122 3rd War(第三次日東戦争)(3)
■第三次日東戦争・終戦
1620年に始まった日本による大東に対する海上覇権をかけた形の戦争は、3年経っても終わりが見えなかった。
双方ともに海上交通が滞り、多くの商船、軍船が壊れ、沈んだが、それだけだった。
だがそれだけではなかった。
人的損害は大したことはなかったが、双方ともに散財が激しかった。
沈められた以上に多くの船が建造され、相手を圧倒するべくより大型で、より強力な戦闘艦が次々に建造され始めた。
そして主に財務を預かる者たちは、近い未来が予測できた。
3年もしたら国の財政が破綻すると。
そうした状況を前にして、互いの国の後方が動きを活発化した。
最初に大きく動いたのは日本帝国の方だった。
日本帝国は、既にアジア各地に進出し、海外ポルトガル領土を根こそぎ奪い、そしてスペインと実質的に戦争をした。
その後も、アジア進出を図るネーデルランド、イングランドと小競り合いをし、現地勢力との戦闘も行った。
しかし遠く離れた場所での厄介ごとや戦闘は面倒がある。
そのため日本帝国は、南海遠征の時代に「天竺社中」を設立した。
半民半官の持ち株組織で、現地での商業、軍事的行動を行う権利を持っていた。
台湾、ジョホール、ペナン、コロンボ、ゴアに主な拠点を持ち、香料諸島の経営と防衛も行っていた。
当然、膨大な資金が必要となる。
そのため日本帝国政府は、大商人らを参画させた「日本銀行」に貸付を行わせた。
なお当時の西日本の西国は銀本位制にあったため、金をやり取りする組織名に「銀行」と名付けている。
その後日本、そして大東は金本位制になるので、金行となっていたかもしれない。
また欧州では「バンク」つまり「貯蔵所」とでも翻訳するべきだが、日本語には馴染まないので採用されなかった。
それはともかく、第三次日東戦争までに日本帝国は新たな金融システムを構築し始めていた。
そして戦争に際して、より広く大きな権限を持った組織を設立し、日本帝国が発行した債権を購入させ、安定した潤沢な戦費を供給した。
もっともそれが戦費の拡大を招いた一因にもなったので、良かったのかは一部で賛否が別れている。
なお日本帝国の首都の石山は、首都であると同時に商業都市だった。しかし日本有数の大商人は隣にある貿易都市の堺におり、彼らが日本帝国の金融を事実上支配した。
そして皇帝信長の時代に急速に整えられた中央銀行と国債のシステムは、ある意味信長らしく他からヒントを得ている。
紙幣発行は、元の時代の中華地域からの情報が大元になっている。為替制度はインド洋でイスラム商人に出会ってから知ったものだった。
そして魔王の南海遠征は膨大な資金が必要なので、すぐにも取り入れられ帝国のシステムとなっていったという経緯がある。
そのシステムは第三次日東戦争でより強固な組織となり、中央銀行として発展していく。
また国の中央集権が強まってもいった。
一方の大東だが、戦費不足に陥ったが対策は通常通りだった。国力(人口)で日本に優っていたのもあるが、17世紀は北大東洋沿岸の探検と領土(植民地)拡大に力を入れるも、商業活動にはあまり力を入れていなかったのが原因している。
そして戦費の調達に喘いだ大東だったが、日本ほど上手くは戦費の調達はできなかった。
国は安定した資金調達や商人に対する安定した支払いの保証ができないため、様々なものの調達が徐々に滞るようになる。
状況は日本に有利で、金はかかるが日本が押し切ることも可能だっただろう。
だが日本地域で二つの国が戦争をしている事は、ヨーロッパ勢力の知るところとなる。
しかし距離があるので、伝わるのに時間がかかり、さらに遠く日本地域までリアクションを取るのにも時間がかかった。
日本まで行かなくても、インド洋でもヨーロッパからはかなり遠い。
そして知ってから動くまでに1年以上が必要で、場合によっては海流と季節風の影響で2年かかる場合もある。
ヨーロッパから日本に行くのには、準備を含めれば2年必要だった。
そして日本帝国だが、1年以上経過したらヨーロッパ勢力が動き出す可能性は考慮していた。
