120 3rd War(第三次日東戦争)(1)
■魔王と勇者の死
日本と大東、それぞれに君臨した偉大な皇帝がほぼ同時期に立ち去ると、日本人世界は再び混乱に向かう。
日本と大東、日本人同士の争いは14世紀末の「二十年戦争」(第二次日本・大東戦争)以来200年以上起きていなかった。
特に互いの戦国時代で戦火を交えなかったのは、歴史上の奇跡とすら言われている。
それも二人の英雄もしくは帝国の建国者のお陰だった。
織田信長と馬名行義は、私人としては問題があったと言われる事もあるが、公人としては歴史上の偉人なのは間違いなかった。
それぞれの戦国時代を終わらせ、強大な国家を新たに誕生させ、そして民と国を世界へと導いた。
一つだけでも偉業で、それを複数成したのだから、非常に優秀な為政者だったのは疑う余地がない。
しかし二人とも偉大すぎた。
日本、大東どちらも絶対帝政を作り上げたし、強力な政治システムは作り上げた。だがそれは、優秀な絶対者とまで言わないが、及第点の為政者を必要とした。
一人の人間に権力を集中する中央集権体制なのだから、為政者がまともでないと話にならない。
それが絶対帝政(絶対王政)だ。
勿論、反論もあるだろう。
絶対帝政(絶対王政)の君主、為政者は、官僚と軍人の言葉を聞いて判子を押す(承認して責任だけとる)だけの存在だと。
単なるシステムに過ぎないと。
そしてそのシステムを作り上げたからこそ、二人の偉人は偉大なのだと。
その考え方も間違いではない。
だが二人の為政者が偉大過ぎたのは問題だった。
どちらも1600年代に隠居して次代に譲り、織田信長は大御所と呼ばれ、馬名行義は普通に上帝と呼ばれたが、死ぬ直前まで院政を行なって影響力を維持した。
そして二人の偉人が倒れた時、日本帝国2代目皇帝織田信光と、大東帝国2代目皇帝馬名輝義。
どちらも光を名前に持つが、信長の孫の織田信光は30代半ば、行義の息子の一人だった輝義は50代で帝位を引き継いだ。
どちらも親や祖父が二人の偉人より先に旅立っており、世代が空いての即位となった。
そしてそれだけに、次の為政者は何かの実績を上げる事を考える。
両国が一番に考えたのは、海外進出の強化。
分かりやすく市場や植民地を得れば良く、比較的達成しやすい事だった。
次に国内発展。こちらも、共に人口拡大が続いていたし、発展させるのは比較的容易かった。ただ、目に見えるほどの業績となるかは微妙だった。
だから二人の為政者は、まずは海外に目を向けた。
幸というべきか、織田信長と馬名行義の時代に両国の進出する境界線を定めていたので、最初は混乱はなかった。
「大東洋分割線」を定めた原因も香料諸島の香料を巡る争いが原因だったので、代替わりしても当初は両国の無駄な争いを避ける向きがあった。
その一環として、フィリピンは大東洋に面するので大東の勢力圏となり、16世紀末に攻撃して
しかしそうも言ってられなくなる。
両国ともに代替わりによる混乱や停滞は避けられず、民衆の不満が高まった。
それは商業的なものが中心で、一部に海外交易があった。
そして両国にとって一番近い外国であり、競争相手であり、手近な場所に交易路や市場を持っていた。
そして大東が妥協した場所の一つに香料諸島があり、その名の通り様々な香辛料が得られる香料諸島は、日本、大東だけでなくヨーロッパが欲するものだった。
そして日本はイングランドと手を結ぶも、スペインと敵対し、商業国家として急速に隆盛しつつあるネーデルランドとも対抗した。
これに対して大東は、スペインとは海上貿易で協力関係を結んでいた。
イングランドとは自動的に対立状態となり、ネーデルランドとはネーデルランドがスペイン、イングランドと敵対しているので、少なくとも大東にとって味方ではなかった。
ただし大東が主に用いる航路は、スペインのアカプルコ航路に近く、大東洋に手が出せる国はスペイン以外になかった。
そして大東はアカプルコかパナマ地峡でスペインと取引すればよく、大東とスペインの互いにとって利益があった。
