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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
第二章「世界進出ルート」

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114 アンビション、ニューワールド(1)

●新世界への探検と入植の歴史


 1492年、クリストファー・コロンブスはついに大探検航海のための資金と物資をスペイン王室のイザベル女王から得ることができた。

 

 実はコロンブスはポルトガル王室に売り込みをかけていたが、提案を拒否されていたのだ。

 

 既にポルトガル王室の援助を受けたバルトロメウ・ディアスが喜望峰回りのインド航路を発見しており、コロンブスはポルトガルの支援を受けることができなかった。

 

 そのために、ポルトガルは新大陸発見の大功績をあげることができなかった。

 



●ヨーロッパ・ポルトガリス


 ポルトガル王マヌエル1世は、スペイン人がインドだと主張する西方の陸地が、アジア大陸の一部であるのか確認したいと考えていた。

 

 ポルトガルが独占するべきインド航路が逆方向からもアクセス可能だったならば、それは交易上の危機を現しているからだ。

 

 また、父のジョアン2世がコロンブスに援助しなかったために大西洋開拓でスペインに遅れをとった分、インド航路開拓に情熱を燃やしていた。

 

 1499年9月には、世界ではじめて喜望峰を回ってインドに到達したヴァスコ・ダ・ガマが本国に帰還、マヌエル1世を喜ばせた。


 1499年11月、ゴンサロ・コエーリョ率いる探検隊が、スペインの主張する土地が新大陸なのかアジアなのか確認する旅に出た。

 その過程で、ゴンシア島 (のちのバミューダ島)を発見した。

 

 既に冬季であったため、コエーリョ探検隊は帰還しようとしたが、航海中に嵐に遭遇、海流に流され、新たな陸地を発見した。

 この陸地を発見した段階で、コエーリョは熱病に倒れ、同乗していたアメリゴ・ヴェスプッチが探検隊の指揮を執っていた。

 そのため、その土地を”アメリカ”と呼ぶようになり、更に新大陸全体も同じ呼び名となったのだった。

 

 本来なら新大陸はコロンブスの名ち因み”コロンビア”となるのが正当なのだろうが、歴史の偶然から新大陸は”南北アメリカ大陸”となったのだった。

 

 1500年、辛くも生還したアメリゴ・ヴェスプッチは、休む間もなくリスボンで編成の途上にあったペドロ・アルヴァレス・カブラルを艦隊司令とする探検艦隊に編入された。

 

 ヴェスプッチは、13隻から成るカブラル艦隊のうちの一部を、スペインがまだ知らない”アメリカ”探検に転用するようにマヌエル1世に進言した。

 

 妥協を重ねた結果、3隻から成るバルトロメウ・ディアス探検隊が組織された。

 ヴェスプッチはこれにオブザーバーとして乗船した。

 

 マヌエル1世としては艦隊を全てインドに送り、インド産の香辛料を一掴みでも多くインドから持ち帰りたかったが、ヴェスプッチの語る”緑豊かな永遠の土地”も興味深かったため、いわば保険としてアメリカ探検を許可した。

 

 1500年4月、ディアス探検隊は改めてコエーリョ探検隊の航路をなぞり、はじめて北アメリカ大陸に上陸した。

 一方、本隊のカブラル艦隊は8月にインドのカリカットに到達したのだった。


 1494年制定のトルデシリャス条約では、「カーボベルデの西270リーグを境界線とし、それより東側はポルトガルに優先権を認め、西側はスペイン領にする」と定められていたため、本来ならば北アメリカは全てがスペイン領のはずだった。

 

 同時に、トルデシリャス条約によれば南アメリカ大陸の一部 (のちのコンソラシオン)がポルトガル領になるはずだった。

 

 そこで、1501年にマヌエル1世はスペイン王フェルナンド2世と新大陸における領土分割について交渉し、「イスパニョーラ島北側100リーグ以北の取得優先権を得る」代わりに、トルデシリャス条約で定められた「南アメリカ大陸の一部の取得優先権をスペインに提供する」交換条約を結んだ。

