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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
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219 Daito カルチャー(1)

 ここで少し大東の文化や生活について、主に衣食住の面から見ていきたい。

 


 ユーラシア大陸の文字通りの極東にある大東島は、基本的に「日本文明圏」の数における最大勢力であるが、歴史上の長い間、日本人にとってのフロンティア(新天地)でもあった。

 

 だが、大東島に住む人々は、征服者にして開拓者である日本人だけではなかった。

 縄文人の子孫と日本の弥生人の一派の混血と言える古大東人、後縄文人の一派であるアイヌ人、南方系(マレー・ポリネシア系)の茶茂呂人、どれも北東アジアの中核人種からは少し外れている。


 古大東人、アイヌ人は北方系人種の特徴を持っており、顔の彫りがアジア系としてはやや深く、北方系の特徴として瞳の色素の色が薄い場合がある。

 最も薄い場合は、琥珀色や翡翠色になる。

 茶茂呂人はマレー・ポリネシア系に属する人種の中で最も北方に住む人種とされ、顔立ちも南方系のハッキリした形をしている。


 日本人と混血が進んでも人種的な特徴は完全に消えることなく、現代に至るも引き継がれている。

 このため大東では、大きく北部、中部、南部で人種の違いを見ることができる珍しい島となっている。

 

 こうした日本列島よりも多用な人種が存在するため、大東の文化、生活、習慣はより多様性を増すことになった。

 



●言語と文化


 大東島は、日本の文化圏、文明圏の一派であり、文明の祖となる日本列島と多くの特徴を共有している。

 

 何よりもまず、彼らは日本語を話した。

 

 日本語は表音言語で、表音言語は現在の地球規模で見ると珍しい。

 そして広義での日本人は、この珍しい言語を話す地球最大の勢力を形成している。

 

 また言語を表現するための文字は、中華大陸で発明された漢字を手本としつつもこれを大きく改良、改善したものだった。

 中華文明の漢字に「音読み」と「訓読み」を持たせている事そのものが、日本人の自分たちの言葉に対するこだわりを見せるものだと言えるだろう。

 また、漢字から派生した文字である「かな文字」の存在も大きな特徴となっている。


 これらかな文字と日本語化された漢字は、平安時代後期の日本で原型が完成され、その全てを大東も輸入して用いた。

 日本人にとっての新天地フロンティアである大東は知的な蓄積に乏しい為、文化の多くを日本から持ってくるしかなかった。

 


 言語だけでなく、文化風俗の多くも日本列島を発祥としている。

 

 12世紀末期に自ら日本列島からの自立を宣言するまでは、文化的には完全に日本列島の従属下にあった。

 原大東人や茶茂呂人、アイヌ人も独自の文化は持っていたが、それらの多くは新石器時代からあまり発展してはいなかったからだ。

 

 その後も、12世紀後半に移住した平氏の一門だった平経盛は文化面で秀でていたので、彼が中心になって持ち込んだ当時最先端だった日本風文化が大東では長い間もてはやされた。

 さらにその少し後に、平氏の残党が多数亡命してさらに厚みを増した。

 

 しかし大東が日本人移民の手で日本から独立すると、貿易と限定的な日本から大東への移民以外での交流が少なくなる。

 必然的に、大東独自の文化や習慣も増えていった。

 だが、まだ開拓地としての性格が強かった大東では、荒削りで純朴な文化しか育たなかった。

 そうした状況である意味大きな変化を与えたのが、「二十年戦争」だった。

 

 日本から大東への大規模な侵略戦争でやって来た日本の武士達によって日本の文化が大東に紹介され、また逆に大東の文化や習慣が日本列島に持ち帰られた。

 一方で大東島の人々の中に、西日本列島を嫌い憎むという感情が強まった。


 特に今まで「日本化」が進んでいた旧大東州中心部で日本軍が暴れ回ったため、二十年戦争後に「日本離れ」が大きく進む事になる。

 この結果、日本文化に対する憧れは薄くなり、独自文化を育てるという気運が感情面で高まった。

 

 それでも主に日本から大東への人の流れは一定程度に続いた事もあって、日本と大東が文化や習慣、言語などで大きな断絶をする事はなかった。

 

 なお、日本列島と大東島の海の距離は日本列島と朝鮮半島よりも広いので、本来なら国家が別となった以上、文化、習慣などで大きな変化と違いが起きてもおかしくなかった。

 

 しかし西日本列島を旅立った日本人が大東でも中心になった事と、日本語という共通の言語、東西の違いはあれどそれぞれ天皇という君主を中心に据えている事などの共通点が、常にこの二つの地域を結び続け、一つの文化圏、文明圏として認識される大きな要素となった。

 

