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006 スタート、Daito Down

■大東の夜明け (大東年表(古代))


大東国=日本国時代(紀元前~10世紀まで)


紀元前


 ・B.C.10万年 

クロマニョン人の小集団が大東島に上陸、その後矮小化して隠鼠人となる。

(流氷の季節に千島列島方面より至ったと考えられているが不明点が多い)


クロマニョン人は数が少なかったため大東島原産の動物を駆逐しきる事は出来ず、逆に大東島の殆どの動物は人間との「付き合い方」を遺伝的に学ぶ


 ・B.C.1万3000年 

大東島に旧石器時代人が上陸し、縄文人となる(冬に千島列島方面より凍りついた海上を渡って至る)


先に渡ったのを一般的に古大東人と呼び、その後北から渡ってきたのを蝦夷またはアイヌと呼ぶ。

古大東人の方が、大陸北方民族としての特徴を多く残している(東アジア系よりも顔の彫りが深く瞳の色素が薄いなど)


 ・B.C.9000年 

縄文人の通年の定住が開始され、住居が誕生。ヴュルム氷期が終わる


 ・B.C.4000年 

縄文海進がピークに達し、以後海面高度は低下する

隠鼠人による疎林トナカイ放牧が見られるようになる


 ・B.C.2500年 

大東島にて温帯ジャポニカ米の栽培が確認される

(ただし、厳密には農業ではない)

剣歯猫が狩りの友、定住地の見張り、時には幼子のお守りの目的にも縄文人に使われはじめる


 ・B.C.1000年 

南方系チャモロ人(茶茂呂人)が大東島に移住しはじめる(大東へのアウトリガー・カヌーによる初めての移動)

茶茂呂人によりアウトリガー・カヌーが伝わり大東全体に広まり、後に西日本列島にも伝わる。これが西日本列島と大東をつなぐ大きな架け橋となっていく。しかしその後、アウトリガー船の技術は失われる


縄文人の間でもトナカイ放牧がみられるようになる(隠鼠人からの技術移転とみられる)


