210 ファイト、国内国家たち(10)
大東と日本の「戦国時代」は、日本の豊臣秀吉が先にゴールの帯を切る事になった。
しかし日本の独裁者に上り詰めた豊臣秀吉は、「真の日本統一」という次なるゲームを開始する。
■「第三次日本・大東戦争」
■文禄の役(1592年~93年)
「第三次日本・大東戦争」は、西暦1592年から98年にかけて行われた。
大東名は「七年戦争」もしくは「大展大乱」。
日本名は「文禄・慶長の役」。
戦争の発端は、1590年秋に豊臣秀吉が大東国に日本の天皇への「入貢」を求めたことが発端となる。
この行為自体は、日本の歴代権力者が何度も行ってきた事なので、本来なら取るに足らない事件だった。
しかしこの頃すでに、豊臣秀吉は大東島への大規模な侵攻を決意していた。
その証拠として徳川家康の関東転封に連動して、関東各地沿岸部の港湾機能の強化や、江戸の街がある香取湾入り口に巨大な野戦陣地としての城塞建設を始めている。
この事を大東側も商人などからの情報で伝え聞いていたが、自分たちの戦国時代で身動きできない事もあってほぼ無視された。
しかも1591年3月に起きた「東京大火」で事態はさらに混沌とする。
この火事で、大東の多くの有力諸侯が焼死したり大やけどを負い、せっかく再建された東京の中央行政組織も多くが破壊されてしまった。
つまり大東の中央行政と地方行政の双方が、大打撃を受けたのだ。
加えて火事の原因を南軍、北軍双方が相手に求めたため、沈静化の動きを見せていた大東の戦乱は再び燃え上がる気配を濃厚に見せていた。
急進的な二つの武装神道の信徒も、再び増加に転じた。
一方日本では、豊臣秀吉の号令のもとで「大東征伐」の準備が急速に進んだ。
関東地方南部に、続々と日本中からの諸侯が集まり、天然の良港でもある横須賀村、浦賀村に造船所と多数の陣屋が作られた。
徳川家の新たな本拠地となった江戸も、全国の諸将が手伝う形で急速に開発され、まずは新たな街としてではなく軍事拠点としての整備が進んだ。
そして同年秋、再び日本から大東に使者が送り込まれる。
この使者の持っていたのは勅書で、「入貢」と大東天皇の日本天皇への謁見を求めた極めて権高で一方的なものだった。
加えて今回も、日本側が大東を国家とは認めず、相変わらず「反逆者」「蛮族」としていた。また、この時の文書でも「東夷」という言葉が使われていた。
そしてこの文書では、要求に応じない場合は討伐軍を送り込んで残らず征服すると、この時代の言葉の強い調子で書かれていた。
当然、大東側が受け入れる事はなかった。
使者を殺して送り返さないだけ理性的だとすら言われた。
・1592年
同年3月、「日本丸」と名付けられた三檣型の巨大”直船”を総旗艦とした日本軍の「大東征伐軍」が香取湾口近くの横須賀を出撃。
周辺部から多数の艦船、船舶が合流しつつ、既に中継拠点として完成していた八丈島城沖合で総数400隻もの大艦隊を編成した。
最も巨大な船で、船員と兵士を合わせて約1000名。
小型で外洋航行能力の低い小型船で30名程度。
平均150名、合わせて6万の兵員を乗せた大侵攻部隊だった。
上陸を予定する部隊だけで約4万名。
船の規模に対して人の数が少ないのは、多数の武器、当面の補給物資、多数の馬を同乗させていたからだった。
また戦闘艦艇の多くは多数の大砲や鉄砲で武装しており、ヨーロッパのガレオン戦列艦などと同様の戦法も十分に体得した優秀な艦隊だった。
搭載火砲の数は、当時のヨーロッパの船舶よりもかなり少なかったが、相手が同程度の大東である以上、特に問題はなかった。
この4年前に破滅したイスパニアの「無敵艦隊」に匹敵するとよく言われるが、無敵艦隊は水夫、陸兵を含めても約2万7000名、艦船合計130隻と、この時の日本艦隊の半分以下の規模でしかない。
ヨーロッパの艦船の方が火砲の数、質では圧倒していたが、同じガレオン船を用いるので、やはりこの時の日本艦隊の方が強力と考えて問題ないだろう。