 とはいえ完全に同じではなく、主に気候の違いから来る日本と大東の変化は、一部ではかなり大きな隔たりを見せることとなった。

 これが現代において「日本文明圏」と呼ばれる地域での多様性を作り出す事になる。

 



●食の文化(1)


 日本を経由しつつも、日本で消滅して大東で残り、そして発展したものも存在する。

 

 代表的なものが、牧畜産業、中でも酪農業になる。

 

 牧畜、酪農が大東で発展した理由の一つは、日本列島よりも降水量が少なく、穀物栽培での土地当たりの人口包容力が低い点を補完するためだった。

 また新大東州の北部で穀物栽培が難しかった事も、牧畜産業の発展を促した。


 このため日本人が大東に渡る以前から、北方での原始的なトナカイ放牧と「猪飼」と呼ばれる半ば家畜化された猪、つまり野豚に近い猪の飼育が行われていた。

 特にトナカイ放牧は、他からの伝搬ではなく独自誕生と考えられている為、大東は世界でも希有な自発的な農業発祥地の一つとも考えられる事もある。

 また、その後大東猪と外来種の豚の交配により、陸南豚などの新種が誕生している。

 

 そして日本人が到来すると共に、様々な種類の新しい家畜がやって来た。

 そしてその頃既に「遣唐使」が頻繁に行われていた為、北方騎馬民族の食文化が日本列島を経由して大東にもたらされる。

 それが乳製品の利用だった。

 

 「らく」や「醍醐だいご」と呼ばれる初期的な乳製品とその後の発展物は、保存肉と共にその後の大東北部での主要納税品目の一つにもなり、副食、カロリー補助としても広く珍重された。

 当然それらを用いた料理も多数作られ、大東日本人の食生活になくてはならない存在となっていく。


 乳製品はその後も発展を続け、ユーラシア各地の遊牧民族やヨーロッパからの知識を得ることで今日のチーズ、バターなどを作るようになっていく。

 保存の関係で納税品にはならなかったが、「」と呼ばれる初歩的な練乳やヨーグルトのような乳製品も、北部を中心にして食べられた。

 

 肉食についても、トナカイ放牧と「猪飼」によって狩りによらない肉食が一般化していき、15世紀に東南アジアとの貿易で豚を手に入れることでさらに広まった。

 大東固有種の陸南豚は、豚に変化(進化)しつつあった大東猪と東南アジア系の野豚の交配による品種改良で生まれたものだ。


 馬肉についても、特に禁忌がないため馬乳ともども古くから食べられていた。

 塩漬け、薫製の肉も一般的に食べられた。

 西日本列島に比べて魚が手に入りにくい事が、大東で肉食が進んだ背景の一つともなった。

 また旧大東州では、早期に森林の減少が進み自然環境が失われた事で野生動物が減少したため、これも牧畜による肉食が進む背景となった。

 

 そして牧畜、肉食という文化が存在する事が、大東人の仏教浸透を阻止する要因になったとする説が存在する。

 しかし宗教に関しては、日本列島に比べて大規模な自然災害の少なさが、先祖伝来といえる自然崇拝が続いた大きな要因と言われることの方が多い。

 

 肉食はその後も拡大する方向で続き、山羊、羊などを加えつつ、大東の重要な食文化の一角を占めるようになる。

 家畜化できる鳥も、家鴨、鶏などの飼育で一般化した。

 そして肉食、牧畜は、大東島全体で人口が飽和し始めると、土地当たりの人口増加を抑止する大きな要素となった。

 

 西日本列島では、どこでも蛋白源の魚を獲やすいという地理的環境もあってか徹底して米食(穀物食)が進み、土地当たりの人口包容力は米という収穫量の高い穀物生産によって限界にまで引き上げられた。

 これに対して大東では、農地の一部は家畜用飼料の栽培に充てられ、特に穀物栽培の難しい北部では酪農を中心とする牧畜が発展を続けた。

 豚などの飼育も同様だった。

 


 そして雨量が少ない事も加わり、平地での人口密度は大東島が日本に対して常に低い状態が維持される。

 

 日本列島内で人が利用できる平地、台地の面積はおおよそ10万平方キロで、江戸時代中期以後に総人口3000万から3500万人を養った。


 これに対して大東は、利用できる土地面積約55万平方キロに対して、19世紀初頭に約6000万人と日本列島の約三分の一で、寒冷な北部では特に人口密度は低いままだった。

 (※南部の旧大東州は、18万平方キロで約4000万人。)


 また、家畜の肉、乳製品摂取の影響で、大東島の北部に行くほど体格が大きくなる傾向が強かった。

 北部中核の駒城辺りだと身長だけなら当時のラテン系ヨーロッパ人種と遜色ないほどで、日本人から見ると大東人は背が高いという一般的な評価が育ったほどだった。

 また馬に乗る事が多い為か、手足の長さも大東人の方が若干長くなる傾向がある。


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