だから日本は監視と通報の準備を整えていたので、ヨーロッパがインド洋にちょっかいを出し始めるよりも早く動き始めていた。
だが、ヨーロッパ勢力に対処するとなると、大東に全力を傾けるわけにはいかない。
しかもネーデルランド連邦の動きは大きく、少数の戦力で対応できないと考えられた。
ネーデルランドの動きは、エスパーニャから大東も聞いていた。イングランドも規模は小さいが動いている事も知っていた。
だが大東には大きく動けるだけの金がなかった。
できるのは、日本の動きを見つつ戦争の幕引きを図ること。
そして大東は、日本がネーデルランド向けにインド洋に戦力を向け、大東に対する動きを鈍らせると、水面下で日本の戦争を収めたいという勢力と接触を持つ。
大東の条件は白紙講和。
加えて大東洋分割線の尊守。
日本は最低でも多額の賠償金を求められると考えていたので、大東の条件を最初は疑った。
しかし大東が財政的に苦しい事はある程度分かっていたので、大東はタイミングを測っていたのだと考えた。
そして日本は、大東が何も止めないならヨーロッパ勢力を撃退する事に力を入れたかった。
しかも大東は、エスパーニャと比較的良好な関係を作っており、場合によっては日本とヨーロッパの仲介出来る可能性もある。
そうした思惑もあり、大東の意図が分かりつつも日本は大東と握手する。
戦争自体は中途半端もいいところだったが、そうして第三次日東戦争は終わった。
過去2回が大東の存亡を賭けた戦いなのに対して、気の抜けた戦いのように感じられたという記録が多く残されている。
しかし同時に、これが新しい時代の戦争なのだとも感じられたと記録されている。
■大東革命
新しい時代の戦争の形態は、日本と大東で明暗が分かれた。
日本は大東以外との外交では苦労したが、戦費の調達とその後の返済が上手くいった。
大東は外交は日本との戦争以外は安定していたが、戦費の調達が旧来のままだったのに、戦費が異常に多かった影響を戦後に受けてしまった。
第三次日東戦争後、大東帝国政府は膨大な借金を抱えた。
しかし国の借金なので、個人や商人のように破産する事はない。国という最も信頼できる返済先を、貸した者たちも信頼をおいていた。
だが大東は、かなり真面目に借金を返そうとした。
大きな理由は、日本の戦費調達と返済、それに国庫が安定しているからだ。
大東も1日も早く財政を健全化させなければ、次の日本との戦争では眼も当てられない事態になると予測した。
だが、国の借金を何とかする方法は意外に限られている。
当時の大東は海外植民地はあっても、そこに住む住人から税を徴収したり搾取するほど人が住んでいなかった。
それ以前に、植民地の開発自体はまだまだこれからだった。
つまり借金返済のアテを国内に求めるしかない。
幸にして大東は膨大な国内人口を抱えており、日本よりも大きな税収を得ている。
これをほんの少し多くすれば、借金の完済とまではいかないが減らす事は十分に可能と判断された。
そして庶民に対する新たな税が課せられる。
当然、庶民からは強い反発が起きた。
これが貴族や武士、それに大東天皇家も身を切れば不満も小さかったかもしれないが、支配階層が我が身を切って税を納めたりはしなかった。
一部の大領主が民の負担を肩代わりしたが、それは美談にしかならなかった。
そして階級の対立に加えて、大東特有の南北対立、旧大東州と新大東州の対立が再び頭をもたげる。
旧大東州は狭く人口が多い。
新大東州は広く人口が少ない。
これが見た目の税収では格差となって映った。
さらに北の新大東州は租税の基本が米ではなく麦(小麦)の場合が多く、それも見た目の格差に映った。
さらに大東天皇家(皇帝家)の中枢となった馬名氏は、旧大東州の中心部の出身。
戦国時代に歯向かったのは、新大東州の大名、領主が多かった。
これも税収の格差として映った。
全ては反政府側の印象操作や煽動、それに流言飛語の類だったが、人々を動かすには十分だった。
そうして人々は、大東天皇家(皇帝家)とその臣下に全権を委ねることに対して強い異議を訴える。
これを皇帝と政府は跳ね除けるも民の反発は強まり、反乱へと発生した。
