214 ファイト、国内国家たち(14)
独裁者の消えた日本、外敵の去った大東。
それぞれには、戦国時代を締めくくるための最後の戦いと次の時代への扉が待っていた。
■戦国時代の終焉(大東の場合)
■最後の戦い
「第三次日本・大東戦争」が終わって日本人が立ち去った後、大東には強制的に中断されたままの戦国時代が残されていた。
南北両陣営も基本的に大きな動きはなく、俗世化し武装した宗教勢力も二つに分かれて対立していた。
しかし情勢は、北軍が大いに優位にあった。
これまでの戦いと日本軍の侵略によって、旧大東州は既に大きく疲弊していた。
対して北軍中核を占める田村氏は、新大東州を拠点としているため疲弊はあまり見られなかった。
新大東州に駒城などの中立勢力が多いのは北軍にとっては気になる点だったが、大東の実権を握れば自然と従ってくるという目算も同時にあった。
つまり北軍にとっては、既に疲弊しきっている南軍残余を降伏させてしまえば、自分たちを中心として大東の再統一が叶うという事になる。
日本軍が去った頃、大東の大諸侯は10数年前からそれなりに変化していた。
旧皇領は混沌した状態に戻り、一事はそこを殆ど占めた馬名氏はほとんど姿を消していた。
馬名行儀の子孫は辛うじて伯爵の地位は保っていたが、英雄が去って後はもはや大諸侯とは言えなかった。
当時の南軍の中心は、日本との戦いでも大きな役割を果たしたとされる、多々野、保科を中心とする旧大東中原に勢力を持つ名門中の名門貴族だった。
一度は没落した坂上伯は、馬名没落に比例してかなりの勢力を取り戻していたが、彼らは馬名などを憎むため北軍に与していた。
旧高埜領の多くも北軍諸将の領土となっているため、北軍と南軍の勢力差は、単純に石高(人口)で言うと、「北:南=2:1」にまで開いていた。
当初南軍優勢だった経済格差も、東京大火と大坂の裏切りと没落によって大きく変わった。南都を抱える茶茂呂氏の隆盛もあって、完全に北軍優位となっていた。
ただし二つの勢力にそれぞれ付いた神道は別で、北軍側に与する主神道は既に青息吐息で、日本撃退により功績の大きかった照神道が旧大東州で大きな支持を得ていた。
また一方で、日本の侵略であまり大きな役割を果たさなかった北軍に対して、旧大東州の住民の目は厳しかった。
北の諸侯での例外は駒城だが、駒城伯は日本が撃退されると中立状態に戻ってしまい、北軍の再三再四の参戦要請を巧みに断っていた。
しかし日本人が完全にさって数ヶ月が経過した1599年3月、茶茂呂系貴族の黒姫氏が同人種の茶茂呂氏などを頼って、ついに北軍への寝返りを実施。
これで大東の最後の戦いが動き始める。
北軍は再び広大な仙頭台地へと大軍を進め、主神道信徒には戦後の覇権が欲しければ自力で照神道を殲滅するように伝え、自らは南軍主力の撃滅へと向かった。
南部でも黒姫氏を先鋒とした北軍の茶茂呂連合軍が進撃を開始し、南軍の最有力武将である多々野氏の動きを封じた。
こうなっては、保科伯爵を中心に利波伯爵、片脇勲爵、それと馬名伯爵の残骸ぐらいしかまともな諸侯のいない南軍の不利は明らかだった。
旧皇領や中小の諸侯を全て合わせても400万石程度で、対する北軍は総力を傾けた場合倍以上の国力を持っていた。
実際仙頭台地に進軍した互いの軍勢は、南軍14万に対して北軍は30万以上あった。
しかも北軍は騎兵も戦虎も豊富で、そして大砲や鉄砲も十分に装備していた。
経済的優位もあるため、補給に関しても北軍が優勢だった。
1599年6月、「緑ヶ原会戦」。
防戦に徹して相手の疲弊と後退を狙う南軍に対して、北軍は相手をじっくり攻めつつ兵力と機動力の優位を使い相手を着実に包囲していった。
さらに一日で戦闘が終わらないと、夕刻以後から得意の戦虎による夜襲を敵戦線後方各所で実施。
翌日に再開された戦闘で、昼近くに南軍戦線は崩壊。
砲兵と殿が奮闘したおかげで全面崩壊は避けられたが、戦闘の結果利波氏の領地が戦略的孤立を強いられ、馬名領深くに北軍が入り込んだため、以後南軍の勢力は「決戦」ができないほど疲弊する。
一方その頃、二つの神道勢力の決戦も行われていた。
北軍の侵攻に呼応して根こそぎ動員で集めた10万の習合兵を進める主神道軍は、三峰山地北方平原で迎撃に現れた照神道軍と激突。
双方合わせて25万の習合兵が、互いに「巫女姫」の再来を願いつつ血みどろの戦いを行うという、ある意味救いようのない戦闘が数日間に渡って続いた。
