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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
第二章「世界進出ルート」

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117 ドントフォーゲット、アザーエリア(1)

 大東洋は大東の事実上の内海と化し、北アメリカ東部の勝者はポルトガル、南アメリカの勝者はスペインと言ってさしつかえない状況になっていた。

 

 一方で、他の地域はどのような歴史を辿っていたのだろうか。

 その一部をご紹介しよう。



■西・中央・南アジア(インド)


●ティムール帝国、第二ティムール・インド帝国


 中央アジア発祥のティムール帝国の功罪のうち、「功」の部分はほぼ忘れ去られている。

 歴史に刻まれているのは、膨張したティムール帝国が末端から壊死し、それが時期的にヨーロッパ勢、日本帝国のインド洋進出と合致していたということだけだ。

 

 現在、南アジアにおいて宗教や民族が織り成すモザイクが、それぞれの独自性を紛争という形で表現せざるを得ないのも、日本またはヨーロッパ勢の都合によって任意の場所で直線的に分断されてしまったのが遠因となっている。

 

 だがティムール帝国の末路も、イスラム世界が膨張しすぎて他の地域へ進出しすぎた末の出来事だった。

 

 そう言う視点から見れば、インドで起きた事は半ば自業自得でもあった。

 

 1370年、中央アジアにて、ティムールによってティムール帝国が建国される。

 「モンゴル帝国の後継者」を自称する彼は瞬く間に帝国を拡大する。


 1405年、一代で巨大帝国を建設したティムールが没する。

 30年余りの間に、オスマン朝トルコやマルムーク朝(エジプト・イスラム帝国)、明帝国と戦い、インドに侵攻するなど、実に国際色豊かな戦争にあけくれた人生だった。


 1442年、ティムール帝国の西に位置したシーア派国家カラ・コユンル朝の支援を受けた国内反乱によりティムール帝国は分裂、一時滅亡状態になる。

 

 ジャハーン・シャーのコユンル朝とバブール・バイスンクールのコラサンに分割された旧ティムール領だったが、シーア派官僚と貴族の圧政の結果、住民反乱が勃発した。


 1480年までにコラサンは滅亡し、カラ・コユンル朝は王族が交代してアク・コユンル朝になった。

 ティムール第1帝国時代の生き残りであるアフマド・ザマーン1世が第2帝国の皇帝の座についた。


 1524年、1世紀の混乱を乗り越え、ティムール軍はインダス川を超えてミルザ・ジャミ将軍指揮のもと、デリー・シンド・ラージプート・グジャラートといったインド亜大陸中西部の諸国を征服した。

 

 これを「ザマーン・ティムール朝時代」という。

 もしくは、分かりやすく「ティムール第2帝国」や「ティムール朝インド帝国時代」とも言われる。


 1556年、のちに大帝の称号が必要になるティムール第2帝国第3代皇帝にムザーファルが即位。

 

 ベラール・ゴンドワナ・アーマドナガル・ゴルコンダ・ビジャープルなどの中小国家群を併合。

 以後は地域紛争を徹底して取り締まり、領内安定とスンニ派イスラム教の布教を20年にわたり実施する。

 だがこれが、インド全体に大きな争乱を呼ぶ火種となった。


 1576年、南インドで強大化していたマドゥライのクリシュナッハ・ペリアヤ王を破り、インド亜大陸の過半を勢力下におく。


 1581年、同じイスラム教国家ベンガルのスレイマン・ハン・カラニ王を捕らえる。

 ここにインド亜大陸の統一が成った。

 西アジアのペルシア王国と西に接し、中央アジアのチャガイタイ=ハンと北に接した。

 事実上のインド統一によって、ティムール帝国は絶頂期を迎えた。

 

 周辺のチベット・オイラト・アッサム・タウングといった東の隣国たちは、明帝国の庇護を受ける身となった。

 

 とはいえ、明帝国も衰退の兆候しきりであり、ティムール帝国がちょっとでも本気になれば国家の命運は風前の灯だろう。

 


 一方、ティムールの去った後の(イラン)地方では、シーア派人口比率が漸増。

 オスマン朝トルコの支援を受けたペルシア王国が南下して、アク・コユンル朝を滅亡に追いやり、イスマイール1世治下でペルシア王国が繁栄期を迎えた。

 

 ペルシア王国の版図はオスマン朝トルコと接することになるが、オスマン朝トルコにとっては、インドを得た事で圧倒的な兵役資源を有するティムール第二帝国と境を接するよりは安眠できる状態に落ち着いた。

 

 また、対ヨーロッパ政戦に国力リソースを割きたいスンニ派のオスマン朝トルコとしては、シーア派が多数派の地域の統治コストを払った上に対ティムール戦備の維持費も払うなど御免被りたかったのだ。

 

 この早熟で打算的な民族自決主義を味方にしたペルシアは、ティムール帝国から古都イスファハンを含む帝国西部をすら獲得した。


 その後、ティムール帝国は第4代皇帝のムザーファル大帝時代に全盛期を迎え、あとはゆっくりとした衰退の道を歩んでいく。

 

 イスラム教を庇護しすぎた為、インドで主流のヒンズー教徒からの強い反発を受けたからだった。

 

 帝国が決定的に揺らぐことになる17世紀半ばには、ヨーロッパ勢(ネーデルランド、イングランド、フランス)と日本帝国がこぞってインド亜大陸争奪に参加し、インド洋、インドを戦場として荒らし回る。

 結果インド経済も大混乱に陥り、ティムールの国家衰退を助長すると同時に、インドの植民地化が誰も思ってもみなかった速度で進行してゆく事になる。

 


(神の視点より:言うまでもありませんが、ムガル帝国は成立していません。ティムール帝国がオスマン朝と同時期に絶頂期を迎えています。)


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