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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
第二章「世界進出ルート」

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112 Over Sea 日本/大東の海外進出(3)

■大彩島の発見


 約7000万年前、北アメリカ大陸北部からいくつかの陸塊が大東島を追うようにプレートに乗って分離した。

 これが先島諸島である。

 同諸島の東部地域は黒潮が親潮と混ざり合った北大東洋海流中に位置する。


 先島諸島は東伝列島の一部と見られることもあるが、大東島から取り残されたのが東伝列島で、先島諸島は別の塊として北米大陸から離れた事になる。

 

 同諸島は海流と偏西風の通り道でもあるため、大東島から北アメリカへの帆走航路の理想的な寄港地となっていた。

 

 気候は寒冷で、平地が多いなだらかな地形のために強い風がしばしば観測される。

 植生は亜寒帯で、ほとんどが針葉樹。

 

 島には北アメリカ大陸から離れた時に取り残された動植物の子孫と、孤立して後に一部定住した鳥類が住み着いていた。

 地上に住む肉食系の獣が生息したため、飛ばなくなった鳥類は数種しか存在していない。

 


 先島諸島が、大東人によって発見されたのは1624年の事だった。

 最も大きい島は、当時の元号から”大彩島”と名付けられた。

 

 大彩島の面積は日本の四国の半分程度(約1万平方キロ)で、大東人が入植以後はジャガイモの栽培が盛んとなった。

 他には馬、牛などの牧畜が行われている。

 この島には島々の位置(距離間)と海流の関係からかポリネシア人が到達しなかったと推測され、原住民は居住していなかった。

 もし到達していても、タロイモが栽培不可能なのですぐに死に絶えていただろう。

 

 ただし20世紀に入ってからの発掘調査により人類の居住の痕跡が発見されている。

 一時期居住したのは、10世紀頃に大東または日本から流れ着いた遭難者とみられている。

 

 現在の人口は30万人程度で、18世紀中頃で10万人に届いていなかった。

 


 ちなみに、これは19世紀になるまでわからなかったが、じゃがいもは壊血病に効果がある。

 北大東洋航路の船員や水兵は、大彩島産のジャガイモのおかげで知らずに壊血病から免れていた。

 原因が分かるまでは、北大東洋の気候が原因しているのだと真剣に考えられていた。

 



■アカプルコ第3航路


 16世紀末から17世紀初頭、日本との香辛料争奪戦争に破れ、バンダ諸島などを失い南海から弾き出された大東。

 しかしそれは、幸運をもたらしたと言われている。

 

 香料諸島(バンダ諸島)を巡る争いは、めまぐるしく動いた。

 1595年、祖国をイスパニアに併合されたポルトガル商人が頑張っていたところに、織田信長の命令を受けた小西行長率いる大艦隊が押しよせ、相手を完全降伏させる事で一気に征服してしまった。

 同時に日本帝国は、黒田長政らがマラッカ海峡も制圧しており、その他南シナ海、スンダ地域各所で大規模な海外進出を実施した。

 

 イエズス会士によって「魔王の南海遠征」と呼ばれる一連の戦闘と征服で、17世紀に入るまでに東南アジアの海は日本人の海となった。

 例外はイスパニアが植民地を置くフィリピン(呂宋=ルソン島)だが、日本が一度に多くの敵を抱えることを避けたからだった。

 呂宋に手を出せば、イスパニアだけでなく大東も敵として戦争をする可能性があったためだ。

 

 その後も日本の東南アジア支配は強まり、17世紀半ばまでに、バンダ・ジャカルタ・ジョホールなどの全ての南海拠点が完全に日本の支配下に入っていた。

 16世紀末には最初のネーデルランド商人が香料を求めてたどり着いたが、小数だった彼らに付け入る場所は既になかった。

 

 こうして大まかにサマル諸島フィリピン以東が大東の、以西が日本の勢力圏とみなされるようになった。

 東アジアの海は日本人のものになったのだ。

 

 この棲み分けは、結果的には日本、大東両国にとって良かったと言われることが多い。

 特に日本人もしくは日本民族全体にとっては、歴史的に大きな幸運だったと言われている。


 同族同士が異民族との競争に遅れを取るような行動にリソースを浪費しなくてよいからだ。

 この日本と大東による非公式な大東洋分割体制によって、以後の両国による植民地獲得競争は加速度的に進展していく。

 

 流れがほぼ決まったのは16世紀中の事であり、日本の織田信長、大東の馬名行儀の二人の天才的君主によってでしか、日本民族の棲み分けは叶わなかっただろうと言われる。

 

 なお17世紀のインドは、イングランドとネーデルラント、フランスが激しい分割競争を繰り広げるヨーロッパ世界のホットゾーンだった。

 どの勢力が勝利するにせよ、インドの次は東南アジアが標的になるだろう。


 大東から見れば、日本が将来インドを手中にしたヨーロッパ勢を食い止める防壁になりたいと望むならば、勝手にさせておけばよいと考えていた。

 何しろヨーロピアンの当面の目的は香辛料だった。

 その最大の生産地を押さえた日本人が攻撃されるのは、もはや自明の理だった。

 

 一方の大東は、インド洋に比べれば随分と平和な大東洋だけを心配すれば良かった。

 それが広大な本国に慣れ、そしてさらに目の前の広大な海洋に慣れていた、開拓国家大東の選択だった。

 


 大航海の象徴となる大東=羽合=アカプルコという大東洋航路は、アカプルコ=マニラ間のガレオン貿易航路に次ぐ大東洋の主要航路として早くから拓けていた。

 

 更に第3の航路が誕生した背景には、アレウト列島や千島・火依半島での毛皮狩猟の発展、さらには夏の捕鯨が関わっている。

 

毛皮を前処理し船便でヨーロッパまで輸送する際、捕獲地=大彩島=アカプルコ=ベラクルス(メキシコ湾側)という経路をたどることになる。

 これをアカプルコ第3航路と呼んだ。

 そして捕鯨船が大彩島を補給拠点とするため、発展は尚一層早かった。

 


 そして馬名行儀が晩年力を入れたのが、このアカプルコ第3航路の開発と新大陸の探索だった。

 しかし行儀は、新大陸で大きな成果が出る前、1616年に72才で没する。

 その翌年に西の日本帝国では織田信長が没したが、馬名行儀は才能では信長に勝ると言われながらも、最後まで、寿命においてまで信長の後塵を拝し続けた。

 晩年まで行儀の才能が曇ることはなかったが、老い先短くなると織田信長の事ばかり口にしていたと言われている。

 

 しかし馬名行儀の残した功績は大きく、さらに少し後に開花していく事になる。

 

 当時ノヴァ・イスパニア北部沿岸は、「ヴァーモリ」と呼ばれる乾燥した荒野であった。

 ヴァーモリより北の地域はほとんど未探索で、峻険なコロラド山脈が大東洋岸近くまでそそり立ち、一部に南北に細長い平野を形成している。

 北に向かうと降雨量は改善するが、海岸のすぐ側まで山並みが迫る場所が多いので、多くは鬱蒼とした巨大な杉林が広がっていた。

 そうした情景は、どこか西日本列島の一部情景に近かった。

 

 ヴァーモリ周辺で大河が注ぐ河口はコロラド川のみであるため、大規模な沖積平野はコロラド川河口以外には存在しない。

 こうした悪条件がノヴァ・イスパニア領の北進を妨げていたのだ。


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