111 Over Sea 日本/大東の海外進出(2)
■新南海航路
1590年に琉球を失ったことで、大東は立てたばかりの戦略の見直しを迫られていた。
琉球=明=大越=マラッカという、比較的安全で穏やかな海を通る南海航路が利用困難になったのだ。
ここで大東と日本が、雌雄を決する大戦を起こしていたとしても不思議はなかっただろう。
だが、日本の織田信長は大東を意図的に無視した。
馬名行義も、その選択を下策として採用しなかった。
代わりに行義は、余裕のある財源から基金を創設して、かなりの規模の南海航路開拓を命じた。
事実上、大東の独裁者となった馬名行義のもとに届く報告によると、スペインが開拓している呂宋はスールーなどイスラム系諸族が割拠し、蛮族も頭数が揃っているとのことだった。
スペイン人がマニラ周辺に留まっていることからも、呂宋諸島の攻略は難しいと考えられた。
よって、馬名行義は未知の寄港地を求めることにした。
大商人にかなりの報酬を支払い大型船を雇用、南海探検隊を組織した。
船先案内人には、呂宋交易の経験が深い茶茂呂人商人を雇用した。
この二人の覇者の選択によって、大東と日本は対決することなく住み分けることになる。
また同時に、商業帝国としての日本、開拓帝国としての大東という、大きく違う帝国を建設していく最初の選択ともなった。
そして1590年から93年までの南海探検で、以下の地域が発見された。
茶茂呂諸島 : 15世紀半ばに最初にたどり着き、既にスペインと茶茂呂氏が1530年代に拠点を設けていた。
プロウ諸島 : プロウとは、マレー人の言葉で”島”という意味。
その後パラオとも呼ばれる。
バンダ諸島 : ポルトガル商人がマラッカ諸島と呼ぶ島々を含む多島海全体を指す。
探検隊はジャイロロ島のテルナテ港を発見。
サベドラ諸島 : 以前入手したスペインの海図に載っていた島々。
おそるおそる大東が領有を宣言するも、スペインはそれらの島々のことなど忘れていた。
「香料諸島」とも呼ばれるバンダ諸島北部のテルナテ港までの新航路は、これまでの琉球経由の南海航路よりも遥かに距離的には近かった。
大東はテルナテを経由して更に南海を探検。
マカッサルからテルナテに至る広大な海域に足跡を残した。
1593年、セラム島・ティモール島を発見。
ティモール島ではドミニコ会の修道士を発見し、探検隊は驚かされた。
1594年、ルソン南部のサマル諸島に入植を開始。
領地を失った旧北軍貴族がシマバナナ農場を経営した。
同年、探検隊がティモール南方海上に大きな陸塊を発見する。
1599年、第3次南海探検隊が進発。
サベドラ諸島からの帰途、北上した際に遭難。
ちりぢりになった大型直船のひとつ”辰恵”が北赤道海流に流されていると、偶然スペインのガレオン航路船と接触した。
ガレオン船自体は別にめずらしくもなんともないが、大東人船長はガレオン船の船内で茶茂呂なまりの言葉を耳にした。
船内には、茶茂呂人が乗っていたのだ。
探検隊が大東人のものであることがわかると、彼らは素早く隠れた。
こうして、1582年の”半月湾の戦い”で失踪したはずの茶茂呂勲爵の所在がわかったのだった。
fig.2 北大東洋全域図
■アリイ・ヌイ・チャモロ
1600年、捕縛されたガレオン船の茶茂呂人を取り調べた結果、かつて鄭和が発見した遥か東方の島々に、茶茂呂勲爵とその縁者がたどり着いていたことがわかった。
尋問の結果、かの地に大東人の入植地が建設されていることを知った。
1582年、羽合諸島は複数の大族長に支配されていた。
文字を持たず技術レベルも低いため、巨大な直船が現れたとき、現地人は茶茂呂勲爵一行を「神」と勘違いした。
彼らはごく慎ましい振舞いをしたおかげか、その誤解が解けるまでに羽合島の一部を譲り受け、定着した。
そして、豚や犬、鶏は既に羽合で飼われていたが、馬や猫は存在しなかった。
僅かな馬が地上に下ろされると、この島が馬の成育に適していることはすぐに明らかになった。
