212 ファイト、国内国家たち(12)
■「三峯山麓の戦い」
この戦いは、開始当初は日本軍が勝利するものと考えられていた。
先の戦いで主神道が無理矢理動員した習合兵はほぼ壊滅しており、数において現地大東軍の主力にすらなれないまでに消耗していた。
当然と言うべきか、戦場となった三峰山地に兵力を送るゆとりはない。
現地大東軍の数も、数では戦闘力に劣るとされる巫女姫の率いる照神道を中心とした雑多な神道習合兵が主力で、戦列に参加していた周辺諸侯の軍勢を合わせても10万に達していなかった。
しかもこの時の日本軍は、大東並かそれ以上の火力(火縄銃)で武装していた。
戦闘は予想通り日本軍有利に推移し、初日の平野部での会戦は日本軍の順当な勝利で幕を閉じた。
その後山間部での攻城戦となるが、この時までに敗残兵狩りや別の方面への後退、逃走などで大東側の戦える兵力は2万にまで減少していた。
だが山岳戦に入った時、大東側に援軍が現れる。
大東の北と南の果てからやって来た、茶茂呂海軍の巨大戦艦を露払いとして日本の封鎖線を突破してきた、北の名門駒城を中心とする精兵だった。
これまで駒城氏は、大東戦国の戦いには正当性がないとして中立を貫いてきた。
しかし日本軍の侵攻に対しては、日本軍が襲来する前から警鐘を鳴らしていた。
実際の戦いの準備は、周辺に犇めく北軍諸侯の警戒感を引き上げないため最低限としていたが、日本軍上陸後に本格的な準備を始める。
既に戦っている同胞にも援助の手を早くから差し伸べ、自らも「大東国を守る戦い」への参加を表明した。
だが、周囲を囲む北軍諸侯としては様々な理由で駒城に動いて欲しくないため、明に暗に邪魔をし続けていた。
そこで駒城は、自らの持つ外交力を駆使して、海路での援軍投入という劇的な演出を実現する事に成功する。
三峰山地に投入された駒城を中心とする陸兵は約2万だったが、大東最強を謳われる騎兵、最新鋭の砲兵、そして新州が誇る戦虎部隊を中心としていた。
部隊の指揮も嫡男の駒城忠宗が務め、将兵の全てが今まで戦乱に参加できなかった鬱憤を晴らすべく、そして侵略者の日本人を駆逐するべく戦意を燃やしていた。
日本軍はまずは茶茂呂海軍の誇る巨大戦艦の痛烈な艦砲射撃の洗礼を、沿岸部の補給拠点、補給路、進撃路に受ける。
小型の旧式軍船を中心とした艦隊も蹴散らされた。
そして沿岸部への強襲上陸や陸路からの反撃を警戒していた日本軍に対して、山間部での夜襲が実施される。
夜襲を行ったのは言わずと知れた戦虎遊撃部隊であり、夏の戦場は剣歯猫にとって最高の舞台だった。
敵を追いつめていると思っていた日本軍の各部隊は不意を打たれて崩れ、攻撃していた山岳要塞から大東軍が打って出てきた事もあり退却を余儀なくされた。
その後さらに平野部での騎兵戦にも破れた日本軍は、そのままこの戦いでの物資集積所を破壊されたこともあり、戦闘を全面的に中断せざるを得なかった。
日本軍の死傷者の数はそれほど多くはなかったのだが、この場合大東側の三峰神社を救うという目的に絞った戦闘が巧みだった。
▪️交渉決裂と再出兵
主に日本側が戦争の収めどころだと考え、講和会議が本格化した。
だが、日本の独裁者豊臣秀吉は、旧大東州の征東国、遷鏡国二国の割譲を求めるなど強硬な姿勢を崩さなかった。
これではラチがあかないので、日本、大東の外交担当者はさらに一計を案じる。
日本側は秀吉に入貢受け入れを伝え、さらに大東側が貢ぎ物を持った使者を使わすと伝えた。
大東側は、自らの行いを日本が大東との国家間の貿易再開を認めた事への感謝を伝える行為とした。
