表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
第二章「世界進出ルート」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

30/118

113 Over Sea 日本/大東の海外進出(4)

■北米西岸の入植


 1594年、大東人が初めて北アメリカ大陸西岸の北部地域に進出。

 


 1620年、北アメリカ大陸の東岸では、メイフラワー号に乗った清教徒達が新たな入植地を作った。

 一方の大東人も、それより少し遅れて新大陸での入植を開始する。

 


 1633年、アカプルコ第3航路の緊急時の避難先として、北アメリカ大陸西岸に結先寄港地を建設。

 

 1640年、西岸中部に大杉寄港地を建設。

 

 寄港地といっても、最初は粗末な石積みの小屋があるだけだった。

 定住者も数名でしかなかった。

 

 やがて、コロラド山脈から注ぐ冷たい小川のほとりに小さな畑が出現。

 次いで芋酒をふるまう酒場と工具屋が出現。

 その頃には、原住民から身を守るため、木造の砦で囲むようになっていた。

 

 1650年、捕鯨業者が補給基地を建設したのを契機に、各地が爆発的に発展した。

 

 1655年、最初の農業定住者が大杉に入植。

 


 厳しい環境のアメリカ大陸西岸は、数多くのインディアン部族が割拠していた。

 山岳地帯にも密度は低いが凶悪な部族が住み着いており、しばしば平野部の諸部族を襲撃していた。

 

 大東の寄港地も毎年のようにインディアンの襲撃を受けたが、1650年代に大東人の人口が増加すると次第に平野部のインディアンとの接触も増え、襲撃者に対し共同戦線を張るようになる。

 一方では、大東人が持ち込んだユーラシア大陸原産の各種疫病が原住民の間に広まって80%と言われるほど激減した。


 この原住民のパンデミックは、大東人にとっては有益で、新たに入植した大東人たちはかつて原住民が住んでいた地域に何の抵抗もなく入植していった。

 そして大東人が増えると次第にインディアンが大東人に飲み込まれ、人種交配が進むと共に、文明化という名の大東化が進む。

 

 この時期はおよそ50年続いたのちに、平野部諸族が大東入植地に吸収される形で発展的に解消することになる。

 

 こうして1701年、「武州」と呼ばれる「武里茂 辺境伯領」が形成されることになる。

 


 一方、北アメリカ大陸西岸の開発は、スペイン領に近いヴァーリモよりも、より北部の新田村地方の方が盛んだった。

 これは同地域にまとまった平地多く、大東北部の農業が可能だったからだ。

 また、海狸ビーバーなどの毛皮を狩る猟師が入り込んだ為、地域としての広がりも非常に早かった。

 

 同地域でも、疫病で激減した先住民の取り込みが積極的に行われ、人口増加率は東部のイングランド入植地よりもずっと高い状態が続いた。

 


 なお、1650年頃に最初の入植地が建設されたが、大東の調査船団が現地調査を行った時に大きな驚きを発見する。

 半世紀ほど前の戦国時代最後に大東を脱出した旧北軍の軍船の一部が、同地域にたどり着いていたからだ。


 しかし彼らは冬を越えることが出来ず、残っていたのは船や住居、その他鉄器を中心とする文明の利器の産物の残骸だけだった。

 一時は脱出した田村一族の痕跡なりが発見できないかと考えられたが、同地域にまでたどり着いていなかった。

 

 しかしたどり着いたのは田村一族に仕えていた武将の船だった事から、同地域には故人をしのんで田村の名が付けられる事になった。

 またこの時作られた田村神社は、その後北アメリカ大陸で最も広がる神社となる。

 


 ちなみに、現代に至るも大東から脱出した田村一族の消息は明らかになっていない。

 一般的には大東洋のどこかで難破して海の藻屑となったと考えられている。

 当時もそうだと信じられていたため、フライング・ダッチマンならぬ「彷徨える田村一族」は、大東の船乗りの間の怪談話しとして有名だった。

 


