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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
第三章 ノーマル ルート 及び 引きこもりルート

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211 ファイト、国内国家たち(11)

 二つの神道勢力は、極めて短期間のうちに兵団を整え、大東の諸侯達を無視するかのように日本軍に対して反撃を開始する。

 神道勢力の権力者達の視線の先には、貴族達を形骸化し、自らこそが天皇のもとで権力を握るという未来を描いていたのだった。

 彼らにしてみれば、未曾有の国難の到来はヨーロッパ世界の「王権神授説」による絶対王政のような権力を作り出すための千載一遇の機会だったのだ。

 

 そして権力闘争や野望の事など何も知らない一人の巫女に率いられる形になった神道兵達によって、日本軍は大東島でも本願寺(一向宗)の戦いのような宗教勢力との不毛な戦いを強いられることになる。


 しかも大東神道の習合兵達は、一向宗の門徒兵たちよりも攻撃的だった。

 全員がまるで根来寺の鉄砲僧兵のようで、習合兵の指揮官は全員傭兵隊長の鈴木孫一のように映ったと言われる。

 

 そうした中で、日本軍にとって苦難の時間である冬がやって来る。

 戦乱で荒れた大地の恵みは少なく、あっても大東人たちが日本軍が来る前に焼き払うか無理矢理収穫して街に籠もった。


 しかも日本軍には、大坂と大坂に習った一部の中小都市以外に、巨大な城塞都市は少なかった。

 最近焼け野原となった東京ですら、分厚い門扉を閉ざして籠城戦を続けていた。


 そして東京に代表されるように多くは籠城したままであり、単に籠城するだけならどの城塞都市も数年間は問題ないという、日本側にとって非常に厄介な状況だった。

 しかも農村部は狂信者(大東神道の信徒)で溢れ、日本人に安住の地はなかった。

 

 日本軍の活動は停滞し、自らを守るため各地に固まってしまうため、必然的に占領した土地はほとんど何もしないまま手放すことになった。


 そして日本軍の活動が停滞すると、旧大東州の大東各地の諸侯が息を吹き返し、神道習合兵に協力する形で日本軍を撃退する動きを各地で見せた。

 各地での大東側の反撃は12月に入ってから活発化し、次第に戦闘は大規模化していく。

 

 この状況に対して日本側は、これでは冬を越すことも難しいと考え、現状で数の上での主力となっている神道勢力の殲滅を企図する。

 大坂近在の照神道は三峯山脈での包囲行動を強化し、軍主力を主神道の本拠地である二者臨界大社に向けた。

 


・1593年

 「熱詞の戦い」。

 旧大東州北部の琉婚川中流域で発生。

 文禄の役最大規模の戦闘。

 大東軍、日本軍双方合わせて15万人が激突。

 大東側が数で圧倒しており、日本軍は上杉、蒲生を中心に徳川の武将本田忠勝が先鋒を務めていた。

 

 対する大東側の主力はあくまで神道習合兵で、全軍約10万のうち7万人を占めていた。

 大東の兵力は数だけなら日本側の二倍だったが、戦闘の熟練度では日本側に大きなアドバンテージがあった。

 

 そして戦国最強とも後世言われた本田忠勝が大東の戦虎部隊すら蹴散らす大活躍を示し、北の強兵で編成された日本軍の一転突破戦術が功を奏して戦闘は短時間で決着。

 日本軍の勝利に終わる。

 

 だがこれで追いつめられた大東側、特に自らの本拠地近くにまで攻め込まれていた形の主神道勢力は、さらに大戦力を無理矢理動員して日本軍の撃破を行おうとする。

 続く大規模戦闘は半月後に行われた。



▪️「二者臨界大社の戦い」


 追い込まれた主神道領は「進めば天国、退けば地獄」と領民を脅し、近隣の勢力圏から数えで15歳から60歳までの成人男性を動員した。

 更には持梓巫女という形で、多くの女性も志願という名の動員をかけられた。


 これには全軍を率いている形の巫女姫ばかりか照神道も流石に反対し、多くの諸将も反発を示した。

 だが、宗教勢力を恐れる日本軍の積極的な攻勢を止めるための手段が他にないため、動員は認めざるをえなかった。

 

 戦いは前回の教訓を受けて、動員された彼ら・彼女らの背後では、ごつい神官が二十匁多連装銃を構え、死を恐れる卑怯者の信徒を”破門”する特権を行使する機会をうかがっていた。


 文字通りの「死兵」の群れであり、捨命救済の唱和を皮肉り「進むも地獄、退くも地獄」と言われた。

 だが凄惨な戦闘のお陰もあり、日本軍は火力こそ高いが稚拙な戦闘に終始する大東軍を攻めきれず、自らの損害と消耗の積み重なりもあってついに攻撃を諦めた。

 戦争が完全に転換した瞬間だ。

 

 ちなみに、後世に伝わる持梓巫女の武装といえば弓か薙刀だが、1580年代には大東中に100万丁近い銃が蓄積していた火縄銃マスケットが主な武装になっていた。

 