そして順当に数で押し切った照神道軍が勝利し、戦闘に続く凄惨な追撃戦の結果、主神道は主な神道習合兵と彼らが持つ装備、つまり軍事力をほとんど失ってしまう。
照神道の勝利は、本来なら南軍の希望の星だった。
だが北軍と照神道の方が一枚上手で、既に双方ともに新しい同盟相手との握手を済ませていた。
北軍は、権力者は神道を政治に利用してはならないという考え方を今更持ち出して、その後も続いた照神道軍の二社臨界大社への進撃を無視した。
自分たちは東京への進軍、南軍各諸侯の本拠地への進軍を優先した。
そして首都東京が北軍に対して城壁の門扉を友好的に開く事で、大東の戦国時代は実質的に終焉した。
終焉に際して、日本のような双方の死命を決する戦闘や、旧勢力の籠もった城の落城などという劇的な光景は見られなかった。
終焉の光景は、二社臨界大社とその周辺で行われた虐殺と暴力、そして北軍を花束と花吹雪で歓迎する東京の人々だった。
■戦乱の幕引き
7月末からは、北軍の東京入城と南軍諸侯の降伏の為の会議が開催された。
会議の中心は北軍の盟主である田村公爵家だったが、南北の争いには終始中立を貫いた駒城などの新州の中立諸侯の意見を無視することもできなかった。
このため当初こそ南軍に対する話しが中心だったが、中盤以後は大東の今後を決めるための会議となった。
この会議で、戦乱初期を主導した馬名氏の断絶が決まるなど、戦国を生き残った諸侯の新たな配置が確定された。
だが戦国以前との違いも大きかった。
諸侯や人種の面では、戦乱全般において茶茂呂人、古大東人、アイヌ人が活躍したため、民族としての復権がある程度進む事になる。
平行して大東人だけの集権的な政治を続けるわけにもいかないし、今までの政治の欠点も明らかになったため多くの政治改革が実施された。
しかし行われた改革の多くは、皮肉にも馬名行義が途中まで行っていた事がほとんどだった。
この点は日本の織田信長と似通っていた。
そうして再編成された大東国では、多くの民族、下層民衆の意見を汲む制度が整えられていく土壌が形成される。
大東の君主制度全体も近世的な中央集権体制へと進み、戦乱の間に各大貴族の間で培われ洗練された官僚制度、軍制が導入され、近世的国家に昇華していった。
しかし、飛び抜けた絶対者や君主が現れなかったため絶対王政には一度も至らなかった。
戦乱を実質的に終息させた当時の田村公爵も、皇族の婚姻こそするも自らは皇族にはならず、天皇の権威は以前よりもむしろ低下した。
また、大東再統一後は、日本に対する復讐戦を望む声が高まるも、政府は国内の安定化と平和状態への移行を重視した。
戦乱の時代から安定した時代への移行には莫大な資金と努力が必要だという事を新時代の為政者達の多くが理解していたからだった。
安定した時代が到来すると、商工業のさらなる発展に平行して首都東京、旧都大坂、その他大東の主要な都市には、政府の権威付けを目的として「見せる」ための豪華な城塞や宮殿が造営されるようになる。
諸侯もこれにならい、今まで大東に無かった豪奢な城塞建築、宮殿建築が各地に建設される。
そうした建造物は、文化的にはまだ大東より進んでいた日本からの影響も強く、日本の城郭や天守閣を模した建物も造られた。
ただし大東の建造物は、神社ですら古くから焼き煉瓦を多用していたので日本とは少し趣が異なっていた。
また、平坦な地形が多いせいか、遠くからでもよく見える高層建築を作りたがる傾向が昔から強かった。
しかし平和な時代が到来したからこそ、大東の文化の一側面である景観の変化が起きていったと言えるだろう。
そしてそうした姿は、近世へと順当に時代を進んだ大東の次のステージに向けての準備運動でもあった。
いっぽう、主神道が滅亡して旧領は照神道領に編入されたが、照神道の栄光は長くは続かなかった。
主敵を失った照神道の主に旧主神道領での政治は善政にはほど遠く、以前よりも重い税、軍役、賦役が待っていた。
この話しは瞬く間に大東中に広まり、信徒の大部分が集中する旧大東島でも、旧来の”自然神道”に回帰する者が増えだした。
この回帰現象は、戦国の世に民衆が飽きていた大きな証拠だった。戦乱の終息と共に、照神道は急速に廃れていく事となる。
それでも一部の急進派が武力に訴えようとしたりテロを実施するも、それがますます照神道から民心をひき離す事になった。
最終的には、天皇家が命じたり諸侯が討伐することもなく、ほぼ自然消滅した。
彼らが残したのは、戦いの記録と現在も世界遺産として伝えられている巨大な神社建築だけだった。