一方の日本はインド洋を半ば制圧したが、イングランド以外の全てのヨーロッパを敵としたに等しかった。
このため安定している大東への嫉妬が高まり続ける。
そして代替わりの混乱で不満を溜める民衆の捌け口として、大東に目が向けられるようになる。
だが日本にとって問題もあった。
既に大東の方が人口、つまり国力で優っていた。
貿易面では日本が優位で裕福と言えるが、日本には敵も多く大東に全てを傾ける事は難しかった。
そして何より、大東の方が人口が多いので200年前のように大東に攻め込むのは不可能だった。
大東の軍事力は、少し前の戦国時代の合戦の様子、動員能力から明らかで、それに対抗できるだけの軍事力の派遣、さらには補給の維持は不可能と考えられた。
そうした中で日本は、海軍による戦争を思いつく。
海軍を用いて大東の海軍を叩き、制海権を奪い、航路を閉鎖し、そして大東を日本にひれ伏せさせるのだ。
その時、賠償金と多少の利権が得られれば、不満を溜める民衆も喝采するだろうと皮算用した。
■海軍増強
1619年、日本帝国は俄に海軍増強を開始する。
表向きは、16世紀の末以来の対立が続くスペインへの対抗が目的だとされた。
しかし前年、ヨーロッパ中央で戦乱が始まり南ネーデルランド持つスペイン帝国は、ヨーロッパ以外へ力を向けている場合ではなくなりつつあった。
スペインが「三十年戦争」の本当の当事者となったのは1630年からだが、日本がヨーロッパの情勢変化を見て動き始めたのは間違いない。
そのことは、後世になって文書などで明らかになっている。
ただ海軍増強は簡単ではない。
予算を増額しても、建造施設も造船技師や職工がいなければ意味がない。
それに建造に使われる建材の収集、加工がある。そして建材は木材なので十分に乾燥させるなどの期間も必要な場合が多い。
この時代の建造速度は最短で1年程度とされるが、この時の大型の直船(ガレオン船)は建造に2年はかかる。
それに日本帝国で最初に竜骨設計船である直船が試作されたのは、大東からかなり遅れていた。
大東は大陸から遠いこともあって、1570年代から建造されていた。日本は大東のものを半ば模倣し、最初の建造は1586年だった。
16世紀末に大砲を40門搭載した軍船が大東に登場する頃には日本も追いつき、その後もヨーロッパの最新情報を入手しつつ大型化が進んだ。
そして1620年、排水量2000トン級から3000トン級の大型の戦闘艦が次々にされていった。
なお「戦列艦」の名前は、17世紀序盤ではまだ世界に登場していない。
ヨーロッパでも17世紀の半ばに初登場し、18世紀に入り一般化した。
日本では、北東アジアの技術をヨーロッパ由来の技術で改良した日本型(大東型)ガレオン船を直船と呼ぶので、直列で隊列を作ると勘違いされ先に実質的な「戦列艦」が誕生したと言われる。
だが、日本の軍船、水軍は、戦列を組むよりも機動的な戦闘と接舷切り込みを重視していた。
それに18世紀に入るまで、日本、大東の軍船は規格化もされていない。
規格化され、同じ船で隊列を組んで戦闘力を発揮するのが、「戦列艦」だった。
そして基本構造は同じだが、ガレオン船の発展型が戦列艦になる。
だから17世紀序盤に日本で建造が始まった直船は、ガレオン船の一種であって戦列艦ではなかった。
日本の動きに対して、大東は日本での物資や金の流れから日本の大規模な海軍拡張に気付いたのは1621年と言われる。
そして一説では、日本の動きを知って大東も海軍拡張に転じたとされる。
だが実際は、大東も同じような時期に海軍の拡張を開始していた。
その事が日本側には開戦まで分からなかったのと、数が揃うのが少し遅かった為、大東は日本に出遅れたと考えられていた。
日本に知られなかったのは、大東が木材の供給先の一部を、大東国内ではなく環大東洋北部の大陸沿岸に求めた影響だった。
日本は大東の動きを辺境探検や毛皮の獲得が目的と見ていたが、実際はそうした動きの一部が木材の獲得だった。
しかし大東に先んじたと考えた日本は、一時的な優位を長期的な優位へとするべく戦端を開いた。




