209 ファイト、国内国家たち(9)
・1589年
「半月湾の戦い」。
南都を巡る合戦で最大の戦い。
豊臣秀吉が日本列島の統一に王手をかけようとしていた頃、大東島での海上戦闘は最終局面を迎えようとしていた。
基本的に海上では、経済力と海運力に優れた南軍が優勢だった。
しかし新大東州が平定されて以後、余力のできた北軍は海軍力の整備に一定以上の努力を傾けるようになった。
そして今まで旧大東州に占められていた海外貿易の権利獲得を狙う北部の商人達も、北軍の海軍力整備に積極的に協力した。
この結果、この時までに北軍は有力な水上戦力を保有するようになる。
数年前に行われた小規模な戦闘でも、北軍海軍は南軍海軍に対して対等に戦えるようになっていた。
しかし流石に大東島南端にまで、その勢力をなかなか伸ばせずにいた。
今まで南軍が大東島全土にいつでも上陸可能だったのに対し、北軍の茶茂呂氏は孤立していた。
同族から出た裏切り者の黒姫氏に圧迫され、10年にわたり黒岩山脈を防衛ラインを敷いて防御に徹してきたが、海上封鎖で貿易は途絶。
領内の不満は高まっていた。
この状態を、北軍の側がうち破りに来たのだ。
当然、北軍の行動を阻止するべく南軍も動き、ここに「半月湾の戦い」が発生する。
情報入手が早かったため根こそぎ戦力を集め、さらに訓練度が高いため、戦闘初期は北軍が戦況を優位に運んだ。
しかし馬名行義亡き後、不遇を強いられていた素島水軍が、決定的瞬間で南軍に対して反旗を翻す。
しかもここで、茶茂呂氏の誇る優秀な造船技術で建造された、当時大東最大を誇る三檣型の”直船”による艦隊が南軍艦隊に突撃を実施。
予期せぬ状況の連続に南軍艦隊は瓦解し、多くの船を拿捕されて大敗を喫する。
これで南北の制海権も逆転し、今度は北軍が南軍の制海権を脅かし、地域によっては海上封鎖を実施するようになる。
特に素島水軍の拠点に近い首都東京は、基本的に南軍の支配を受けていたため海上封鎖の対象とされる。
陸路が残っているため孤立するわけではないが、これで南軍の資金源の一つとなっていた東京の商人達は大打撃を受けることになる。
しかもそれ以上に政治的効果は高かった。
首都東京の御所にいるまだ若い大展天皇や皇族、王族は、戦乱でどちらが有利かを即物的に見る傾向が強まり、馬名行義もなく戦闘にも負けてばかりの南軍に対して、一つの「意見」を突きつける。
「そろそろ講和してはどうか」と。
しかしこの状況での講和は、南軍諸将の敗北を意味するため、この時は断固として断る。
「水地島の戦い」。
この年二度目の大規模な海上戦闘。
後のない南軍及び大坂、東京の商人達が総力を傾けた艦隊による物量戦が功を奏し、東京の包囲の輪は解かれる事になる。
しかし南軍の損害も少なくなく、以後双方の海軍戦力が大きく低下したまま海上での戦いも膠着状態に陥る。
・1590年
「和倉湖会戦」。
北軍による大攻勢。
東京封鎖失敗を受けて、一度地上での兵力を再編成して改めて大軍を整えた進軍となった。
南軍も大軍を集めて互いに相手を認めつつ進軍したため、双方合意の上での戦闘である「会戦」となった。
参加兵力は双方合計で50万人を越えたが、30万近い兵力を揃えた北軍が優勢だった。
兵力の質も、既に財力で均衡しているため火力装備は似たようなもので、騎兵の優位、北軍固有といえる戦虎を有する北軍の優位にあった。
このため南軍は、一部を片脇氏が作り上げた水路の中に野戦築城で布陣させこれを予備兵力とすることで、南軍の騎兵が容易に使えない状態を作った。
さらに全軍の野戦陣地をより強固にする事で防戦姿勢を強め、少なくとも負けない戦闘を作り出そうとする。
この南軍の意図は当たり、双方巨大すぎる軍隊の統制がうまくいかない事も重なって、戦闘は規模に対してしまりのないものとなった。
結局この戦いでも南北双方の決着は付かず、双方膨大な損害を積み上げ疲弊しただけだった。
そして戦いの後、東京御所から双方に使いが出た。
今度は勅書だった。
内容は依然と同じで「いいかげん民の事を考えて講和しろ」だった。
そしてこの時は、天皇から民の言葉が出たことが重要だった。
すべてが形式化していようとも、全ての民を統べるのが大東天皇であり、民を代表しての言葉を諸侯は完全に無視も出来なかった。
双方の陣営は、例え形だけの茶番劇でも一度話し合いの席に座らなければならない。
こうして一事休戦と東京での会議が開催される運びとなる。
・1591年
「東京大火」。
天皇の勅書を受けて諸侯が集まりつつあった東京で、突如大火事が発生した。
大東の建造物は煉瓦造りが多いといっても、多くの木材を使用するし屋内には可燃物も多い。
そして一度に複数箇所で大規模な火災が発生すると、主に民間レベルだった消防機能は一瞬で麻痺した。
首都として火事対策で道幅が広く取られていた東京だったが、折からの北風に煽られる形で短時間の間に火災はほぼ全市街に広がった。
特に火事は、それぞれの御門、つまり城塞都市の主要な門扉付近で起きており、街から逃げ出すことは難しく、人々は大混乱に陥った。
火事は文字通り三日三晩燃え続け、「その様天を焦がすがごとく」と揶揄された。
そして火事が収まってみると、未曾有の災害が人々を襲った事が分かった。
火事の災禍は貴賤を問わず、特に東京の地理に不案内な地方領主達に多く出た。
これは南軍、北軍違いないが、地理的関係から南軍諸将の方が東京に来た事が多いため、北軍の方により多くの死傷者が出てしまう。
そして火事が起きた初期の頃から、この火事が謀略によるものだという噂が大東中を飛び交った。
北軍は南軍を南軍は北軍を非難した。
これでは会議どころではなく、辛うじて離宮に避難した天皇や皇族は何も出来なかった。
しかもこれが謀略だとした場合、天皇の言葉を完全に裏切った事になり、その罪は非常に重く、誰もが別の者が犯人だと言い立てるしかなかった。
しかしこの時の犯人は、大東人ではないという説が強い。
後世の多くの研究者は、大東の権威を全く意に介さない日本人こそが真犯人だというのだ。
なにしろ、この頃日本列島では、着々と大東大遠征の準備が整えられつつあったからだ。




