217 Ocean Trader(2)
■琉球問題と新航路開発
16世紀後半から17世紀の最初の四半世紀の間、西日本列島の海外貿易もかなり活発だった。
16世紀末の主な海外貿易である対明貿易(勘合貿易など)において、日本の主要輸出品は以下のようになる。
1. 銅・銀・金など鉱物
2. 刀剣類、玉鋼(地金)
3. 漆器など手工業品
特に、当時世界の三分の一を産出していた石見銀山の銀が最大級の輸出品で、日本人は銀と交換で大量の絹を求めた。
戦国時代の間は火薬の材料となる硝石、人造硝石の需要も高かったが、17世紀に入ると硝石の輸入はピタリと停止する。
そして安定した貿易の為には、依然として北東アジア貿易の中継拠点となっていた琉球を抑える方が有利だった。
このため日本の薩摩藩(島津家)は、1609年に琉球本島にあった琉球王朝へと電撃的な軍事侵攻を実施し、ほぼ即日で軍事占領してしまう。
とはいえ琉球侵攻そのものは、琉球自身の招いたものと考えてよかった。
半ば明の属国である現状を過大評価していたのだ。
実際には、明帝国は日本・大東の門戸開放要求を一蹴、逆に海禁策を強化していた。
明海軍は倭寇(※実態はほとんど漢民族の海賊であったが)に対応するために一定規模の戦力の海軍力を備えてもいたが、沿海での海防作戦に従事することがほとんどであったために、琉球侵攻を狙う日本軍を海上で阻止する能力はなかった。
17世紀に入ってすぐの日本の海上戦力は、島津藩などの有力諸侯でもかなりの規模の直船(ガレオン船)を保有していたので、その戦闘力はヨーロッパ列強と遜色ないほどだった。
しかし、日本の海外膨張は、琉球侵攻がほぼピークだった。
以後日本は急速に鎖国へと傾いたからだ。
だが日本の琉球侵攻に影響を受けたのが大東国だった。
16世紀に入ってからの大東商人の船は、東アジアと自国の中継拠点として琉球王朝を利用していた。
これは琉球本島が黒潮(北太平洋海流)の真上にある為でもある。
大東側は日本の行動を非難し、取りあえずは今まで通りの自分たちの利用権を求めた。
これに対して当初の日本側は、貿易船の規模や量については規制を設けなかった。
この当時の江戸幕府は、鎖国の方針はまだ緩かったし、何より大東との関係悪化をかなり警戒していたからだ。
だが琉球は実質的に日本領となったので、新たに冥加金(税金=関税)を求めるようになった。
こればかりは大東も受け入れざるを得なかったが、だからといって損をする行いはしたくなかった。
そこで新たな航路開発に力が入れられるようになる。
1609年以後、特に1620年代に入ると大東商船の動きは活発化する。
今までは、「大東=琉球=明=大越=マラッカ」という比較的安全な南海航路だったのが、最初の中継点の使用が難しくなったからだ。
日本が鎖国を強化するため、一方的に大東船の立ち寄りを強く規制してきたのだ。
琉球で大東に対する「無茶」を通達してきた日本に対しては、本来なら大東側が武力に訴えても不思議ではなかった。
だがいまだ戦乱の傷が癒えていない事、国家としては内政に力を入れなくてはならない事を主な理由として強硬策は却下された。
そして大東の海外進出は、商人主導となる。
そしてこの時期、大東の海外航路開発を主導したのが、南部に住む茶茂呂人だった。
茶茂呂人は、大東島に船でやってきた最初の人類だった。
その後も船を用いた活動を活発に行い、大東人の海での活動、特に海外での活動は茶茂呂人抜きには語れなかった。
彼らのルーツはフィリピン諸島南部に遡り、南の海での活動を得意とした。
また船の建造も巧く、直船の建造にも難なく順応した。
直船とヨーロッパで改良発展した羅針盤を手に入れるまでにも、西部太平洋広くに独自進出を行っていた。
