116 Satan Age (魔王の時代)
■魔王の時代
「魔王の時代」という言葉は、16世紀末のイエズス教会を中心としたキリスト教徒の間での一種の流行語となった。
それだけのインパクトを、魔王がもたらしたからだ。
そしてその魔王は「織田信長」といった。
織田信長は1616年まで存命で、死去するその年まで精力的に活動した。
1584年に”日本帝国”を建国し、自らは”日本皇帝”となった。天皇という権威はほぼ否定され、日本は織田信長によって新たな時代へと進んでいく事になる。
そして以後約30年間、日本は織田信長という一個人による日本での「絶対帝政時代」を過ごす。
そして一種の天才であり変革者だった織田信長が絶対権力者となったことで、日本は急激に変化していった。
1585年に日本(西日本列島)が統一される前後から、絶対帝政の為の制度が次々に整えられていった。
そうした急激な改革は保守勢力の反発を産んだが、それも短期間で鎮圧。
1587年に日本の全てが織田信長のものとなった。
そして日本を統一した彼は、すぐにも海外へと目を向け、そして手を伸ばし、足を向けていった。
織田信長の行動がともすれば性急だったのは、大東の戦国時代を終わらせ大東を海外へと向かわせた、「勇者」馬名行義の存在があったからだと言われる。
実際、信長は大東国(大東帝国)を利用し、広義の意味での日本人世界へと飛躍させたと言える。
しかも日本帝国と大東帝国は、互いを半ば無視してそれぞれ違う方向へと一気に進んで行った。
二つの国の外交上の大きな違いは、当時の世界帝国、「太陽の沈まない国」スペインへの対応だった。
大東は、スペインが大東洋航路を有していて、それに相乗りした。
一方で日本は、1580年にスペインに半ば併合されたポルトガルの肩を持つ形でスペインと敵対した。
その頃イベリア半島は、1580年にポルトガル王国のアヴィス朝が断絶し、スペイン王・フェリペ2世(1556年から1598年)が治めるスペイン・ハプスブルク朝が半ば強引に同君連合となっていた。
このスペイン・ポルトガルのイベリア連合は1580年から1640年まで続き、北アメリカ大陸のポルトガル=アメリカ王国成立に大きな影響も与えている。
しかし日本にとっては渡りに船で、さらに日本は1587年に「バテレン追放令」を発して「侵略を目的としたキリスト教」と敵対する。
ここでのミソは、純粋なキリスト教、教えと他を区別する者を含めない点だ。
純粋なキリスト教はポルトガルのイエズス会の一派とされ、ある意味で日本の水先案内人となった。
後者の教えは教えという一派は、17世紀にスペインと敵対するプロテスタント(新教)系の勢力と連携する為だった。
そして1592年、日本帝国皇帝信長は、スペインに併呑されたポルトガルを救援するべく、ポルトガル領の奪回とスペインに対する攻撃を開始する。
俗に言う「魔王の南海遠征」の始まりだ。
まずは琉球から台湾へと進み、そこに高雄という拠点を建設。そして準備に2年を費やして、サマル諸島のルソンを直船(ガレオン船)の大艦隊に殺到。
一気に港を制圧して街を焼き払ってしまう。
用意周到なことに、事前に陸からも回り込み、さらにはマニラに普通の商船と偽って入った工作員がマニラの防衛システムの一部を麻痺させた。
もっとも占領は一時的で、16世紀のうちに撤退して拠点を台湾と海南島とした。そしてスペインが戻っている。
そのマニラは、1571年にスペインが大東洋貿易、より厳密には中華地域との貿易のために建設した港町だ。
そして、北アメリカ大陸南部の大東洋側にあるアカプルコを1年かけて周回する世界最大級の航路の一大拠点となっていた。
スペインはアジアの富をマニラからアカプルコへ、そしてパナマ地峡を経てカリブ海に入り、スペイン本国へと繋がる気の遠くなる航路をもって、世界帝国の一翼としていた。
欧州から東に向かう航路はアフリカ周りで遠く、何よりポルトガルの勢力圏だったからだ。
しかしスペインの富は蓄積しなかった。