 ・B.C.500年 

九州、四国、本州に遅れる事500年にして大東島に弥生文化が伝播しはじめる。

和人の大東島への小規模な移民もあったとみられる。


この頃には、航海に強いアウトリガー・カヌーを用いた二つの地域の交流が活発に行われていたと考えられる。

また船を操った一部の者のは、主に東シナ海の諸民族に似た海洋民族(安曇など)だと考えられている。


現存する遺跡、資料が少ないため詳細が不明な点が多い。

またこの時期に、西日本列島の弥生人、有守島のアイヌ(の祖先)が大東島に移住している。


水稲農耕の採用によって穀物の備蓄が可能になり、余剰作物の生産・蓄積と富の集積がみられるようになる大東島の人口は狩猟採集時代の10万人から急激に増大した。

彼らを「古大東人」という。


また、猪養(イノカイの呼ぶ大東島特有の森林における放牧的豚飼育もこの時期にはじまり、補助的な食料源となった。

西日本列島と違って平野が多く、逆に雨量が少ないため、定着した農耕形態も少し違っていた。



西暦


 ・100-200年 

倭国大乱期。中国の史書によると当時の日本は内戦状態にあった


大東島の記録はないが、緩やかに農業が進展する以上の変化はなかった。人の集まりの規模も、国を形成するにはまだ至らず。

島にしては広大な平原に生い茂る森林の合間合間に、小さな集落が点在するだけだった。


 ・200年頃

卑弥呼が日本の諸勢力を統合し邪馬台国成立


 ・250年

古墳時代がはじまり、大和王権による古墳建設が活発化


 ・350年頃

大和政権は韓半島に干渉を開始。鉄資源の獲得が大きな目標であった

韓半島から先進的律令制度などの諸技術がもたらされる

日本が百済と同盟


 ・400年

大和王権支配域は北九州から東北地方にまで拡大


 ・500年

継体天皇により大和王統統一


 ・560年頃

旧大東州に仏教が伝来。

伝来者は西日本ではなく、大陸から西日本を経由する形で訪れた者達と推測されている。

仏教伝来に伴い、宗教、文字、絵画、彫刻など多くの文明が大東にも伝わる。初歩的な鉄の製法もこの頃伝わったと推定されている。


この頃には、かなり大型のアウトリガー・カヌーが西日本、大東双方で建造され、交流が活発化していたと考えられる。

平板の大陸伝来の船では、東シナ海よりずっと波の荒い東日本海、太平洋を乗り切ることが難しい為。

しかし、交流の活発化に伴って通常型の船の建造技術は少しずつ向上していく


 ・562年

朝鮮半島南部の加羅 ・任那が滅亡


 ・592年

推古天皇即位。日本初の女帝。日本皇帝を意味する”天皇”号を初めて用いた日本の君主

飛鳥時代の幕開け


 ・594年

蝦夷からの情報により、東方に巨島があることがわかる

(大東島についてのはじめての記述)

蝦夷のアイヌ(の祖先)は、この頃から大東(新大東州)に渡った同族との間に交易をしていた


 ・600年

遣隋使派遣

推古天皇による公地探検の詔

厩戸皇子(聖徳太子)による政治が行われたとされる


 ・603年

冠位十二階制定


 ・604年

憲法十七条制定


 ・605年

大東島が日本人(大和政権)によって発見される。

明確な記録として歴史上で初めて登場する。

(当初は蛭子えびす島と呼ばれ、一時期は大陸(未知の新大陸)とも考えられた。オカルト上では、ムー大陸やムー大陸の一部ともされる)


 ・607年 

法隆寺建立


 ・610年

大東島の豪族とはじめての交易

(大東島民は大和朝廷の人と言葉を通わせることができた。日本からの移民があり、さらに古くからのアウトリガー・カヌーによる交流を物語る証拠とされる)

弥生時代と大して変らない技術・文化水準にあった大東島の古大東人人口は約50万人と推定される

(※狩猟採集段階の大東は、農耕開始前で約15万人。温暖期の最盛期は40万人程度と推定されている。)


交流の結果、日本の前方後円墳などが伝わり、古墳を作り権力を誇示するために一部で村落や部族の統合が進む

日本には、剣歯猫が初めて紹介される


 ・645年

大化の改新


 ・647年

越後地方まで日本の領土拡大


 ・652年

新羅征討(~654年)。唐・新羅連合と日本・百済連合の戦い


 ・650年

陸奥国設置


 ・659年

阿倍比羅夫の蝦夷討伐。現在の有守州南部に上陸。胆振国がおかれ、阿倍比羅夫は胆振総領長官となる

古大東島人及び蝦夷の大規模な再編成と和人化が進展。

一方、古大東人のうち和人への再編入を拒んだ者はビヨルンという国民皆兵の軍事共同体を組織し、新大東州で日本軍による侵略に頑強に耐えた


 ・660年

百済滅亡。以後、日本は韓半島に不干渉政策を、唐に対して友好政策を取る

(※神の視点より:「白村江の戦い」はない。大東への進出に国力を割いた影響)

天智天皇は北部九州の大宰府などの防衛強化を指示

しかし日本の防衛努力は無駄になった。唐・新羅連合軍は以後対高句麗戦に資源を浪費し、日本は放置された


 ・661年

阿倍比羅夫指揮による「東征(大東遠征)」実施。大陸勢力に対抗する為、領土拡張による国力増大が目的

日本でほとんど初めてとなる大型船の大量建造実施

大東遠征に先立ち駿河国の伊豆諸島が大和政権直轄領に編入され、八丈島に軍港が整備される

同時期、遠征隊は引田諸島を発見して父島に上陸

(航路を誤った結果と考えられる)


