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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
第二章「世界進出ルート」

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118 ドントフォーゲット、アザーエリア(2)

●オスマン朝トルコ帝国


 1517年、マムルーク朝が滅亡し、地中海東部はオスマン朝トルコの内海と化した。

 

 1529年には、オーストリアの首都ウィーンを包囲、ヨーロッパ諸国を震撼させた。

 

 同時期、オスマン朝トルコは『立法者』スレイマン一世のもとで全盛期を迎える。

 

 1560年代には、イスラムの聖地メッカをもオスマン朝トルコの領土に加え、オスマントルコは西アジアのイスラム諸国とヨーロッパ諸国を震え上がらせる超大国となった。

 

 バルカン半島のワラキア・モルダヴィア・トランシルヴァニアの3候国はオスマントルコの属領になった。

 オスマン朝トルコは多民族国家であったからこそ非ムスリムにも寛容であり、東ローマ帝国亡き後の分裂状態にあったバルカン半島に平和をもたらした。

 

 こうした点は、インドで強引なイスラム教布教を進めたティムール帝国と対照をなしていると言えるだろう。

 

 ハンガリー王国は1526年に「モハーチの戦い」に敗れた後に急速に衰退、オーストリアとオスマン朝トルコで分割されるに至った。

 軍政国境地帯たるオーストリア王領ハンガリーの誕生である。

 

 以後、旧ハンガリーを舞台にキリスト教圏対イスラム教超大国という宗教論的・文明論的対決の時代が150年にわたり続くことになる。


 1571年には「レパント海戦」でキリスト教圏海軍が勝利するが、地中海東部の制海権は変わらずオスマントルコ海軍が掌握していた。

 

 17世紀、オスマン朝トルコは軍を二分割して国の東西に配置せねばならず、しかもヨーロッパ諸国の軍事技術発展及び量的拡大に伴い、オーストリアとの国境に配置すべきイェニチェリを減らせなかった。

 軍事費の増大により、オスマン朝トルコの財政は慢性的な赤字状態に陥っていた。

 

 1660年代、オーストリア王領ハンガリーの領民によるクルツォク反乱が頻発、オスマン朝トルコはこれを支援した。

 

 1683年、ハンガリー人の大規模な反乱が起こり、反乱軍はオスマン朝トルコに救援を要請した。

 15万もの軍勢を用いて、オスマン朝トルコ軍はオーストリアの首都にして神聖ローマ帝国皇帝御在所であるウィーンを包囲した。

 第二次ウィーン包囲である。


 第二次ウィーン包囲は、ドイツ諸侯・ポーランド・オーストリア軍から成るキリスト教圏軍が組織され、今回もヨーロッパ側がオスマン朝トルコ軍に勝利した。

 この時期にはヨーロッパ諸国の軍事技術はオスマン朝トルコ軍を凌駕し、更に発展していた。

 「三十年戦争」を経たヨーロッパ諸国は、それ以前とは比べ物にならない程の兵力を自在にぶん回す怪物に変わっていた。

 

 オスマン朝トルコの侵攻は、自らがこれまでの狩られる存在ではないと、ヨーロッパ人に広く知らしめることになった。

 新大陸で出会った原住民と同じように、独自の高い文化と軍事力を有するイスラム圏ですら、もはやヨーロッパの敵としては力不足なことを。

 

 1699年、東欧にハンガリー王国が復活した。

 

 17世紀までに西ヨーロッパでは中央集権的な絶対王政国家が成立し、やがて大型の国民国家に統合していた。

 スペイン、フランス、イングランド(ブリテン)が典型的な例である。

 神聖ローマ帝国やイタリア半島は未だ小国家群に分裂したままだが、国民国家として政治的統合に至る前段階に来ていた。

 商業帝国だったネーデルランドは、少し前のベネツィアのように緩やかに衰退するより他無かった。

 

 だが、バルカン半島の大部分は多民族国家であるオスマン朝トルコの治世下にあった。

 

 課税はされるがムスリム化を強制されなかったがゆえに、バルカン半島はイスラムとカトリックとギリシャ正教の入り乱れるモザイクがそのまま残っていた。

 ヨーロッパを吹き荒れた宗教戦争の嵐から守られ、宗教も分裂したまま、民族意識の共有も進まなかった。

 

 実現可能性は極めて低いが、もしオスマン朝トルコがヨーロッパを支配していたら、ビザンティン・ハーモニー的な融和による政教分離の失敗と、宗教的・民族的混在による国民国家の不成立がヨーロッパ全土でみられたかもしれない。

 そうなれば、不断の競争圧力に晒されたが故の西洋における科学技術の発達は、大いにスポイル(損なわれる)されたことだろう。

 

 だが、オスマン朝トルコはヨーロッパ中部に食い込むこともできず、西欧は無事だった。

 そのことが全人類レベルで吉凶いずれだったのかは、判断の分かれるところだろう。

 

 しかし文明の発展は、模倣と継承によって培われる。

 その事は、主に西ヨーロッパの人々が大海原に出る事で実践した。

 しかし今度は、西ヨーロッパの人々が作り上げた文物を模倣し継承する文明が西ヨーロッパの前に立ちはだかろうとしていた。

 

 それは人類の歴史におけるある種の必然だった。

 



●アフリカ大陸沿岸


 アフリカ大陸は、サハラ砂漠北部周辺を例外として、常に世界から取り残されていた。

 

 地理的環境、気象条件、人的要素など様々な要素が重なり、強大な国家の出現と文明の独自発展ができないでいた。

 

 ヨーロッパ人が小さな帆船でアフリカ大陸沿岸を巡るようになっても、何ら変わりなかった。

 

 最初にアフリカの大地を植民地化したのは、先鞭を付けたポルトガルだった。

 


 ナバハニ王家によるスワヒリ王国は、ポルトガルに沿岸部を侵食されていた。

 交易を独占するポルトガルは、次にインド洋の主要な交易拠点マスカット及びザンジバルをも植民地化、16世紀初頭までにインド洋はポルトガルの海となった。

 

 確かにイスラム商人は量的に強大な存在でローカルに稼いではいたが、交易圏の広大さと発展性ではポルトガル商人に及ばなかった。

 

 しかし、ポルトガル人は数が少なすぎるため、総体としては従来のインド洋貿易に寄生している状態だった。

 

 そして彼らのインド洋での栄光は長く続かなかった。

 


 16世紀末、突如として「魔王」織田信長に率いられた日本帝国が、東南アジアの海を一瞬で制圧すると共に、その勢いのままインド洋に進出したからだ。

 

 そして自然を利用した環インド洋航路を全て押さえるべく行動し、当然その手はアフリカ大陸東岸に届いた。

 

 東南アジアがそうだったように、ポルトガルが押さえている拠点が優先的に攻撃され、そして圧倒的な数の違いから一瞬で征服された。

 

 そして「魔王」相手に、キリスト教の権威や威光は全く意味が無かった。

 

 有色人種、野蛮人の行いを同じヨーロピアンに訴えても、まともに行動を起こす国は無かった。

 

 むしろネーデルランドなどは、自らの進出の機会と考えて進出を強化したほどだった。


 そしてその後、日本帝国とネーデルランドがケープと呼ばれる南アフリカ南端を巡り争う事になる。


 アフリカはあくまで第三者であり、誰からに搾取される立場だった。


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