16世紀後半は非常に強大なスペインだが、国民と産業の育成をせずに戦争と宮廷費で散財ばかりしたので、世界帝国としての地位が維持できた期間は短かった。
世界の王となったフェリペ2世も、巨大化した国を動かすための激務が祟ってか16世紀のうちに没してしまう。
しかも彼の在位中の1588年にスペイン・無敵艦隊が欧州の田舎国家に過ぎないイングランドに敗北する。その後さらに強大な艦隊を再建するも、様々な不運とイングランドやネーデルランドの努力によって絶対的な制海権を手にすることはできなかった。
そしてイングランド、ネーデルランドとの海を巡る覇権競争で国力を消耗し、1609年にはネーデルランドは実質的に独立してしまう。
その後、1640年にはポルトガルとの同君連合は終わり、1641年にはそのポルトガルから「ポルトガル=アメリカ王国(P.A.A.K)」が独立。
1648年のヴェストファーレン会議によって、多くの利権を失ったスペインは世界帝国の座から完全に引き摺り下ろされてしまう。
そのスペインの凋落を早めさせた一因が、日本帝国というより織田信長にあった。
日本はマニラを攻撃した同じ年、ポルトガル人を先導としてマカオ入り。
自らの庇護下に置いた。
しかし翌年、台湾に拠点を置いたことを明朝(唐)が抗議してくる。
これに対して文書で何度かやり取りが行われ、使者も行き交ったが、明朝側の無理解と傲慢に信長は痺れを切らす。
そして1594年、「唐征伐」が行われる。
皇帝信長は南京に艦隊を向かわせて大砲で街を焼き払い、海南島を実力で占領。
さらに北京方面(天津)に艦隊を展開して、明朝に和議を提案する。
15世紀序盤と違い海軍力が皆無に等しい明朝は、突然と言える海からの脅しに屈せざるを得ず、台湾、海南島の日本の領有を認めた。
さらに、多くの賠償金と技術のいくつかの譲渡が行われた。この時、日本に中華地域の優れた陶磁器の技術が伝えられている。
しかし織田皇帝が欲しいのは、陶磁器ではなかった。
1595年、唐征伐で遅れていた香料諸島への侵攻を実施。
同時に、馬来半島のジョホール(昭南)、ペナンを電撃的に制圧。マラッカ海峡も手に入れた。
さらに翌年、環インド洋航路の獲得を目的として、ジャワ島のヴァタビア、セイロン島のコロンボに艦隊を派遣。
そこも軍事力によって制圧する。
皇帝信長の進撃はとどまるところを知らず、16世紀の間にインド南部のゴア、アフリカ大陸東部沿岸のモンバサ、モザンビーク、妥蛮を制圧。
そしてついに希望峰を超えてケープへと艦隊を進めた。
名目はスペインからのポルトガル領の奪回だが、実質的な侵略だった。
そしてあまりにも急激で電撃的だったので、ヨーロッパ世界に大きな衝撃を与えた。
「魔王の南海遠征」や「魔王の時代」などと言われたほどで、世界の王であるフェリペ2世が1598年に没した事もあり、さらに衝撃は大きかった。
一部では、魔王信長はこのままヨーロッパまで攻め寄せるのではないかと恐れられた。
だが皇帝信長は、合理主義者であり駆け引きに長けた為政者だった。
1601年、イングランドに日本帝国の派手な装飾が施された軍船を旗艦とした艦隊が来航。
日本の実像をヨーロッパ世界に鮮烈に伝えた。
しかし日本帝国、皇帝信長の世界進出がそのまま進んだのかと言えば、そうではない。
ヨーロッパも衝撃からすぐに立ち直り、巻き返しの機会を窺った。
また日本と大東との間で、17世紀序盤には香料諸島を巡る争い、「香辛料争奪戦争時」が勃発。
日本はインド洋経営よりも大東との争いに力を入れざるを得なくなる。
これは1615年に共に晩年を迎えていた、日本と大東双方の皇帝の賢明な判断により終息したが、日本の勢いを削いだのは間違いない。
だが日本がインド洋に大きく前進したのは間違いなく、以後日本は東南アジア、インド洋経営を推し進めつつ、ヨーロッパ勢力との激しい競争と争奪戦を繰り広げていく事になる。
15世紀末から17世紀序盤の世界地図