 ・662年

大東島で初の大規模な戦闘。武器に優れ統制の取れた阿倍比羅夫の軍勢の圧勝。しかし大東島の平地(と原生林)ばかり続く広大な大地、住民の原始的な騎兵には苦労する


 ・663年

大東遠征軍は大東諸族連合軍を破り、旧大東州西岸に征東国を開き征東防人司を置く

阿倍比羅夫は以後の大東征服の前進基地となる遠足柵を建設

また、この頃から大東各地に神社が建立されるようになる。そして大東にもとからあった自然崇拝の中にとけ込む


 ・687年

阿倍船守による大東遠征。以後3次にわたる大東遠征が企てられる


 ・701年

大宝律令制定


租庸調が全国に課せられた。大東島は余りに遠く、海を越えての運搬が難しい為、労役の供出や租税の農産物は各国国司の裁量に任された。

これが大東島の日本人の独自性を産む最初の土壌となった


 ・702年

胆振総領は胆振大宰と改名され、有守城が築かれた

大和政権の拡張主義により、日本の境界は東南北に拡大していた。九州南部の隼人への最終的な攻撃が準備された


 ・712年

古事記編纂

出羽国設置


 ・713年

薩摩に大隅国設置、日本による九州の統一


 ・714年

阿児奈波(琉球)諸島のほぼ全島に日本への朝貢を強制(阿児奈波大島は朝貢を免れた)

平城京の建設。奈良時代の幕開け


 ・720年

日本書紀編纂


 ・788年

「陸奥諸戦争」

胆振遠征が度々企てられた


 ・794年

平安京が建設された。平安時代の幕開け


 ・797年

坂上田村麻呂が征夷大将軍に任じられ、陸奥を平定(~800年)


 ・800年

本州日本海側の蝦夷平定が完了、本州の統一が完成


 ・804年

「大東ドドホッケの乱」発生。坂上 田村麻呂が再び征夷大将軍に任じられる


 ・805年

坂上 田村麻呂が征東按察使、征東守となる。

この乱の結果、旧大東州はほぼ大和政権の治世下に置かれる。以後、坂上田村麻呂の一族が主に旧大東州で増えていく。大東島で坂上、田村の姓が多いのはこのため



古代律令国家が内包する矛盾と鬱積する不満は外部に向けられてきた。しかし、200年にわたる拡大の末に、やみくもな拡張策が飽きられはじめた。

中央政府のより大局を見た判断によれば、新たな人民と土地の征服の限界効用はマイナスに転じ、莫大な軍事費を投じてまで、追い詰められた辺境の蝦夷を征服する意味はなかった。


足元の領地を見てみれば、農業・軍事技術の原理革新の時代は終わり、今後に待っているのはゆるやかな改良の時代だった。

以後、12世紀後半までの3世紀間は日本の資源と情熱は、専ら国内の充実に向けられるようになった。


家系により世襲される安定した家職化官僚による太平の世が訪れていた。人口稠密な近畿地方から、徐々に奈良時代以前の律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制への方針転換がみられた。

中央政府は民間に徴税や地方領地の安全保障の権限委譲を進め、後に武家政権を生む元地を作った。


 ・894年

遣唐使廃止。日本固有の文化が育つようになる。

同時に大東島への日本の文化的影響も強まる。この時期に神道が大東で大きく発展。大東島の「日本化」も進む。


 ・900年

日本の総人口が800万人を超える

(そのうち、蝦夷を除く大東島の人口は約300万人である)

7世紀から9世紀の300年間で大東島の人口は6倍に増加。大和王権による侵略と破壊が見られたが、主に瀬戸内海地域からの移民と農業技術の進歩による自然増で人口は着実に増大した


新大東島北部の森にひっそりと生息していた隠鼠人は、和人に駆逐された古大東人の北上に伴い生活空間が圧迫され絶滅したと見られている


 ・939年

「平将門の乱」。平将門は大東島にも自らに従うよう特使を送る。これを大東と日本が連動した初めての戦乱とする説もある



挿絵(By みてみん)


fig.1 日本の拡大


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