208 ファイト、国内国家たち(8)
■戦国の南北戦争
馬名行義の舞台からの退場によって、南北陣営に分かれたばかりの双方の陣営は混乱した。
基本的に「南軍」は、善良な独裁者とも言われた馬名行義によって成立していた。
対する北軍も盟主こそ田村公爵家だったが、実体は「反馬名行義」同盟だった。
このため双方ともに軸となる部分を失い、一事休戦状態となり、このまま戦乱ごと霧散してしまうのではないかと思われた。
だがこの頃の中央行政も、馬名行義によって成立した部分が少なくなく、戦乱を治めるにはどちらかの軍事陣営が勝利を掴むより他無かった。
また、旧高埜領の分割を含めて領土問題も数多く残り、さらに10年ほど続いた戦争での恨み辛みもある。
さらには、巨大勢力となった照神道と主神道が、互いの主導権を巡って対立を深めていた。
北軍、南軍で分かれたとき以下のように分かれたそれぞれの諸侯だったが、結局は大きな変化はなかった。
唯一の違いは、馬名氏にもはや馬名行義の姿はなく、馬名行義亡き後の馬名家と家臣団に代わりを担える武将が存在しないという事だった。
各軍陣営と勢力(1576年時点)
北軍:総石高1030万石
大諸侯:田村・草壁・笹森・西原・長瀬・茶茂呂
(河鹿・小牧・向坂・古室)
南軍:総石高964万石
大諸侯:馬名・多田野・黒姫・保科・守原・利波・片脇
中立:
大諸侯:駒城・松原・倉田・相良
なお、日本の戦国時代が早く始まったのに、天然の要害、峻険な山岳や河川、海で分断されたため有力な軍事勢力の巨大化が遅れていた。
そして織田信長の登場で、ようやく二大勢力といえる形が出来たと言える。
一方、国土が平坦な大東島では、日本と比べると短時間で敗北した領域国家が地上から消されてしまう。
早くも二大勢力化した大東では、戦闘に投入される資源も飛躍的に増大しており、合戦はヨーロッパや日本でみられるどんな戦いよりも巨大なものになっていた。
近いものだと、中華大陸中原での王朝交代時期に見られる大規模な戦闘になるだろう。だが、近世的というより火薬式前方投射兵器を用いる戦闘はいまだ似たような事例が見られない為、この時期としては世界で唯一大東島のみで行われた戦闘といえる。
両軍の主力部隊が犇めいた旧大東州の中原である和良平野は、双方30万の兵力が布陣、そして激突する戦場となった。
南軍は、その経済力にものをいわせた総力戦を得意とした。
優勢な海軍力を縦横に駆使し、北軍がその兵力を沿岸防備に割かざるを得ないように仕向けた。
このときの南軍の戦術は、日本において織田信長や豊臣秀吉などもよく研究したという。
大坂は従来の青銅による鋳造式よりも進んだ、鍛造式の鋼製大砲(日本でいう大筒)の一大生産拠点になった。
砂鉄資源はともかく青銅の材料となる銅と錫資源のない大東では、鉄を用いた大砲製造の研究・開発、そして量産化が日本列島より早かった。
また大東は、一部ではヨーロッパ並に家畜を有するため、人造硝石の取得が日本よりずっと容易かった事が、大砲の普及を促進する大きな材料となった。
そして当初は要塞防御用に運用された大砲だったが、16世紀末には積極的に野戦でも活用された。
帆走式の直船が主力となった軍船にも盛んに搭載された。
北軍は騎兵、火竜兵(鉄砲騎馬)と共に、戦虎遊撃隊を積極的に活用し、両軍の勢力が拮抗した仙頭台地周辺が主戦場になった。
南軍は海上輸送を以って出来る限りの軍需物資輸送を計画したが、内陸部の輸送網は馬車などを用いた輜重隊に頼るしかない。
そして、総延長数千kmの輸送路全てに充分な護衛を付き添わせるのは不可能だった。
ここに戦虎の活躍場所があった。
また、北軍は騎馬の豊富な供給を活用し、騎馬突撃を主戦法とした。
旧来の騎馬弓兵や騎馬槍兵に代わり騎馬鉄砲隊も組織された。
騎馬鉄砲隊を配備するには火薬の原料である硝石の供給が必要だったため、牛馬の屎尿から大量生産が図られた。
そして巨大化した戦争に対して、より物量戦に傾いた南軍は、中央からの指導があまりうまく行かなかった。
主な原因は、戦争全体を一段高い場所から客観的に見ることの出来る指揮官、参謀の不在にあった。
また中心に座る指導者が事実上いないため、諸侯間の連携が取れないことが年々増えていく事になる。
北軍も決して一枚岩ではないし優秀な指揮官に恵まれたわけでもなかったが、少なくとも田村公爵家を中心として動いており、また北の兵士は勇猛な事で知られていた。
・1577年
「小泉湾砲戦」、「南々実の戦い」及び「登麦の戦い」。
二者山脈は比較的傾斜の強い山脈で、大部隊が越えることが不可能だった。
また陸南の倉田伯領が中立国の壁であったことから、孤立していた守原氏は割と有利に同じ平野に領土を持つ草壁氏と戦ってきた。
摘麦を二分する草壁氏は、田村氏の支援を受けてはいたが、南軍の海上封鎖で主要産品の麦の搬出が滞って経済的な苦境に陥っていた。