彼らにとっての父祖の地でもある呂宋に対しての航海と商業活動も15世紀には恒常化しており、大東には新たな家畜となる豚をもたらしている。
茶茂呂人は、大東ひいては日本社会全体の海のヴァンガードだった。
ここからは、茶茂呂人が独自に手に入れていた航路や島々について見ながら話を進めよう。
・茶茂呂諸島 :
既にスペインと茶茂呂氏が、1530年代に拠点を設けていた。
どちらの進出が先かと言われるが、少なくとも規模と恒常性において大東の茶茂呂人が上回っていた。
島の名前も、茶茂呂人がスペイン人に教えた事が強く影響している。
スペイン人が領有権を主張した南部のグァム島だけがスペイン領とされ、他は大東国の領有とされた。
17世紀後半には、彩帆島で小規模な入植とサトウキビ栽培が開始され、以後大東の領土として恒久的な統治が実施される。
・プロウ諸島 :
プロウとは、マレー人の言葉で”島”という意味。
大きな珊瑚礁があるため、中継点を設ける事が容易かった。
その後パラオと呼び改められる。
・ジャイロロ島 :
16世紀中頃、モルッカ諸島北部のジャイロロ島のテルナテ港を発見。
すぐ隣には、巨大な陸塊のパプア島がある。
テルナテ港までの航路は、通常使われていた琉球経由の南海航路よりも遥かに距離的に近かった。
しかし全ての航路を大東洋上を通らねばならないため、商船が使うには危険が大きかった。
このため、17世紀に入って直船が一般化するまで予備航路の一つに止まる。
・バンダ諸島 :
ポルトガル商人がモルッカ諸島と呼ぶ島々を含む多島海全体を指す。
別名「香料諸島」と呼ばれ、世界的にも非常に貴重な香料のクローブ(チョウジ)とナツメグを産出する。
茶茂呂商人達は16世紀半ばには自力でたどり着き、以後この地で得た香辛料を大東島に持ち帰り大きな富を得るようになる。
しかし現地の支配権は16世紀の間はポルトガルが握っていた為、商業的旨味は少なく危険も伴った。
以上の状態で、大東商人は琉球を経由しない航路の開発を迫られた事になる。
そして選択すべき航路は、西大東洋を使う通称「茶茂呂航路」しかなかった。
だがこの時の大東人には、荒い波の大東洋を押し渡ることのできる直船と航路を確実なものとする羅針盤があった。
大東商人は、勇躍新たな航路を使った貿易へと、新に手に入れた船で旅立っていった。
また一部の冒険商人や、冒険や探検を生業とする人々が、さらなる「果実」を求めて周辺の海を彷徨った。
・サベドラ諸島 :
1610年代初期に到達。
以前入手したスペインの海図に載っていた島々。
おそるおそる大東が領有を宣言するも、スペインはそれらの島々のことなど忘れていた。
このため軍師諸島と名付け直される。
とはいえ、小さな珊瑚礁の島々ばかりなので、利用価値はほとんど何もなかった。
その後大東人達も立ち寄らなくなり、存在すら忘れていく。
・大スンダ諸島 :
ジャワ島、スマトラ島を中心とする。
近在のボルネオ島、モルッカ諸島などを含めると世界最大級の諸島地域となる。
大東商人が目的とするマラッカ海峡は、この島々の西部に位置している。
またジャワ島とスマトラ島の間のスンダ海峡を抜ければ、別のインド周回航路に出ることもできる。
モルッカでもそうだったが、1620年代に大東商人達がたどり着いたインドネシア地域全体は、以前とは少し変化していた。
我が物顔に歩いているのが、ポルトガル人からネーデルランドのオランダ人に変化していたのだ。
しかし大東としても、自分たちの国に香辛料を持ち帰らなければならないので、ネーデルランドが牛耳ろうとも香料諸島へと赴かねばならなかった。
これ以後大東人達は、ヨーロッパ情勢に一定程度関わる日々を送ることになる。
fig.01 大東洋北東部




