがもてはやされ、大量に輸入されてもいる。

 

 さらに同時期、大東でも羊の飼育が一般化して、新大東州を中心にして一気に羊毛が普及した。

 この影響で、それまで防寒具の主力だった毛皮は、価格の高さもあって一気に高級品となって一般の衣服としては廃れてしまう。

 この影響で、大東人の毛皮を求める海外進出が停滞するなどの少なくない変化ももたらしている。

 


 衣服の一種である靴やそれに類するものだが、一般的には日本列島伝来の足袋や草鞋、下駄のように簡単に作れるものが重宝された。

 大東の中央部でも、簡便な靴は庶民から親しまれた。


 だが寒冷な大東北部では、日本列島の様式では寒冷な気候に対応しきれないため、原大東人によって動物の革、毛皮を用いた厚手の靴が古くから用いられていた。

 そして下駄や草履よりも高級に作ることに向いているため、徐々に大東島中の上流階層、富裕層が履くようになる。

 

 そして北部では寒冷な地域での乗馬という事も多いので、ヨーロッパでのロングブーツや乗馬ブーツに似たものもかなり広く用いられた。

 これは大東の戦国時代でも、「駒城兵といえば」と言われるほどの特徴となっていた。

 


 最後に髪型だが、こちらも大東と日本の気候の違いが関わっていた。

 日本の場合、戦国時代末期から男女ともに「髷」とされる髪型が一般化した。

 

 しかし大東の場合は、特に女性の場合は西日本列島で言うところの「下げ髪」が一般的で、結い上げる事は殆ど無かった。

 このため、「編み髪」という今で言う三つ編みのような髪型は、古くから現代に至るまで行われている。


 これは大東の気候が日本よりも乾燥している為、湿気や気温で汗をかく頻度、日々の手入れの手間などの影響と考えられている。

 また上流階層では、髪を整えて綺麗に見せる事が一般的で、長らく整えられた長髪は富のステイタスともなっていた。

 

 男性も半ば日本人としての惰性で髷こそゆったが、戦国時代以後の日本のように頭髪の多くを剃ることはなかった。

 そもそも頭を剃り上げるのは、日本の戦国時代末期に西日本列島で広まっているので、豊臣秀吉の侵略の象徴でもあるため広まることは一切無かったと言える。

 

 そして日本よりも軽い髷を結ったうえで、様々な帽子を被ることが一般的だった。

 帽子の種類や様式で、身分と成人男子か既婚者かなどを分かりやすくするためだ。

 

 しかも茶茂呂人、古大東人の自らの伝統を重んじる一部の地域では、日本風の髪型が行われることはほとんどなかった。

 帽子の習慣は身分制度の問題もあったので広まるも、こちらも古大東人の厚手の毛皮帽など違いが見られた。

 

 また古大東人、アイヌ人の男子は、成人すると主に口の周りに髭を生やすことが成人の証とされる傾向が強かった。

 そして「二十年戦争」以後の日本離れの影響で髷が廃れ、髭を蓄える事が成人男子の特徴となっていく。

 

 成人に関する習慣をもう少し続けるが、日本の女性は既婚者は眉を剃ったり歯を黒く染めることで自ら既婚者であることを分かりやすく示したが、大東では耳に入れ墨を入れる習慣が古くから残されていた。

 これは古大東人の習慣でもあり、年齢や既婚を知るのにも使われていたため、直接的な分かりやすさを好む大東の日本人の間にも広まった。

 

 入れ墨は、男女を問わず見た目でも分かりやすい耳に入れることが古くから一般的で、古い時代は手の甲などにも入れていた。

 アイヌの一部は、古くは口の周りにも入れていたが、時代と共に廃れている。

 



●建造物と住居(1)


 大東島の文化の基本は日本人がもたらしたが、建造物についてはあまり当てはまらなかった。

 

 日本の建築様式は、基本的に東南アジア方面の風俗が色濃く残っている。

 典型的なのが、高めの床を作って靴を脱いで上がるという形式だ。

 これは明らかに東南アジアの様式であり、温暖湿潤気候の日本でも普及した。

 

 しかし大東島は、島の南部こそ亜熱帯に近いし旧大東州はかなり温暖だが、新大東州はそうはいかない。

 また島全般に降雨量が西日本列島より少ないため、湿度も多少低くなる。

 

 降雨量が少なく平地が多くて伐採が比較的容易いため、あらゆる原料資源となる原生林が消えていくペースも早かった。

 森林の方は営林の普及で何とか切り抜けたが、14世紀ぐらいから贅沢に木材資源を使うわけにもいかなかった。

 

 このため、徐々に南部の石炭を用いて作る焼き煉瓦が建材としても重宝されるようになった。

 耐火性と丈夫な事を求められる恒久的建造物、公共建造物において顕著で、大東中の城塞都市を最大規模として、神社、役所などから大商人の邸宅、大都市の一般建造物と広がっていった。

 地震の少なさも、恒久的建造物の普及に拍車をかけた。

 そして都市部では、大火事を防ぐ目的で政府の指導によって木造建築が大幅に減らされている。

 

 農村部でも、18世紀ぐらいから煉瓦造りが一般化するようになる。

 本来なら煉瓦はコストがかかるが、大東では木材を多用する方が長い目で見るとコスト高とあっては、一般民衆も選択の余地がなかった。

 

 南部から遠い新大東州では、比較的石材資源が豊富だったため、石(花崗岩など)を用いた建造物が古くから普及していた。

 そして北部は寒冷な気候のため、建造物は石材の内側を木材で覆う二重構造が基本だった。

 そうした北の家屋内では高い床は作らず、靴もしくは上履きをはくのが一般的だった。

 日本と同じ高床式の住居は、南部の茶茂呂地方の特徴となっている。

 

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