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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
第三章 ノーマル ルート 及び 引きこもりルート

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202 ファイト、国内国家たち(2)

◆◆◆分岐(1)◆◆◆

※ここから、「世界進出ルート」、「ノーマル ルート」または「引きこもりルート」に分岐していきます。

また、「世界進出ルート」での日本、大東以外の地域での歴史の変化は最小限として史実に準じます。



■織田信長という存在


 日本のあらゆる戦国大名の中で、最も有名で破天荒なのは(議論は果てないだろうが)やはり織田信長だろう。

 「桶狭間の戦い」では、「少数で多数を撃破する」という禁じ手を弄して完勝する。

 

 言うまでもないが、奇策は敗北に至る確率が高いため、”常勝の”と修飾詞が飾られるような軍事的天才が常用することはない。

 故に織田信長は、桶狭間の戦い以外で同様の戦闘を行うことは基本的になかった。

 部下が似たような事を行おうとした事例は皆無ではないが、彼は常に正攻法を好んだ。

 

 1570年代の信長包囲網結成時には、「二方面作戦を避けよ」の鉄則に背きながらも敵を軍事、政治双方を駆使しつつ各個撃破していった。

 

 信長は少数の例外を除いて、常に「物量戦」という最良の軍事戦略を用いた。

 そもそも彼は、戦略的に勝利できる環境を創りだす能力に秀でていた。

 戦いの勝敗を開戦前に決するのだ。


 常にライバルをリードし、敵を振り回す。壮麗な”見せる”城、安土城。鉄甲軍船。

 どれも信長が真っ先に考えたことではないだろうが、他人のアイデアを過去に例のない規模で本当に実行してしまうのが彼だった。

 

 1568年、上洛直後に大津・堺・山崎など商業都市を直轄地としたり、楽市楽座制を敷いたのも経済でリードするためだった。

 新時代の軍隊……兵農分離、鉄砲の量産と弾薬の補充、すべて経済力が重要だった。


 その後、彼の「事業」を受け継ぐ事になった武将達も、彼のもとで学んだ事を後に実践している。

 もし織田信長いなければ、戦国という時代はさらに数十年伸びたであろうし、その後の優れた近世的封建体勢の出現もあり得なかったとさえ言われる。

 

 「金ヶ崎の戦い」や「三方ヶ原の戦い」では織田軍が敗北するも、「戦略的不利は戦術的勝利の積み重ねで克服できない」という原則に従えば、長期戦が信長包囲網に不利なのは明らかだ。

 国力に勝る織田側は「姉川の戦い」で浅井・朝倉連合軍を破り、武田氏も信玄亡き後に「長篠の戦い」で破った。

 

 そして何より、足利義昭を伴っての京への上洛は、各地の大戦国大名を刺激した。

 「戦国」という時間が残り乏しくなりつつあることが、誰の目にも明らかになったのだ。

 小戦国大名や国人・豪族の統合は更に激しさを増した。

 


 だが、織田信長も万能ではなかったし、不老不死でもなかった。

 ましてや魔王でもなかった。

 信長はある種の天才だった事は間違いないが、やはり信長も一人の人間であり限界があった。

 

 信長は日本を早く統一して海外に打って出ることを考えていたと言われるし、いっぽうでは大東の統一を考えていたとも言われる。

 しかし海外に出る為には、国内において今まで以上に強力な統治体制が必要だと考えていた。

 

 織田氏が国内国家として日本の過半を占めても尚、信長を頂点とする中央集権国家建設に向け武力による統一を推進していた。

 もし、信長が単なる征夷大将軍になりたいのなら、1570年代後半には充分可能だった。

 

 大東が既に実現しているように、一重権力体制の社会を建設して自らが皇帝の座につく。

 朝廷は歴史的役割を終えた。

 そのように考えていたのかもしれない。

 

 しかし彼は、西日本列島という狭い世界において急ぎすぎたし、あまりにも革新的過ぎた。

 そして西日本列島という地域は、こうした頭一つ抜きん出た存在に対して非常にナーバスだった。

 


■天下統一


 「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに食うは徳川」

 日本の戦国時代をうたった、最も分かりやすい戯れ歌だ。

 

 1582年は織田氏にとって輝かしい年となる筈だった。

 少なくとも6月に入った頃は、まさにそうだった。

 かつては強大だった武田氏は勝頼の時代になってから斜陽化が進み、この年の3月に滅亡したからだ。

 

