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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
第二章「世界進出ルート」

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119 カムトゥルー、大ドイツ主義(1)

 Greater German Solution.


 大ドイツ主義を英語に直訳するとこうなるのだろうか。

 

 神聖ローマ帝国とは、古代ローマ帝国のごとき世界帝国の再興を夢見て出来上がった。

 しかし、神聖ローマ帝国のヨーロッパ普遍主義は1648年の「ヴェストファーレン条約」の締結で確認された”複数の正義・秩序併存の容認”により実現可能性がほとんどなくなり、やがてナショナリズムと国民国家の出現により、夢は完全に命脈を絶たれた。

 

 同時にハプスブルク家主導による統一ヨーロッパの夢は霧散した。

 しかし、オーストリアは神聖ローマ帝国のいわば盟主として、18世紀を迎えてもいまだ力を有していた。

 ローマ帝国の再興は無理でも、神聖ローマ帝国の政治的統一とドイツ国家の成立ならば可能かもしれない。

 だが、オーストリアの前には、天才的なフリードリヒ2世率いる新興国プロイセンが立ちふさがろうとしていた。



●普墺戦争


 18世紀、オーストリアは中部ヨーロッパを統べる大国であった。

 だが、北にはプロイセン、西にはフランスが控え、さらにロシアの動きも警戒しなくてはならない。

 軍事的バランスはオーストリアにとって不安定になりつつあった。

 

 その頃、神聖ローマ帝国皇帝のカール6世は、その支配下にあるオーストリア・ボヘミア・ハンガリー・モラヴィアの確実な継承を期待していた。

 カール6世の長女マリア・テレジアが結婚して男児を産み、危険な継承権問題を引き起こすことなくオーストリアを受け渡すことが望みだった。

 だが、同時期の隣国プロイセンにはのちのフリードリヒ2世がおり、その不遇の若年期を乗り越えてオーストリアに挑戦しようとしていた。


 1736年、プロイセンはロシア及びドイツ諸州と同盟関係を築いていた。

 1737年、プロイセンの「兵隊王」と呼ばれたフリードリヒ・ヴィルヘルム1世が崩御し、フリードリヒ2世が即位した。

 若きフリードリヒ2世率いるプロイセンは、先王が作り上げた新式歩兵を試す意味も込めてポーランドに宣戦した。

 新型の火器と戦術に対して、伝統的な騎兵で立ち向かうポーランドの旧態依然たる軍隊は、もはやさほど恐るべきものでもなくなっていたのだ。


 プロイセンの先進的な常備軍は、前王が趣味と言われるほど扶養に努めた結果8万の多きに達していた。

 これはオーストリアにとって極めて重大な脅威だった。

 ポーランドで経験を積み、オーストリアのマリア・テレジアが男児をもうける前に、対オーストリア戦の準備を整える事をオーストリア皇帝は決意した。

 プロイセンの対ポーランド宣戦直後、ポーランドとオーストリアが同盟を締結。

 

 オーストリアは常備軍も少なく、ポーランドを救うメリットなど何もないのに、カール6世がポーランドを助けたことにフリードリヒ2世は驚いた。

 当時、ロシアと対立していたフランスは、伝統的な対オーストリア封じ込め戦略を一時棚上げして、オーストリアの参戦を黙認した。

 こうしたフランスの置かれた状況をみて、カール6世はプロイセンを早期に叩く決意を固めたのだ。


 オーストリアとロシアの間に置かれたポーランドは、ロシア軍の侵攻を迎え撃ち、オーストリア軍は主にプロイセン軍を相手取った。

 陸軍技術水準の面でも、この国家組み合わせがベストだっただろう。

 少し前にピョートルがどれほど努力したが、当時のロシアはまだまだヨーロッパの田舎者だった。

 

 オーストリア軍は当初1万5000ほどの常備軍しか有しなかったが、国土の広さを利用した後退戦術をとりつつ北イタリア・ハンガリーで募った兵を前線に集結させ、半年後にはプロイセン軍と対決した。

 

 そして戦略で動くオーストリアに対して、常に戦術を求めるプロイセンはまともな戦闘を行えない状態を過ごさざるを得なかった。

 行った事と言えば、ギリギリ捕まえられない敵を追いかけるだけで無駄に兵士を消耗させた。

 敵が目の前に現れなければ戦えないのが、この時代の戦争だった。

 そしてプロイセン軍が動いたのが、秋から冬にかけてという最悪の時期だった。

 結果、プロイセン軍は1737年の冬季作戦で多くの兵を失った。


 翌年春、自らの倍の数を揃えて前線に現れたオーストリア軍に対し、プロイセン軍は敗北を続けるようになる。

 確かにプロイセン軍は精強で、その戦術も優れていたが、基本的に国力で勝るオーストリアにとって時間は味方だったのだ。

 

