216 Ocean Trader(1)
日本と大東をそれぞれ襲った戦国時代。
さらに日本による大東への三度目となる侵略戦争。
16世紀はまさに戦乱の時代だった。
だが終わってみると、日本人達の世界は驚くほど静かになった。
それはまるで祭りが終わった後のような有様だった。
しかし祭りが終われば、また日常が再開される。
それは個人であれ国家であれ民族であれ違いはなかった。
本題へと進む前に、まずは歩みを進めるための道具について少し触れてからにしたい。
■竜骨構造船
日本人の住む地域は、基本的に他の地域と海で隔てられた島だった。
どこか別の国に行きたければ船を使うしか無かった。
逆もまたしかりだ。
かつて日本列島や大東にやって来た人間も、ここ数千年は皆船でやって来た。
しかも日本と大東が戦争をしたいと思っても、まずは船を用いねばならなかった。
日本と大東、広義の日本人達にとって、船とは無くてはならない文明の利器だったのだ。
そして船は文明の進歩と共に世界各地で新しい構造が発明され、日本人達も自力での発展と共に東アジアの技術についての習得には余念がなかった。
世界最大級の完全な離島となる大東島では、日本人(大和人)がやって来る前は、主に茶茂呂人が伝えたと考えられている腕木を船体と交差させて別の小さな船を先端に付ける「アウトリガー・カヌー」を用いた。
その後技術が廃れ、一般的な平板底の古代船を用いたが、波に脆いため航海には大きな苦労が伴った。
だが逆に脆いおかげで、大東独自で船体の大型化、構造の強化などが時代と共に進んだ。
日本では、瀬戸内を中心とする内水面が主要な航路であったため船の大型化はなかなか進まず、外板が応力を受け持つ構造の船が伝統的に使われてきた。
しかし、14世紀の「二十年戦争」では大東島に対する大量の海上輸送の必要性から、数々の改良が伝統船に施されてきた。
実質的に太平洋の一部である東日本海は、大東洋に匹敵するほど波が荒い場所が多かったので、東アジア文明の総力を傾けた船でも困難が多かったからだ。
さらに日本商人と大東商人との貿易競争の結果、15世紀には実質的に島づたいにしか航行できない順風帆走や沿岸航法の段階を脱することになる。
外洋で航行する為の、風上への航行を可能にする間切り帆走法が開発されたのも同時期のことだ。
また、日本は琉球諸島を経由して明や南海まで半ば沿岸航法で航行できるのに対し、大東からは潮流の早い東日本海を渡らねばならない。
必然的に航海技術が向上しなければならなかった。
そして優れた船を用いて、大東は東南アジア交易へと乗り出すようになる。
16世紀に入ると東アジアにポルトガル船が出現し、大東は竜骨構造船の存在を知る。
明のジャンク船にもない目新しい構造に対して、最初にマラッカで見たとされる大東商人は興奮した。
その記録は、興奮した調子の手紙によって後世に伝えられている。
そして取りあえず見た目で模倣できる部分は直ちに模倣され、東アジアでの大東船の優位はさらに高まった。
1560年頃、竜骨構造船を東アジアで最初に採用したのは大東国だった。
対明貿易で隻数制限を受け、大型船の建造が目指されたためだ。
1570年代後半からは、大東の南軍がガレオン船を模した大型軍船の建造に着手する。
また大量の輸送需要に対応するには、積載量あたりの価格が多少高くとも竜骨構造船が求められた。
これ以後日本語の上では、ガレオン船の事を「直船」と呼ぶようになる。
それまでの大東船は東アジアで一般的な「筵帆」を用いた船が多かったが、大量の綿布が主に南軍海軍に需要されるようになると綿布の製造コストが低下し、一般の商船にも綿帆が利用されるようになった。
15世紀末頃から大東島でも綿花は栽培されていたが、これで一気に栽培が広がることにもなった。
竜骨の材料となる木材はなるべく一本物に近いことが求められたが、大東国内には長大な良質の原木が少なくなり、日本から輸入される例もみられた。
日本でも、主に大東から漏れてくる技術を模倣して、少し遅れて船の発展が促された。
戦争そのものと、戦争を支える経済のために必要だったからだ。
そうして1586年には、外洋航海が可能な竜骨設計船が試作された。
伝統的な安宅型軍船に割り当てられる予算は大幅に削減され、同時期から海軍拡張のペースは速まり、大東船を真似た大船が建造されている。
これに平行して、日本から大東への原木輸出は禁止された。
禁輸を行ったのは豊臣秀吉であり、秀吉はこの頃から大東侵略を考えていた事を証明する証拠とされる。