 しかも家臣達は各戦線で大活躍していた。

 柴田勝家は上杉を圧倒しつつあり、羽柴秀吉は毛利の門前をこじ開けつつあった。

 丹羽長秀も四国平定の準備を進めていた。

 この時点での予測では、あと二年もあれば織田家による日本列島の武力統一が完成されるだろうとされていた。

 

 織田家の一部では、既に「この次」について考えらえていたほどだ。

 少なくとも、織田信長は考えを進めていた筈だ。

 

 しかし織田信長は足を掬われ、1582年の「本能寺の変」で家臣の明智光秀に呆気なく暗殺されてしまう。

 一部の研究者が、日本が世界に羽ばたく機会を失った瞬間だと言われる事件だ。


 その後、弔い合戦の「山崎の戦い」を契機として、織田家の権力闘争にうち勝った羽柴秀吉改め豊臣秀吉が、本能寺の変から8年後の1590年に日本列島の再統一を達成する。

 下級武士もしくはただの農民が、日本列島の頂点に立った事は、戦国時代を象徴していた。

 しかし豊臣秀吉の野望にはまだ先があった。

 

 彼にとっての選択肢は大きく二つ。

 「真の天下統一」のために大東国を平定する事。

 もう一つは、日本だけでなく全世界(この場合、全アジア)を支配するべく、大陸に打って出るというものだ。

 どちらも織田信長が晩年計画していた事だ。


 しかし革新的すぎた織田信長よりも、豊臣秀吉は保守的だった。

 また秀吉は、自らに世界征服するほどの時間(寿命)が残されていない事を自覚した。

 ゆえに秀吉は、手堅く「真の天下統一」に乗り出す事になる。


 つまり「第三次日本・大東戦争」が、豊臣秀吉の日本統一によって、俄然現実味を帯びることになったのだ。



■日本の戦国時代における大東の関わり

 

 日本に戦国時代が到来した頃、大東はまだ平穏だった。

 大東島での戦国時代は16世紀半ばに突然のように訪れるが、それまでは特に大きな戦乱もなく過ごしていた。

 そうした状況の中で、日本列島で「応仁の乱」が起きる。

 この時大東国の中央は、今こそ復仇の機会と色めき立った。

 しかし一方では、自分たちのようにかえって日本列島の団結(再団結)を呼び込み、逆に侵攻を受けるかも知れないとも考えられた。

 

 そして十年続いた京の都での戦乱によって戦国時代が到来しても、大東国の政府は結論を出せないでいた。

 こうした所に、当時の大東国の政治的硬直化や官僚腐敗、貴族の劣化などを見て取ることができる。

 しかし大東に戦国時代が到来するまで何もしなかったわけではない。

 特に活発だったのは商人達だった。


 16世紀に入った頃の大東商人は、大東島や北東アジアを飛び出して、すでに東南アジア各地に進出していた。

 北の方でも、鯨(鯨油)と高級毛皮(主にラッコの毛皮)を求めて、千島半島から荒海渡アレウト列島へと進んでいた。

 そして日本での室町幕府の中央統制が弱まり戦国大名が独自の行動を強めると、そうした戦国大名との間の貿易が盛んになった。


 戦争は巨大な需要を生み出すので、大東から日本に大量の武具、鉄、穀物(主に米と豆)、保存食(各種保存肉や長期保存可能な乳製品)、馬、毛皮、衣類そして剣歯猫までもが大量に輸出された。

 そうした貿易と北の海への進出により、多くの船が新たに建造され、技術も向上した。

 

 そして大東商人が頻繁に立ち寄ったのが、「第二次日本・大東戦争」である「二十年戦争」前後に衰退を余儀なくされた貿易港である、近畿の堺と北九州の博多だった。

 当時西日本に豊富にあった銀が目当てだったからだ。

 そして大東との貿易の結果二つの港湾都市は戦国時代の中で大きく発展し、特に堺は自ら自治を行う「自由都市」として知られる事になる。

 

 なお貿易において大東の船が距離的にも近い関東地方に赴かなかったのは、金銀が少ないだけでなく当時の関東地方は日本の中でも「田舎」であり経済的に旨味が少なかった為だ。

 また、先の戦争で攻め込んできた軍勢の出身者に関東、奥州出身が多かった事も影響していた。


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