 

 既に1500年1月にスペインの探検家ビセンテ・ヤーニェス・ピンソンが南アメリカ大陸東部のポルトガルのものとなるべき土地に上陸し、カーボ・デ・サンタ・マリア・デ・ラ・コンソラシオンと命名していた。

 ここが、のちのコンソラシオン(慰め)である。

 

 寒冷な北アメリカの経済的な価値は低いと判断したフェルナンド2世は、ポルトガル王の申し出を受け入れることとなる。

 こうして、北アメリカ大陸におけるポルトガルの優越的地位が固まった。

 

 ちなみに、のちにコンソラシオンで大量に栽培されるようになる赤色の染料を産出する木は”ブラサ”と呼ばれ、更に訛って”ブラジル”となる。

 この”ブラジル”の木は、こんにちではコンソラシオン連邦の象徴的な木である。

 そしてその一部でその後発見された莫大な量の黄金(金山=ミーナ・ジェライス)は、僅かばかりながらスペイン帝国の存続を長引かせる事になる。

 



●ポルトガル領植民地


 本国人口の少なさにより、ポルトガルの海外植民地は領域支配よりも交易のための海上覇権の目的に適うように建設されていた。

 その例外的な存在として、ポルトガルによる北アメリカ植民地がある。

 ここだけは、領域支配が目的だったのだ。

 

 北アメリカにポルトガル初の植民地”テラ・ノヴァ”が建設されたのは、1507年のことである。

 以後、ポルト・イリエウスを中心に”リオ・デ・ペゴス”、”コスタ・デ・エレイラ”をはじめ20余りの植民都市が建設された。


 ポルトガルの海外進出の波は、1541年、ついに極東の日本にまで到達する。

 

 日本に至るまでの過程で、アフリカ東岸のスワヒリ王国南部を植民地化、アラビア半島のオマーンを滅ぼし、セイロン島のコロンボ、インド(ティムール帝国)のゴアにも植民地を得ていた。

 16世紀半ばには東アジア貿易にもくいこみ、未だ交易規模全体から見えば小規模ながら活動を続けていた。

 

 さらに1551年には明からマカオに居留権が与えられた。

 

 日本の大友家などの戦国大名が真っ先に南蛮貿易に着手、織田信長らの保護もあり、貿易は大きく成長した。


 大東国に新たな交易相手としてポルトガル人が登場するのは1544年のことになる。

 

 既に1430年代には、大東貿易商はポルトガル人の存在を知っていたが、南蛮貿易の規模自体が小さいために、報告が支配階級である公爵レベルまで上がってこなかったのだった。


 その後も目新しい文物を提供してくれはしたが、ポルトガル自体が地球の反対側に位置する人口100万程度の小国であるが故に、東アジアで大きなプレゼンスを発揮することはなかった。

 

 更に1580年にはアヴィス朝が断絶、スペイン・ハプスブルク朝との同君連合が形成され、ポルトガルのアジアにおける影響力は縮小してしまった。


 当時、イベリア半島に遅れて国内の統一と中央集権化がはじまった新興国であるイングランド、フランス、ネーデルラントなどの国家群は、サラゴサ条約によって新大陸への進出を阻まれていた。

 

 ヨーロッパの貿易戦争において、スペイン・ポルトガルこそ先進国であり、既得権益を握っていた。

 

 その世界秩序に反抗し、教皇に聖別されたサラゴサ条約を侵害することは、いかに宗教改革の時代が近づいていようとも難しかった。

 

 よって、新興国は法の抜け道を突く形で、私掠船を用いた海賊行為により合法的にスペイン・ポルトガル船を襲って新大陸帰りの金品を奪うようになった。

 

 スペイン国王フェリペ2世は海賊行為に業をにやし、のちにイングランドとの開戦に踏み切り「アルマダ海戦」が惹起されることになる。


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