しかも春の東日本海を乗り切るための日本の軍船や船舶は、当時のヨーロッパの一般的な艦船よりも航行能力が高いのが一般的だった。
これは、日本、大東の間の長年の航海における技術の蓄積と、15世紀の大陸からの技術導入、そして17世紀に入ってからのヨーロッパ船舶の模倣によって形作られたものだった。
侵攻に参加した大東征伐軍は、地理的条件から東海から奥州にかけての大名が主軸となった。
このため新たに東海地方に封じられた豊臣恩顧の大名、有力大名の徳川、上杉、蒲生、伊達、佐竹などが主力となる。
西国の諸大名も動員されたが、距離の関係もあって主に船舶方面のみとされた。
そしてこの大艦隊は、洋上で特に大きな迎撃に会う事もなく大東島に上陸を実施。
何とその上陸先は、大東最大の港湾都市にして旧都である大坂だった。
自らが支えた南軍の窮地に連動した自らの商業的苦境に対して、大坂の商人達が自らの祖国を売ったのだ。
しかも大坂の商人達は、豊臣秀吉(日本)による「真なる天下統一」の暁には、大東の貿易独占、日本、大東間の貿易独占を、裏切りに対する交換条件としていた。
ある意味現世での利益追求を求める大東人らしい選択だったと言えるだろう。
一方、同じ大東人による裏切りによって日本の大軍が大東の大地を踏んだ事に、大東人達は混乱に陥った。
大坂近隣の多々野氏は、直ちに近隣と図って迎撃体勢を整えようとした。だが、多々野氏にとっても最も重要な都市である大坂に入り込まれ、そのまま懐深く日本の軍勢が一気に攻めかかって来たため為す術がなかった。
多くの戦力を北軍に指向していたため十分な迎撃体勢が取れなかった多々野氏は散々に破れ、自らの本拠地であり先祖伝来の土地だった倉峰城を奪われ、一族郎党は命からがら近隣の保科領へと落ち延びることになる。
その間も日本本土からの増援部隊の投入と、旧大東州中原での進軍は続き、北軍にばかり目を向けていた南軍諸将を各個撃破の形で次々にうち破っていった。
その様は快進撃と呼ぶに相応しく、秋がくるまでに保科伯、黒姫伯も敗れ、片倉勲爵は自らの領内での伝統的閉じこもり戦略に入って何とか耐え凌いだ。
そして旧皇領、旧高埜公領は有力諸侯がまだ地盤を固めていない事もあって再び戦場となって日本軍に蹂躙された。
夏までに15万人が送り込まれた日本軍は、僅か半年の間に旧大東州の約3分の1を地域を占領するに至る。
この間、東京大火で当主を含めて多くの有力者を失ったばかりの大東各諸侯の動きは常に鈍かった。
しかしこの夏、一つの小さな事件が戦争の転機となる。
旧高埜領内で戦虎を連れた一人の持梓巫女が、天照大神、天之御中主神双方のお告げを聞いたという噂が広まったのだ。
曰く「日の出づる東国(大東国)の信徒が皆手を携えた時のみ、死の国(西の国)より至る悪神を退ける事が出来る」というものだった。
そしてこの言葉に、日本軍に囲まれた状態の照神道は飛びつき、主神道も民心を得る為にも遅れてはならじと続く。
そして両者は日本人を退ける間という期間限定ながら手を結び、こうして後世に名も残されていない一人の少女が大東の救世主に祭り上げられることになる。
巫女は「大東のジャンヌダルク」と後に言われ、持梓巫女から取って「梓」と呼ばれた。
またそれなりの血筋だった事もあって「梓の巫女姫」と呼んだとも伝えられている。
そして彼女を名目上の指導者として、旧大東州の多くの信徒達が一斉に日本軍に対しての攻撃を開始する。
ある者は武器を取り、ある者は情報を集め、ある者は服従したふりをして日本兵にウソを教え、ある者は日本兵を自らのワナに陥れた。
当然日本側の反発は強まり、反発と日本兵の報復が強まれば強まるほど信徒達の抵抗も比例して強まった。
そして何より、当時の大東の神道勢力は、神道習合兵という大東の大貴族すら凌駕する死すら恐れない巨大兵団を持っていた。