 鍛造技術の向上に伴い軽量小口径の火縄銃が普及し、反動も少ないこれら新型銃が使用されていたようだ。

 比較的近距離での撃ち合いが銃兵の戦い方であることから、戦訓に従い大型の銃よりも資材節約になる小口径銃が選好されたのだ(少数の大型銃が別に進化の道を歩んでいる)。


 この戦い以後、冬の海を使った補給や増援が難しくなった日本側は戦線を大きく縮小して完全な冬ごもりに入り、戦闘自体も一事沈静化した。

 

 一方では、かつての戦い以上に頑強な抵抗を示した大東軍との間に和平を結ぼうという動きが、現地日本軍の間でほとんど独断で進められた。

 ものの見える日本人達からしたら、例え100万の兵を投じても大東の完全征服など夢物語だったからだ。

 


 現地日本軍の外交担当者にすれば、形式的な大東の日本への服従さえあれば、戦闘は即時停止してもよかった。

 形だけでも大東が日本に従えば、まさに形だけは豊臣秀吉による「真なる天下統一」は達成される。


 あとは、既に痴呆が進んでいたとも言われる秀吉に「唐征服」をそそのかせて、日本本土での準備を行う「ふり」をすれば良いのだ。

 これで日本軍は、取りあえず地獄のような大東島から引き上げる事ができる。

 

 大東側としても、自らを二分しての戦いの中での日本軍の侵略は一日も早く解消したかった。

 しかも神道勢力が勢いを増しているとあっては尚更だった。

 大東天皇も、傲慢な神道勢力に権威を保障などしてもらいたくはなかった。

 とはいえ大東側としては、たとえ形だけであっても日本人に頭など下げたくはなかった。

 

 そこで日本、大東双方の外交担当者が知恵を絞る。

 相互貿易の再開を朝貢と偽り、大東天皇が豊臣秀吉を関白として認めるというものだ。

 後は日本側の外交担当者が豊臣秀吉に「少しばかりのウソ」をつけば、話しは丸く治まる、はずだった。

 

 この作戦は当初はうまくいき、大東側が「献上」した宝物、金貨、剣歯猫、最上品質のアルキナマコなどを、豊臣秀吉は大いに喜んだ。

 親書にも秀吉を関白と認めると書いてあったので、大東が自らに服従したものと思いこんだ。

 しかしその後が不味かった。

 

 大方の予想通り豊臣秀吉は、すぐにも「唐入り」要するに中華大陸への出兵と征服を宣言したのだが、その際の兵力、物資、資金の拠出を大東にも強く求めたのだった。

 また大坂に自らの政権の奉行所の設置(大東探題)、自らの諸侯の転封すら求める。

 

 当然だが、大東側に秀吉の「命令」をきく気は皆無だった。

 このため再三再四出された命令を無視した大東に対して、秀吉は大東の「反乱分子」の鎮圧を、まだ大東に留まっていた軍主力に命じる。


 その頃の大東島は、少なくとも大東人の間で日本人を撃退する間は自分たちの戦争を休戦するという方向で意見の一致を見ていた。

 だが、誰が兵力をどれだけ出すかという点で南北双方の対立は消えず、また自分たちの戦闘で消耗した海上戦力の不備もあり、有効な撃退手段を見いだせずにいた。

 

 結局日本軍と睨み合いをしていたのは、貴族達にかわって大東の覇権を手に入れようという野望を燃やす二つの武装神道勢力だった。その名目上の頂点というか、この頃には半ば偶像化されていた「巫女姫」が率いる形の軍勢だった。

 その数は農閑期になると激増し、最大で20万人に達した。

 そしてここで日本人と大東人双方が、とにかく講和を進めるため、武装神道勢力を秀吉に対しての「悪者」にしたてあげる。

 

 そうして狭いが確実に占領地を保持するべく固まっていた日本軍約10万は、自分たちが策源地にしている大坂近辺にある照神道の本拠・三峰北阪大社を狙った総攻撃を実施した。


 三峰北阪大社のある三峰山脈は、大東としては複雑な地形の山間部の中にあった。

 神社に至るルートの全てに強固な要塞が複数構えているとはいえ、大東の山々のほとんどは日本の山河に比べたら平坦な地形だらけだった。


 城塞都市は恐ろしいが、山間部で急速に発展した武装神道勢力には、ほとんど有力な城塞がなかった。

 これまでは自分たちの戦力分散で捨て置いたが、ここでは手抜きをする積もりはなかった。


 再び主神道の本拠地・二者臨界大社を目指した。

 今まで自分たちが策源地にしている大坂近辺にある照神道の本拠・三峰北阪大社を狙わなかったのは、三峰北阪大社が大東としては比較的複雑な地形の山間部の中にあり、神社に至るルートの全てに強固な要塞が複数構えているからだ。


 これを本気で攻略したければ、数年越しの本格的な要塞攻略戦が必要であり、対して二者臨界大社は一種の城塞都市となっているも山の麓の平地に構えられており、攻略が比較的容易かったからだ。

 

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