馬は重要な物々交換品としてタロイモやバナナと交換され、初期の茶茂呂入植地の主要な食料源となった。
さらに、羽合族長がマウイ島の族長との戦いに干渉し、羽合諸島の統一に貢献することになる。
島間の大量輸送手段として直船は最適だった。
しかも多数の大砲まで装備している。
加えて言えば、鉄という金属そのものが原住民にとっては未知の超技術だった。
鉄の刀一本で無敵の戦士となれた。
1583年、マウイ島以北の羽合諸島を構成する島々の族長の地位を認められた茶茂呂勲爵は、アリイ・ヌイ・チャモロと呼ばれた。
ハワイ島に比べれば小粒な島々が多く現地人人口も少ないが、オアフ島には良港があるため茶茂呂勲爵にとっては好都合だった。
1584年、オアフ島に停泊する3隻の直船のうち2隻が様々な理由で失われていた。
全ての船が失われる前に、破損した船の部品を以って最後の一隻”黒椰子”を改修。
大東島の南都に密かに送り出した。
もちろん、実在する商業連合の旗を掲げて。
”黒椰子”は南都が黒姫伯の支配下にあることを知り、地方港で水と物資を補充してマニラに向かった。
1585年、マニラのイントラムロスで茶茂呂氏の生存者と接触。
生存者たちは、漢民族の海賊に対する防備としてスペイン総督サンティアゴ・デ・ベラが進めるマニラ城砦建設工事に従事していた。
”黒椰子”一行は、羽合王アリイ・ヌイ・チャモロからの使いとしてスペイン総督と会見し、スペインがまだ知らない太平洋(大東洋)の羽合諸島に布教する権限と独占交易権を提供すると申し出た。
代償として、武器と生活物資の提供を求めた。
(当然、羽合王は自称。
実際はハワイ島とマウイ島はアリイ・ヌイ・チャモロの支配権が及ばない)
一往復に2年もかかるゆったりとしたガレオン貿易のペースで話が進み、最初のガレオン船が羽合に立ち寄るまでに10年もかかった。
これは不運としか言えないが、1599年、2隻目のスペインガレオン船が羽合に寄航した後に大東船”辰恵”に見つかってしまったのだった。
■羽合諸島侵攻
1599年、茶茂呂氏の入植から17年が経過していた。
入植当初1600名余りであった茶茂呂人は、男性が多かったせいか慢性的な嫁不足であった。
だが、羽合人に比べれば遥かに色白で体格も良かった茶茂呂人は、幸いにも羽合女性と割と容易に結婚し家庭をもった。
彼らの多くは貴族に任じられ、タロイモ農場か馬牧場で羽合人労働者の監督者として働いた。
体格の大きな大東馬は高値(物々交換)で売れた。
充分な食料と温暖な気候のせいか野放図に増えた。
1600年における入植地人口は、茶茂呂人4000人に羽合人3万人という比率だった。
人口が限られているため成人男性全員が兵役を負ったが、鉄器を知らなかった羽合人にとって大東産の直刀は恐怖の的。
直船はもとより鉄砲や大砲を使わなくても、刃向かう者は滅多にいなかった。
1601年、大東海軍の茶茂呂懲罰作戦が実施される。
中道島を経由し、2ヶ月もの航海期間を要したが羽合諸島に到達した。
航海途上で若干減少したが、まだ2000人もの水兵が6隻の直船に分乗しており、オアフ島上陸の主戦力となった。
迎え撃つ茶茂呂植民地側には、もはや丸太船しか存在しない。
勝敗は戦うまでもなく決まっていた。
それでも廃船から引き揚げた大砲がオアフ島から沖の大東艦隊に放たれたが、年月を経た火薬の小包は劣化して不発が相次いだ。
モロカイ・ラナイ・オアフ・カウアイ・ニーハウの5島に分かれて居住する茶茂呂人は、突如として出現した大東艦隊に組織的に反撃することもできずに降伏した。
同年、大東の実質的な支配者である馬名行義は羽合仕置きを下される。
羽合行政区域は、新たに叙任された山崎勲爵が統治に当たった。
以後、羽合諸島を起点に大東洋探検がおこなわれる。
同時に羽合への入植と開発、大東化事業も押し進められ、17世紀半ばには羽合から他の地域に植民船を出すまでになる。