大東の使節派遣は、天皇家や大東御所の困窮のためなかなか進まなかったが、大東各諸侯が資金や文物を拠出する事で何とか整え、1595年に日本に使者を派遣した。
派遣先は伏見であり、京の御所ではなかった。
これは大東側が日本の落ちぶれた天皇に入貢する気がない為だが、秀吉の家臣達は大東が豊臣秀吉こそを日本の絶対者だと認めたためだと秀吉に説明した。
だが、大東の使節に謁見した秀吉は、自らの要求がほぼ受け入れられていないことに激怒する。
大東の使節を罵倒、即刻立ち去るよう怒り狂った。
そして怒りのまま大東への再度の出兵を決める。
■慶長の役(1596年~98年)
和平交渉が失敗すると、豊臣秀吉は再び日本中の諸侯に動員を命じた。
1596年(慶長元年)に再度の侵攻が実施される。
日本軍の侵攻は、今回も大坂が大東の策源地となった。
大坂の商人としては、一度同胞を裏切った以上日本側になんとしても一定程度の成果を挙げてもらわなくては、自分たちの今後の立場がないからだ。
しかし今度は、大東側もある程度団結して事に当たる。
戦闘はまずは洋上で発生。
先手を打ったのは大東側で、遠洋航海にも長けた茶茂呂艦隊などが日本軍の中継拠点となっている八丈島を襲撃。
同地で「八丈島海戦」が発生して、日本と大東間の艦隊戦闘が行われた。
ここではほぼ奇襲攻撃に成功した大東側の勝利に終わり、多くの船を失うか傷つけられた日本軍の大東への再度の本格的派兵は延期を余儀なくされる。
時を同じくして、大東水軍が北軍、南軍を問わず行った「私掠」活動によって、日本列島近辺の海上交通は大いに混乱。
これも日本軍の大東侵攻を遅らせることになる。
またこの行為は、大東が日本列島に対して行った歴史上でほとんど初めての本格的攻撃だったため、豊臣秀吉の面目は丸潰れとなり、日本軍の侵攻を是が非でも行わせる原因にもなる。
日本軍が大東に軍を送り込めたのは、翌年の1597年5月だった。
いまだ統一した行動の採れない大東に対して、海軍の数を揃えて海上交通路を確保するのに一年以上の歳月が必要だったのだ。
そして大東側は、この1年を無駄にしなかった。
日本軍は上陸したはいいが、今度は安易に進撃して占領地を拡大するどころではなかった。
有力諸侯は当初から自らの領地の防衛体制を固め、農村部は三峰山地を中心に神道習合兵で溢れていた。
大坂から最も近い大都市で多々野氏の本拠の倉峰城も、今度は準備万端整えていた。
城の形式も今までの戦いの教訓を反映して、新時代の攻城戦に対応した重厚な要塞に変貌していた。
今までは高く分厚い城壁だったが、城壁外の市街地は潰され、新たに大きな掘が造成されていた。
厚い城壁は掘から出た土による土塁で埋められ、堀に続く 稜堡となった。
伝統的な中世からの城壁では、大砲に耐えられないからだ。
この大東での築城様式は、15世紀以降のイタリア式築城様式を真似たものであった。
しかもこのような工事が行われたのは倉峰城だけでなく、保科氏の居城藤田城など征東、遷鏡各所の主要都市も、時間と資金、労働力の許す限り変化していた。
首都東京も、多数の神道工兵を動員してこの時絶賛工事中だった。
こうなっては、もはやどの城塞も短期間での攻略は不可能で、進撃は出来ても占領地の拡大は難しかった。
故に侵攻した日本軍が目指したのは、「政治的な勝利」だった。
そして侵攻した日本軍が政治的勝利を得ようとすれば、目指す場所は一つしか無かった。
首都東京だ。
敵国の首都を落とせばそれで面子が立つ。
加えて大東側が首都を守ろうとすれば、辺境の城塞としに籠もっている兵力も移動のため出てこなければならない。
場合によっては、これらを各個に野戦撃破できる可能性もある。




