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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
第二章「世界進出ルート」

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110 Over Sea 日本/大東の海外進出(1)

■竜骨構造船


 西日本列島では、瀬戸内海を中心とする内水面が主要な航路であったため大型化もさして進まず、外板が応力を受け持つ構造の船が伝統的に使われてきた。

 

 しかし、14世紀に起きた「二十年戦争」では、大量の海上輸送の必要性から数々の改良が伝統船に施されてきた。

 大東商人との貿易競争の結果、15世紀には順風帆走や沿岸航法の段階を脱することになる。

 風上への航行を可能にする間切り帆走法が開発されたのも同時期のことだ。

 

 また、西日本列島は東シナ海の琉球諸島を経由して明や南海まで半ば沿岸航法で航行できるのに対し、大東島からは潮流の早い日本海峡を渡らねばならない。

 必然的に航海技術が向上したのだった。

 

 16世紀の戦国時代にはポルトガル船が出現し、大東は竜骨構造船の存在を知る。

 明のジャンク船にもない目新しい構造に大東商人は興奮した。

 

 1560年頃、竜骨構造船を最初に採用したのは大東国側だった。

 対明貿易で隻数制限を受け、大型船の建造が目指されたためだ。


 1570年代後半からは、大東の南軍がガレオン船を模した大型軍船の建造に着手する。

 大量の輸送需要に対応するには、積載量あたりの価格が多少高くとも竜骨構造船が求められた。

 

 それまでの大東船は筵帆が多かったが、大量の綿布が主に南軍海軍に需要されるようになると綿布の製造コストが低下し、一般の商船にも綿帆が利用されるようになった。

 

 竜骨の材料となる木材はなるべく一本物に近いことが求められたが、大東国内には長大な良質の原木が少なくなり、日本から輸入される例もみられた。

 


 日本でも1586年に外洋航海が可能な竜骨設計船が試作された。

 伝統的な安宅型軍船に割り当てられる予算は大幅に削減、同時期から織田信長の海軍拡張のペースは急速な勢いで早まり、大東船を真似た大船が建造されている。

 

 この結果、日本から大東への原木輸出は禁止された。

 このため大東は木材資源獲得の代替手段として、尚のこと海外進出を行う方向に流れていく。


 また、1570年代に日本で出現した鉄甲船の鉄張り構造は竜骨構造船には利用されなかった。

 伝統船より喫水が浅い竜骨構造船は、安宅船よりもトップヘビーによる横転の危険性が高い。

 

 甲鉄を張れば舷側の防御力は向上するが、檣柱や帆桁まで全てを覆うわけにはいかない。

 ガレー船と異なり、帆船は帆が破損すれば浮かぶ棺桶になってしまう。

 よって、甲鉄のアイデアは帆船には適用されなかった。

 しかしその後、船底に銅板を貼る時に技術は応用される。


 1600年、大東海軍の改良型直船は大砲を40門も搭載した。

 船首楼と船尾楼は小ぶりで、その代わりに部分2層甲板を有す。

 全長を延長、全幅を狭め船速に優れる。

 

 同サイズの商船の場合、全長140尺前後、全幅35尺前後、排水量10000石(1600トン)、積載量7500石(1125トン)程度であった。

 実際のところ商船と軍船の構造上の差異はあまりなく、軍船でも同程度の積載量を有した。



■琉球侵攻


 1590年の羽柴秀吉を総大将とする琉球侵攻は、琉球自身の招いたものと考えてよかった。

 半ば明の属国である現状を過大評価していたのだ。

 

 実際には、明帝国は日本・大東の門戸開放要求を一蹴、逆に海禁策を強化していた。

 明海軍は倭寇(実態はほとんど漢民族海賊であったが)に対応するためにそれなりの海軍力を備えてもいたが、沿海での海防作戦に従事することがほとんどであったために琉球侵攻を狙う日本帝国軍を海上で阻止する能力はなかった。

 

 日本帝国皇帝織田信長の方針によって、琉球はごく短時間で日本の属国と化した。

 

 一方、今まで大東商人は南海貿易の拠点として利用してきたため、琉球の喪失は大きな痛手だった。

 彼らが日本に懲罰戦争を行うように求めたのも当然といえよう。


 なお、16世紀末の対明貿易において、日本の主要輸出品は以下のようになる。


1. 銅・銀・金など鉱物

2. 刀剣類

3. 漆器など手工業品


 対して、大東の輸出品は大東特産の剣歯猫の牙やアルキナマコなど原材料、刀剣類、そして俄に増えた金が挙げられる。

 特に希少金属である豊富な黄金は、16世紀に入ってからの大東商人に高い競争力を与えていた。

 

 しかし明商人は、明帝国内で慢性的に不足している貨幣として使う銀・銅の取引を強く需要した。

 そして銀・銅ともに日本で多く産出している。

 よって対明貿易額では、大東は日本に及ばなかった。

 大東も、金との交換で日本から銀,銅を購入しているほどだった。

 

 そこで大東商人は、日本商人が未着手というより全く重要視していない貿易品目である香辛料に目をつけた。

 呂宋のスペイン人やマカオのポルトガル人(既にポルトガルは同君連合の形でスペインと一体化しているが、便宜上旧国籍で分けている)は、ヨーロッパへの帰国便でアジア産の香辛料を満載していた。


 また明商人も香辛料を商っており、肉食の進んでいる大東では香辛料に一定の需要もあった。

 日本を例外として、香辛料は当時の最もスタンダードな貿易品目だった。

 

 そして大東にとっての南海(大東洋西部)には、邪魔者がほとんどいない未開拓の島々が分布している。

 温暖な彼の地で香辛料生産を一元的に商うことができれば、その利益は莫大なものとなるだろうと考えられた。

 

 ヨーロッパに直接運び込むことができれば更に利幅は大きくなるが、スペイン・ポルトガル人商人が競争相手に寄港地を貸してくれるとはとても思えなかった。

 

 将来的には独自のヨーロッパ航路を開拓するかもしれないが、16世紀末の時点では既存の交易圏内での活動に限定されるだろう。


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