 「戦略的不利を戦術的優位の積み重ねで克服することはできない」

 これは、フリードリヒ2世のような軍事的天才といえど覆せなかった。


 1738年夏、オーストリア軍は総兵力18万に達し、一方のプロイセン軍は4万に減少していた。

 ポーランド戦線でも戦争初期に安易に攻め込んだロシアが後退を続け、ついにロシアが白紙和平を求めてきた。

 

 プロイセンはまともに戦う事も出来ず、複数方向から攻め込んでくる敵に対処できなくなった。

 その後はポンメルンと占領下のダンツィヒも失い、自らの発祥の地とすら言える東プロイセンまでが危険にさらされるまでになった。


 ドイツ諸州は、神聖ローマ帝国皇帝たるカール6世の回勅により、プロイセン軍と同盟関係にある諸州軍の進軍を邪魔していた。

 そして最終的にはオーストリア軍がベルリンに入城し、フリードリヒ2世は降伏するしかなかった。


 1739年、プロイセンは後ポンメルンとブランデンブルク、アルトマルクを失うという屈辱的な講和条約を結んだ。

 つまり、プロイセン王国は東プロイセンだけから成る国家に縮退したのだ。


 1740年、長く続いた戦争のためか、それとも勝利と反比例するように対オーストリア姿勢が硬化する一方だったフランスとの外交ストレスにやられたのか、カール6世はプロイセンの没落を確認して没した。

 

 当時、マリア・テレジアは長男をもうけてはいなかったが、プロイセンを完璧に下したことでカール6世の遺産がテレジアに譲渡されるのに異議を唱える国はいなかった。

 

 神聖ローマ帝国皇帝位はテレジアの夫フランツが継ぎ、神聖ローマ帝国の盟主的立場のオーストリアの大公位をテレジアが継いだ。

 つまり、神聖ローマ帝国の実質的なトップに、マリア・テレジアが就いたのだった。

 

 1741年、テレジアに長男が誕生。

 以後、テレジアはカール6世時代に後継者不足で悩んだことが嘘のように、次々と子を成すことになる。


 オーストリアは1750年代には、フランスに対抗するために女帝エリザベータ統治下のロシアと接近。

 落ち目のポーランドを切り捨て、のちにはロシアと共にポーランドの分割に至る。

 またロシアとオーストリアは、オーストリアによるプロイセンの完全併合に合意した。


 1770年代までには、マリア・テレジアは、ほぼ大ドイツ帝国と言えるだけの領土に君臨するに至る。

 この20年でドイツの小邦の多くがオーストリアの統治下に組み込まれた。

 完全に併合された小国や国も一つや二つではなかった。

 ライン川流域の経済的に発展した地域も、次々に影響下におさめていった。

 南ネーデルランドのドイツ化もゆるやかながら進んでいた。

 

 神聖ローマ帝国がオーストリア主導で統一し、新時代の帝国として歴史の舞台に登場するのも遠くないように思われた。

 周辺部を加えた「中欧帝国」の実現すら不可能ではないと考えられるようになっていた。

 


 同時期、強大化するオーストリアを恐れたフランスは、オーストリアへの接近を試みるようになる。

 

 既に対オーストリア戦備としてイタリアのサルディニア国境沿いに展開させた兵力だけでも7万に達しており、フランス財政は逼迫していた。

 更にオーストリアが強大化してアルザス・ロレーヌ地方にまで兵を展開することになれば、フランス財政は破綻するだろう。

 

 イギリスとの貿易競争での苦戦と、新大陸経営からの締め出しにより、フランス経済にも暗雲が立ち込めていたことから、フランス王室は長らく続いた対オーストリア戦略を一転させ、友好関係の樹立に向かうことになる。

 これを外交革命と呼んだ。

 

 以後、オーストリアを西から牽制してオスマン朝トルコと相争わせるフランス伝統の戦略も破棄され、オスマン朝トルコの退勢は更に加速度的となる。


 1769年、マリア・テレジアの11女であるマリア・アントニアと、後のルイ16世が婚姻。

 アントニアは、フランスでマリー・アントワネットと呼ばれることになる。

 

 ドイツが国家として統一するには、まだもう少し時間と大きな波乱が必要だった。



挿絵(By みてみん)


fig.1 1851年成立の大ドイツ共和国(1913年頃)



_______________


※神の視点より:

念の為のメタ視点ですが、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が史実より3年早く亡くなり、「オーストリア継承戦争」が少し違う事情で前倒しになっています。

そしてプロイセンが大きく衰退するので、「七年戦争」は起きません。

オーストリアは戦乱で疲弊せずに巨大化しています。

それでもプロイセン的なものは軍事面で残るでしょう。


連載が進んだら、時代の流れに沿った並びに変更するので少し後ろにする予定です。

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