窮地に陥っていた草壁氏の援軍として、田村氏は境東府から8万から成る軍団を進発させた。
そして北軍の行動に対して、意見の統一と兵力の派遣が遅れた南軍は一歩出遅れた。
南軍が遅れて派遣した艦隊は、待ちかまえていた北軍の艦隊に阻止された。
さらに北軍艦隊は南軍の海上封鎖を破り、草壁氏は一息つく事になる。
そして田村軍主力と草壁軍は、連携を取りながら分進合撃を実施。
想定を上回る大軍を前に内戦防御の優位を活かせなくなった守原軍は、まともに戦う事無く後退を続け、強いられた決戦である「南々実の戦い」及び「登麦の戦い」によって壊滅的打撃を受ける。
一連の戦闘の結果、守原氏は北軍に降伏。
北軍もこれを受け入れ、守原氏当主の守原宗弘の追放、守原伯領の大幅割譲、守原氏の北軍参加をもって幕を閉じた。
戦闘の結果、ほぼ同じだった南北軍の戦力均衡は、戦線の整理もあいまって以後北軍に有利(10.5対9.5 → 11対9)になっていく。
・1579年
「向日葵の戦い」。
名称に反して、人の背丈の1.5倍の高さに茂る大東ヒマワリの畑は地獄と化した。
新大東州をほぼ平定した北軍は、いよいよ南軍への攻撃を本格化。
その最初の戦いがこの戦闘だった。
そして南軍も、ここで北軍を押しとどめ、さらには勝利することで戦略的優位を得ようとした。
このため双方20万以上の大軍を投入する、極めて大規模な戦闘となる。
双方の陣営に与した神道習合兵も多数参加した。
日本の淡路島の半分ほどの広さの畑の中での遭遇戦が発展し、機動性を与えられた大砲も投入した戦いになった。
目の前に突如として現れる北軍兵に、至近距離から南軍砲兵の半貫散弾が火を噴き、砲兵は背後から戦虎に引き裂かれる。
怯えた銃兵のつくる円陣の周りを素早い戦虎の影が踊り、物音ひとつさせない一撃離脱で一人ずつ兵が食いちぎられてゆく。
銃兵横隊は、相手のまばたきが見える距離で火縄銃を撃ちあう。
戦場は混沌としたまま推移し、結局勝者のない戦闘となった。
そしてこの時の戦闘は、大東での戦闘を象徴するものだった。
当時の国家は経済力が弱体で、同時に金融システムも未発達であるために絶え間ない戦争は不可能であった。
だが、人口密度と経済力の高い大東で二大勢力化した結果、双方の勢力がある程度の規模の常備軍を維持し動かし続けることが可能になっていた。
半世紀後、凄惨な「30年戦争」がヨーロッパ中部を荒廃させるまで、大東における南北戦争に匹敵し得る戦争は世界中探してもみられなかったほどだ。
とはいえ、巨大な軍隊が戦うためには食料や火薬、鉛など大量の物資が必要となる。
馬にも飼い葉が、戦虎にも多くの肉がいる。
当然ながら、大規模な戦闘には金がかかった。
そしてさらに、鉄砲などの前方投射兵器を用いた戦闘は、今までの戦闘では考えられないほどの死傷者、いや戦死者を発生された。
「向日葵の戦い」でも、両軍合わせて40万人以上戦闘参加したうち、全体の10%近くが最終的に戦死していた。
負傷者を含めるとその数は全体の3割にも達した。
訓練度の低い神道習合兵による無茶な突撃が死傷者を増やした原因のかなりを占めてはいたが、だからといって戦闘を頻発させたくなる損害率ではなかった。
このため双方の陣営は、従来の城塞都市や戦場での野戦築城を発展させた戦闘形式の研究を行ったが、この時代要塞に依った戦闘を確立するには至らなかった。
大規模な塹壕戦など論外だし、概念すらなかった。
仕方なく従来通りの野戦で決着を付けることとしたのだが、自らが有利になる戦闘を求めると必然的に大軍を積み上げることになる。
そして双方が似たような事をする為、戦われる戦場での兵力差はどちらも決定的にはならなかった。
しかも戦闘が起きても、当時の技術的な限界から大平原に布陣する双方数十万の大軍を、軍事的意味のある有機性をもって動かすことは至難の業だった。
仮に天才軍師や武将がいても、命令伝達がうまくいかない事が多いのだ。
これでは、相手戦力の撃滅を狙った決戦の意味も低下してしまう。
結果、両者共に「決戦」に臆病となり、我慢の限界に達した陣営が動くことで「決戦」が発生した。
しかし一つの戦闘で数万の犠牲者が出ても、双方の陣営は損害を短期間で埋めるだけの国力を有しており、戦争の決着はまったく見えず泥沼化した。
そして戦闘をしない間は謀略合戦となり、双方の陣営が相手の足を引っ張ったり交渉ごとを行った。
そうした出口のない戦いは断続的に10年近く続き、その間派手なだけの戦闘が年何度も発生した。
戦闘は記録に残されているだけで14回。
それ以外の小さな戦いを全て含めると数百、数千の小競り合いが実施されたと考えられている。
これらの戦いでは、誰がどこで戦ったのか、戦闘自体の結果がどうだったのか、という点はあまり重要ではなかった。
それが大東島での戦国時代中期の状態だった。