挿絵(By みてみん)


fig.2 大東の海外進出経路




■豊水植民地


1522年、ポルトガル人探検隊が豊水大陸を発見したが、金も香辛料もとれない荒地であるために放置されていた。

 記録もごく僅かしか残されていない。

 


1594年、大東の南海探検隊が豊水大陸を目撃するが、亜熱帯ジャングルや砂漠しか目にしなかったため、やはり放置された。

 


1606年

 日本と大東の香辛料争奪戦争時に、日本の軍船が豊水大陸北西部に上陸。

 

 軍船は修理のために木材を現地で伐採、日本本土に情報を持ち帰った。

 織田信長は情報の保存こそ命じるも、この時は特に捨て置く以外の命令は出していない。

 

 以後、日本は南海諸島経営に集中していたために40年以上にわたって豊水大陸の存在は忘れ去られていた。

 しかし情報だけは日本帝国の武士官僚達が保存し続けた。

 


1649年

 アベル・タスマンに率いられたネーデルラント船が豊水大陸南西部に上陸。

 この情報が日本人に伝わると、即座に行動を開始する。

 目的は、東南アジア、インド洋で敵対的なネーデルランド人の拠点を見つけだして、出来るなら叩きつぶすためだった。

 


1650年

 日本帝国海軍が艦隊を派遣。

 豊水大陸西部沿岸の地図作成。

 現地生物の捕獲なども行われ、詳細な情報が日本列島にもたらされる。

 

 そしてネーデルランド人が南方から東南アジアに入ることを防ぐため、現地の開発と拠点の建設を決定。

 

 この時点では、「南方大陸」とだけ呼ばれていた。

 


1651年

 豊水に恒久的な拠点を作るための艦隊が出発。

 基地建設などの労働力として、流刑の減刑を条件に囚人1200人も同行。

 事実上、彼らが最初の入植者となる。

 

 同時に、豊水開拓民公募。

 しかし、帝国政府は拠点の建設だけを行い、移民に関しては当初は商人に委託された。

 

 当時、開拓希望者の有金をねこそぎ巻き上げて船に押し込み、目的地で降ろしたらあとは知らない、という無責任な民間会社が多数存在した。

 そういった開拓会社の一つが開拓希望者をうまく騙せそうな開拓地の名称として決めたのが、”豊水”であった。

 

 実際のところ豊水大陸は水資源に乏しい乾燥した大陸で、西日本列島とは環境が大きく異なっていた。

 


 開拓民は乾燥した陸地を踏んだ瞬間に騙されたことを知るが、帰りの運賃を払えないためにそこで生きてゆくしかなかった。

 

 水が不足するために農業生産性は低く、苦労して乾燥に強い小麦畑を切り開いていった。

 

 豊水植民地の現実は間もなく日本本土に知れ渡り、以後1世紀にわたり豊水植民地には年間数百人の開拓者しか渡らなかった。

 豊水に渡った者のかなりの部分は本国に居づらくなった犯罪者やその家族から成り、いわば”自費で行く流刑植民地”のようなものであった。

 

 それでも徐々に人口は増加し、18世紀中頃に日本列島の人口が飽和するようになると、有望な移民先として重宝されるようになる。

 



■新海植民地


1594年、大東の南海探検隊が発見。

 いちおう上陸して石碑を設置。

 しかしすぐに放置された。

 


1649年、アベル・タスマンが発見。

 だが新大陸の一部と勘違いする。

 上陸も探査もせず。

 

1668年

 日本が大東洋にも面する新大陸に進出した事を17世紀初頭の自然境界線を越えることになる可能性があるため、大東が南大東洋に調査船団を派遣。

 

 各地で様々な島々を発見。

 最も南にある島々に到達。

 

 詳細な調査により、以前に自分たちとネーデルランドが見付けた島々と分かる。

 「新海諸島」と命名し、標識なども設置。

 

1707年

 新海諸島に最初の入植を実施。

 

1710年

 日本との間に海の境界線を巡るトラブルが発生。

 その後戦争へと発展する。



挿絵(By みてみん)


fig.3 大東洋地域・豊水大陸


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
昨日と同じ内容?
前話と同じ?
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