反乱側は、皇帝もその下の官吏・軍人は、国が定める法、つまり憲法によって政を行うべきだと訴えた。
そして憲法は、国の組織や権力を一定程度制限し、国民の権利や義務など定める新たな法を制定するべきだとした。
さらには憲法を定めるのは皇帝だが、作るための組織、つまり立法府を作るべきだと訴える。
大東には国の議会(この時代は貴族や大商人の集まり)はなかったが、新大東州には古くから駒城家を中心とする、古大東国時代の貴族をまとめるための集まりがあった。
議会とは呼べないものだったが、それでも公平な議論が交わされる場だった。そして戦国時代には国の議会と呼べるほどの組織と規模を有した。
商人たちの間でも、合議制のある大都市があった。特に戦国時代に発達し、自治を行う都市もあった。
憲法の方は、日本が支配していた時代に大東人を統治するための悪法と呼べる決まりがあった。
これは独立と共に破り捨てられ、新たに大東の民のための法が大東天皇の名の元に発布されている。
しかし戦国時代で有名無実化。
馬名行義の絶対帝政時代には完全に無くなっていた。
天才たる彼こそが法であり、全てが上手く運んだからだ。
だが、馬名行義がいなくなった醜態を、人々は十分に実感させられた。
民の不満を外に向ける戦争を起こしたこともそうだが、無法な増税はあり得なかった。
こうして「皇帝派」と「憲法派」に分かれ、「憲法派」が反乱勢力となった。
しかし戦闘と増税で民の不満は一気に高まり、「憲法派」が圧倒的な多数派だった。
新大東州と旧大東州の対立も、旧大東州の多くが反乱の方向性を見てすぐにも多くが「憲法派」に傾く。
双方の勢力による戦闘が起きたが、どれも小規模で戦国時代とは比較にもならなかった。
ただし戦闘は、「憲法派」反乱や暴動とそれを鎮圧しようとする「皇帝派」の争いだったので、市街地で起きたものが多った。
そして多くの人が、「皇帝派」の横暴を目にした。
そうして加速度的に「憲法派」は勢力を拡大し、1年もしないうちに帝都東京へと攻め上った。
「皇帝派」に、これに対抗するだけの力はなく、閉したはずの城門は内側から市民たちにより開け放たれ、宮殿を数十万の群衆が取り囲んだ。
結果、皇帝は退位。
新たな皇帝は馬名の者はつく事はなく、馬名氏による権力の実質的な独占は終わる。
そして新皇帝(大東天皇)が即位し、議会が作られる。
その議会が憲法を策定、それを皇帝が発布。
大東に欽定憲法が登場する。
もっとも、皇帝の権威はまだまだ強く、議会も貴族と大聖人など大きな富を持つ者に限定されていた。
憲法も近代に比べるべくもなく、これから200年かけて大東の近代に向けての歩みがゆっくりと進んでいく事になる。
大東帝国が現代から見ての立憲君主体制となったのも、18世紀半ばのことだった。
その後、大東と日本は、どちらも金を得るために海外経営を重視する。
その中でも日本は海外貿易を重視し、インド洋経営、東南アジア経営を強めていった。
大東は貿易を強めつつも、北アメリカ大陸の探検と進出を強めるようになる。これは大東で爆発的に人口が拡大しつつあったからで、大東は開拓国家としての側面を強めていく。
日本も大東より小規模ながら人口の拡大は進んだが、日本は主に豊水大陸への開拓と移民は、大東よりも半世紀ほど遅れて進んでいく。
■今後の予告
小説家になろうへの転載を機会に全て書く予定でしたが、調べるものが思ったより多すぎて全然無理でした。
このルートの続きはいずれ書きたいとは思っていますので、気長にお待ちください。
・17世紀初頭の世界進出ルートの現状と予定
・大東島がありカリフォルニアがない。
・日本(本土地域)が三倍に拡大。
・日本史が大きく変化。
・日本と大東が世界各地に進出。
・世界史も各所で変化。
・北米はアメリカ=ポルトガル王国が成立。
・インドはムガルではなく第二ティムールが成立。
・17世紀半ばにオーストリアがドイツを統一。プロイセンは消滅。
・インド洋では日本が、北米では大東が西欧列強と衝突。
・そして世界は不思議色に染まる。
さて、どうなるのやら……。




