207 ファイト、国内国家たち(7)
■馬名行義の台頭と栄光、そして退場(2)
・1572年
「鳥島沖海戦」。
素島海軍と茶茂呂海軍が戦う。
以後、海上の覇権は大坂側が得る。
この海戦は、西欧と同程度の直船(ガレオン船)同士が多数が、大砲の舷側砲火の応酬を行い、その後に切り込み合うという戦いをした最初の例となった。
以後、従来型の戦闘よりも大砲を撃ち合う近世的な戦い方が主流となっていく。
同年、馬名・多田野同盟と保科・黒姫・茶茂呂同盟が「亜麻畑の戦い」で交戦。
馬名・多田野同盟が勝利。
馬名軍は、大坂・東京の二大都市で町民を徴募した民兵と火縄銃を組み合わせた”軽装銃兵”を投入した。
鎧をほとんど身に着けず、剣技の教育は一切ないため銃と槍しか使えない。
一方で、指揮を円滑化するために、士官の数は一般的軍団の倍とした。
金で集めた民兵であるためほとんど実戦力として期待されなかったが、密集隊形で運用した際は、意外な頑強さを発揮することがわかった。
1573年
高埜氏が頼りにする境東府が、総力を挙げた田村氏らの軍勢によって攻略される。
この戦いでは、多数の大砲が使用されており、大東の新大東州の人々が火力増強に大きな努力を図っていた事を見て取ることができる。
強大な騎兵を有する田村氏に、高埜氏は野戦では勝てない。
「境都の戦い」で高埜軍と田村軍が激突し、予想通り田村軍が大勝した。
この戦いでも、騎馬や剣歯猫だけでなく、大砲、鉄砲も大いに活躍した。
この頃田村家に仕え「鉄砲馬鹿」と呼ばれた太田二郎左右衛門が、境東府攻略以後の戦いを担い、そして多くの勝利をもたらす事になる。
敗北後、高埜氏は馬名氏に援軍を要請したが、馬名行義は援軍を送らなかった。
・1574年
高埜包囲網は狭まり、片脇氏までも高埜氏を攻撃した。
東京近辺の高埜公爵領からも兵が抽出され、馬名領を通過して包囲網に必死で抗戦した。
同年夏、馬名氏は高埜氏との同盟を破棄。
断末魔の高埜氏を滅ぼしたのは、もと同盟国である馬名氏による侵攻であった。
自分の身を守れぬ国が同盟国からも見捨てられるのは、歴史が証明するところである。
馬名氏は、東京周辺の高埜領を次々と併呑した。
東京御所と政庁も馬名氏の支配下に入り、その石高は400万石を上回った。
今や1000万石近い領域を支配する巨大な同盟体となった高埜包囲網。
田村氏を議長とする論功行賞会議は、高埜領分割で大きく揺れた。
このような分割競争では、誰もが満足する論功行賞など不可能である。
不満を持った貴族が次々と会議を中座するなか、会議は物別れに終わった。
田村氏は、次なる敵をつくることで同盟の結束を図ろうとしたが、そんな展開はとうに行義が読んでいた。
次なる敵として最適なのは、もちろん東京を押える馬名氏だからだ。
馬名氏と田村氏の密使が全国を飛び交い、1576年までに大東島の主要領主は2大勢力に取り込まれた。
これ以後、大東の二つの勢力はそれぞれの主要地域から単に「北軍」、「南軍」と呼ばれるようになる。
照神道と主神道は、それぞれ馬名氏と田村氏の支援を受けるようになった。
両宗派がつく2大勢力のうち、勝った方が新しい大東国の国教となる約束を、それぞれのパトロンと交わしていた。
・1576年
”大東の「長篠の戦い」”とも呼ばれる「礼奈須の戦い」が発生。
ある意味において、大東の命運を決した戦いとも言われる。
日本での鉄砲戦術を追跡研究していた田村氏は、長篠での惨事を重大に受け止めて騎馬戦術を練っていた。
また夜襲も考慮した布陣を実施し、域内で大量調達した戦虎で編成された鉄虎部隊を時期を見て大量投入するつもりだった。
同様に馬名氏も鉄砲を中心とする火力戦の研究を続け、”礼奈須の戦い”に至った。
織田信長と馬名行義の違いは、馬名行義が大砲も実戦投入した点になるだろう。
しかし火力に対する歴史の浅い大東において、技術、教訓共に不足していた。
対して騎兵運用に関しては円熟の域に達していたし、田村氏の武将や軍師達は非常に良く研究していた。
そして何より、北の騎兵は勇敢で狡猾だった。
当日の戦闘は、互いに鉄砲兵を全面に押し出した銃撃戦となり互いに一歩も譲らず戦った。
このため長篠の戦いのように、一方がもう一方の野戦陣地に正面から突撃するという事はなく、投入された戦力密度の違いによって戦場が動いた。
そして当然のように膠着状態に陥る。
こうなっては軍事の天才であろうとも、何かが出来る余地は少ない。
そこを3万の数を揃えた田村氏を中心とする北軍の巨大騎馬集団が、戦場の迂回に成功。
馬名行義率いる南軍もこの迂回突破を予測していたが、相手側の戦力が予想を上回っていた事と、相手側の戦虎部隊による陽動に戦力を取られ後方を攪乱され過ぎた事から、北軍の攻撃は成功した。
この結果、南軍右翼は総崩れとなるが、馬名行義はいつも通りの素早く賢明な判断によって総退却を決意。
ここまでは問題なく、その日の戦闘は南軍殿のがんばりもあって南軍惨敗は何とか回避された。
しかしその日の深夜、事件が起きる。
退却の途中で薄く伸びる隊列に、北軍の次の矢として温存されていた北軍が誇る戦虎遊撃部隊が総力を挙げて襲いかかった。
剣歯猫の数は6個鉄虎大隊、2個戦虎大隊の合わせて1100匹に達したと記録されている。
「戦虎が千虎となって襲いかかった」と記録される大規模な夜襲だった。
自らの犠牲と今後の戦いすら省みないような投入に対して、十分警戒していた南軍は各所で襲撃を受けて混乱した。
そしてその混乱の中、最精鋭の戦虎部隊が馬名行義の本陣と疑われる場所を数カ所攻撃した。
こうした場合に備えて偽の本陣や影武者を用意していたが、この時ばかりは北軍の後先考えない物量戦がものを言った。
翌日、朝日が昇るまでに北軍は引き上げたが、南軍では混乱が続いていた。
馬名行義の姿が見えなくなっていたからだ。
それでもまだ、戦場で消えた後に後方で合流した事例も有ったため、この時南軍は辛うじて崩れず後方の陣地及び城塞へと後退した。
そうして数日さらに一週間以上経っても、馬名行義は人々の前に姿を現さなかった。
人々は一人の英雄が消え去ったことを実感した。
後世の判断は一部で分かれているが、馬名行義は決戦の深夜の夜襲で戦死したものと考えられている。
そして一人の英雄の道なかばでの死は、その後数万、数十万の同胞の血でもってあがなわれる事になる。
大東での戦国時代は、馬名行義の強制退場によって新たな局面を迎えることになったのだ。




