203 ファイト、国内国家たち(3)
「デス・イン・ランド(地上の死)」
のちに神道習合兵が、突撃前に発する一種の鬨の声である。
■戦国大東の神道
大東国の国教は仏教であったが、仏教を保護する理由は次第に薄れていた。
明帝国は儒教化が進展したため、仏教を国教とする現実的な利益も薄れていた。
隣国日本では仏教が神道以上に民衆に普及し、私兵として大規模な僧兵を保有する一向宗徒のような武装宗教組織まで出現していたのとは状況が異なった。
大東朝廷は、明との外交・交易上の仏教の利点がほとんど失われた15世紀末から仏教の保護を停止し、いかなる金銭的・爵位上の便宜も図らなくなっていた。
倭寇の出現と共に、警戒されるようになっていた日本商人に対し、ライバルの大東商人は相対的に明・朝鮮にとり重要な交易相手になっていた。
16世紀の混乱した時代には、神道信徒が独自に修道国家を建設する例もみられた。
これは、日本における仏教を中心とした宗教界の武装化の過程と似通っている。
東日本列島の大小400もの領主(勲爵以上)は、民衆の操縦装置として神道に価値を見出すことは、表立っては試みなかった。
身分制秩序の維持や道徳の公教育装置としての機能を組織的に利用するのは、”はしたない”とみられたのだ。
神道とは、あくまで民間宗教だった。
しかも大東の神道は、本来は西日本列島の有名神社の分社である。
このため大東最大級の神社ですら「総本山」としての「格」や「威厳」に欠けていた。
権威のない宗教など、権力者が欲しがる筈もなかった。
一方で、本来、領主は爵位を天皇から拝領し、地方の行政区域を円滑に統治・防衛するために与えられた地位である。
よって、大東の絶対君主である天皇に爵位を取り上げられれば、領地の支配権を失う。
だが、各地の領主層が朝廷の統制を軽視し領主同士が争う時代が到来すると、天皇の爵位任命権は無視されるようになった。
大東各地が戦国化し、領主の保護が失われた地域では、自衛のために農民自らが武装するケースがみられた。
地元の神社を中心に各地の地頭(農民の自治的・地縁的村落結合組織のこと。日本の惣村に近い在地社会を指す)が協力する形で一般的に”習合兵”と呼ばれる武装集団を形成した。
習合兵の指揮をとったのは、大抵の場合は地爵の被官層であった”武士”たちであった。
最下級の貴族である在地社会の武士は、大東軍で隊正や火長として従軍したことがある指揮経験者が多く存在した。
ちなみに、大東の神道は民間信仰だったため、権威が低い反面、男性に権力や権威が集中する事はなかった。
このため女性の巫女だけではなく、宮司や神主も一定程度の数が存在した。
16世紀だと割合はせいぜい4対1程度だったとされるが、それでも男性社会ばかりでなかった事も確かだった。
そうした素地があったためか、歴史上の習合兵の中には武装した巫女である「持梓巫女」も事実存在しており、彼女らは”鎮神払侵神楽”を奉納した。
なお神道は、古来から宗教とも認識されない多神教のゆるやかな宗教であり、自然崇拝に近いものだった。
その存在意義の最大のものは、在地社会の守護であった。
在地社会以上の、例えば国家を守護する、というような性質は持っていなかった。
氏神様という言葉が、実情をよく表している。
神道は現世利益主義的で、自然の身体感覚を重視し、祖霊崇拝性を有した。
荒ぶる神も含まれる多神教であるが故に、自然の暴威に神の不在を感知することもない。
一神教ならば「神は死んだ!」と叫ぶような凶事が人々の上に厚く重なっても、神道においては「そういう怖い神様も中にはいるよね」で済んでしまう。
当然だが、宗教哲学としての側面もあまりなかった。
おかげで大東では、哲学はあくまで学問として発展する事になる。
また一時期は、日本で盛んとなった禅宗が、宗教を抜いた形でもてはやされたりもした。
とはいえ、人々は例え神を恨むことができなくても死を厭い、当然ながら回避しようとする。
神道には、魂の救済という面で説得力が弱く、支配者層の人心操作装置としては不完全であった。
そこで、戦国の世ならではの強引さで、神道にも”国家守護”と”魂の救済”の二つの要素を取り込む試みがなされた。
似たような事は日本列島でも起きて、こちらは仏教の一派である浄土真宗がその役割を果たしていく。
こうした背景から、1521年に二者臨界大社において、”天之御中主神(アマノミナカヌシノカミ=日本神話上での「最初の神」)”を創造神とする”主神道”が出現した。