また、1570年代に日本で出現した織田信長の鉄甲船の鉄張り構造は、竜骨構造船には利用されなかった。
伝統船より喫水が浅い竜骨構造船は、安宅船よりもトップヘビーによる横転の危険性が高かったからだ。
甲鉄を張れば舷側の防御力は大きく向上するが、速力を得る為の檣柱や帆桁まで全てを覆うわけにはいかない。
破壊されれば、従来の沿岸用のガレー船と異なり、帆船は帆が破損すれば浮かぶ棺桶になってしまう。
よって、甲鉄のアイデアは帆船には適用されなかった。
しかしその後、船底のカキ対策のため、銅販を張る事がヨーロッパ同様に広まるようになる。
1600年、戦乱が終わったばかりの大東海軍の改良型直船は、十分な威力を持つ大砲(カノン砲)を40門も搭載した。
船首楼と船尾楼は当時のヨーロッパ最新と同様に小ぶりで、その代わりに部分2層甲板を有していた。
全長も延長し、逆に全幅を狭めて船速にも優れていた。
同サイズの商船の場合、全長140尺(42メートル)前後、全幅35尺(10.5メートル)前後、排水量10000石(1600トン)、積載量7500石(1125トン)程度であった。
とはいえこの当時は、実際のところ商船と軍船の構造上の差異は外板(当然木製)の分厚さ以外にあまりなく、軍船でも同程度の積載量を有した。
この船は、本来は戦乱に使用するべく建造が進んでいたものだったが、戦う相手が国内にいなくなったので政府直轄の軍船として召し上げられ、航路開拓や探検、さらには海外交易路の防衛に使われるようになる。
また同程度の船は、平和の到来と共に商船という形で続々と建造され、さらに改良と発展を遂げていく事になる。
海外との接触が増えると、新規の軍用直船も建造された。
一方日本では、大東との戦いが終わると、一気に大型直船の建造は下火となった。
商業用の直船の建造は大商人レベルで一事活発になったが、それも江戸幕府の鎖国政策によって極端に縮小し、ついには「伝統工芸」レベルでの建造と技術継承が行われるまでに縮小していく事になる。
日本での大型船の建造停滞は、鎖国と並んで国内での木材資源の不足が原因しているが、やはり鎖国にこそ大きな原因があったと見るべきだろう。
■キリスト教
日本の鎖国の一番の原因は、キリスト教だとされている。
日本へのキリスト教伝来は、1549年にイエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルよって行われた。
その後ザビエルは、1552年に大東島に渡航して大東国にもキリスト教を伝えた。
1555年にザビエルが去った後も、大東にも日本同様に宣教師がやって来た。
しかし民間宗教である神道以外の「教え」、「宗教」に興味のない大東人は殆ど見向きもせず、一部の好き者が小数信者になったに留まった。
また特に庇護する貴族や権力者も現れないため、根付くこともできなかった。
しかし南都、大坂と首都東京には、貿易に来るスペイン人向けという名目でカトリック教会が建設されている。
大東人にとってのキリスト教とは、かつての仏教同様に外国から有益な知識や情報を手に入れるための外交手段でしかなかった。
また大東では、西洋の文物のうち火薬兵器、帆船(ガレオン船=直船)を始め新規技術や知識、珍しい文化だけが取り入れられた。
特に食生活の取り入れは、肉食が進んでいる分だけ西日本よりも多かった。
知識や技術についても、西日本よりも広く深く受け入れられている。
一方の西日本では、九州地方を中心にしてキリスト教はかなりの浸透を見せた。
戦国時代という戦乱の中での病んだ空気が、仏教の代替として新しい宗教を求めた結果だった。
また織田信長に代表されるように、一部の権力者は旧勢力である仏教を政治から切り離すべく、キリスト教を積極的に利用した。
しかし今度はキリスト教が政治へと入り込み始めたため、日本人達は慌ててキリスト教を国内で禁止するようになる。
江戸幕府によって、キリスト教への弾圧は年々強くなる。
カトリック系キリスト教を信奉する国の出入りまでが禁止となり、徐々に江戸幕府によって鎖国が完成に向かっていく。
禁教と鎖国の決め手となったのは1637年の「島原の乱」で、江戸幕府の決定にオランダ人は自らのアジア進出の拠点となっているジャカルタでしばしの喜びに浸った。
しかしこの頃の東アジアのオランダ人達は、喜んでばかりもいられなかった。
北東アジアには、大東というもう一つの日本人の国があったからだ。
しかも大東の方が、西の日本よりも強大な存在だった。