ついで1534年、征東地方は三峰北阪大社においては”天照大神(アマテラスオオミカミ=日本神話上での太陽神)”を最高神とする”照神道”が出現した。
こうした神道分派は主に旧大東島で普及し、新大東島では戦国末期に至っても民衆には普及しなかった。
「地上の死」という創唱をいつ、誰がしたかは不明である。
だが、1560年代には盛んに唱えられるようになっていた。
地響きにも似た捨命救済の唱和が低く流れる戦場。
対峙する大軍勢が銃を構える。
次第に接近する両軍の前列に配置された銃兵が射撃を開始する。
布陣中央部では、日本の足軽に相当する”刀兵”が突出して接近戦闘がはじまる。
騎兵は互いの背後に回り敵大砲を破壊しようと、流体にも似た奔流と化して戦場を疾走する。
500mほど背後では、火縄銃を大型化したような大砲が浅い仰角で敵銃兵の横隊を射撃する。
これは、大東島での戦国時代末期の合戦の様子だ。
■海外貿易
大坂、東京、南都、境都など大東島各所の大都市(=商業都市)は、自己の政治的自由のために団結して領主と戦い、多くの場合は金銭の力で自由を獲得していた。
これは、日本の堺のような商業都市とほぼ同じ行動であった。
商業都市において最も重要な基盤は”安定”である。
政治的にも軍事的にも不安定な都市は”信用”という資源を失い、仮借ない商業戦争で敗北する運命にある。
貴族同士がいくら戦争にのめりこもうとも、自らの都市には一切手出しをさせない。
これは商業都市の永遠の目標であった。
明帝国は一般的な自由貿易を制限し、朝貢貿易だけを認めていた。
日本で1557年に大内氏が滅亡し日明貿易が途絶すると、日本の商人は密貿易を盛んに行うようになる。
日本からは比較的小型の船でも明の沿岸までたどり着くことができたため、小型船しか手に入らない日本の中小商人が密貿易に多数参加するようになった。
これらの船主はしばしば海賊に転身したため、彼らは「倭寇」特に「後期和冦」として取り締まられた。
実際には、地方長官に充分な賄賂を送れない明帝国沿岸の漢民族商人が倭寇の中心であったのだが、自尊心が強い明の役人は、倭寇の呼び名を変えようとはしなかった。
日本商人にとってはひどい濡れ衣である。
実際は「倭寇」ではなく「漢寇」や「自寇」とでも表記すべきだろう。
一方、大東商人の貿易船は距離の関係から一隻一隻が比較的大きく、明帝国が海禁策によって制限する入港船数の範囲内でも、ある程度の規模の交易が可能だった。
また、日本ほど容易に明沿岸まで到達できなかったため、大東商人による密貿易はあまり行われていなかった。
そして大きくて丈夫な船を持つ大東商人達は、船を持てるイコール大商人である為か、貿易相手を手広くした。
1551年、ポルトガル人は明からマカオの居留権を獲得しており、日本・大東の商人はマカオで仲介交易する道を選択する者が増えた。
日本・大東などの国は、明帝国のダブルスタンダードな行動を非難した。
とはいえ悪いことばかりではなく、ポルトガル商船が出入りするマカオに頻繁に寄航するケースが増加したことは、ヨーロッパやインドの情報や、ヨーロッパ式キャラック船、火器に触れる機会を増やした。
16世紀末には明帝国の統制は大きく緩み、明との密貿易は半ば公然と行われるようになる。
その頃には、日本・大東双方が船首の縦帆と複数の横帆を備えたスペイン/ポルトガル型の大型ガレオン帆船である”直船”が出現し、南海貿易で活躍するようになっていた。
なお、大東人もしくは日本人が東南アジアに最初に到達したのは、世界史上でも有名な明帝国の「鄭和の大航海」の第五回目だった。
時に西暦1417年。
このとき、大東島と日本がそれぞれ2隻の船を提供し、はじめて日本人・大東人がインド亜大陸の地を踏んでいる。
さらに1421年の第六回目航海の時には、インド洋を横断してアフリカの東部海岸にまで至っている。
その後自力での航海となるが、鄭和の大航海で得た技術を組み込んで自ら建造した大型船で、早くも15世紀半ばには再びマラッカ海峡やモルッカ諸島に至っていると考えられている。
大東人が東南アジア航海を重視したのは、東南アジアで取り引きされている各種香辛料を安価に手に入れる為だった。
中華系商人などを中継した場合非常に高くついたので、これを何とかしたいと考えたのだ。
既に肉食が一般的に行われていた大東ならではと言えるだろう。
また一方で、16世紀に入っての大東商人には、強い味方があった。
それは自力で産出する黄金だった。




