108 ファイト、国内国家たち(8)
・1583年
”熱詞の戦い”。
北軍に対する大攻勢。
南軍参加兵力は35万といわれる。
この攻勢で、南軍を煩わせてきた戦虎遊撃戦は終止符を打たれた。
長瀬・西原氏が北軍から離脱、琉婚川のラインまで戦線は移動した。
旧高埜公領だった大東島屈指の豊かな平野、その過半が新たに馬名氏の家臣団に分配された。
時の大展天皇が、馬名行義の指示通りに新たな爵位に任じた。
・1584年-1588年
”二者陸繋の戦い”。
琉婚川北方を巡る合戦は、笹森伯領を中心に第6次まで戦われた。
特に凄惨を極めた第3次”二者陸繋の戦い”において、追い込まれた主神道領は、「進めば天国、退けば地獄」と領民を脅し、数えで15歳から60歳までの成人男性を動員した。
更には持梓巫女という形で、多くの女性も志願という名の動員をかけられた。
彼ら/彼女らの背後では、ごつい神官が二十匁多連装銃を構え、死を恐れる卑怯者の信徒を”破門”する特権を行使する機会をうかがっていた。
二者臨界大社を巡る攻防では、多くの神道習合兵が激しく戦い、その死に様をつぶさに観察した行義は、「この連中と同じところには行きたくないね」と発言したともいう。
ちなみに、後世に伝わる持梓巫女の武装といえば弓か薙刀だが、100万丁近い銃が蓄積していた1580年代には火縄銃が主要な武装になっていた。
鍛造技術の向上に伴い軽量小口径の火縄銃が普及し、反動も少ないこれら新型銃が使用されていたようだ。
比較的近距離での撃ち合いが銃兵の戦い方であることから、戦訓に従い大型の銃よりも資材節約になる小口径銃が選好されたのだ(少数の大型銃が別に進化の道を歩んでいる)。
・1586年
主神道領が滅亡。
旧領は照神道領に編入された。
唯一の存在として強大化した照神道ではあるが、その栄光は長くは続かなかった。
主敵を失った照神道領の政治は善政にはほど遠く、旧領では以前よりも重い税、軍役、賦役が待っていた。
そのためか信徒の大部分が集中する旧大東島でも、旧来の”自然神道”に回帰する者が増えだした。
この回帰現象は戦国の世に民衆が倦みはじめると共に大きな潮流となり、照神道は次第に廃れてゆく。
最後の第6次”二者陸繋の戦い”。
1588年、新大東島の入口にあたる境東府は、新時代の攻城戦に対応した重厚な要塞に変貌していた。
過去5年の間に周辺の市街を潰し、堀が造成されていた。
厚い城壁は土塁で埋められ、堀に続く稜堡となった。
伝統的な中世からの城壁では、大砲に耐えられないからだ。
この築城様式は15世紀以降のイタリア式築城様式を真似たものであった。
戦いは砲撃を中心に据えた史上最大の火力戦になった。
多くの大型軍船から大砲が下ろされ、この作戦に間に合うように運搬された。
また、この戦いにおいて主に働いたのは砲兵と港から弾薬補給所までを往復する輜重隊であった。
戦功を挙げられないことに不満を持つ刀兵はいなかった。
攻城を命じられれば、要塞の遥か手前で鎧ごと粉微塵になることはわかりきっているからだ。
この戦いの前に、行義は大枚をはたいて大東交易圏全体から火薬と硝石を買い集めた。
幸いにも日本では織田氏が全国統一に成功したため、国際市場では硝石の価格は低下傾向にあった。
行義が境東府の攻略を急いだ背景には、その日本の情勢が大きく関わっていた。
日本は前年の1587年に全国統一に成功し、数々の法を整え、海軍増強にも勤しんでいるとの情報が入っていた。
多くの情報提供者が織田信長の動向を行義に報告し、行義は信長の行動様式を分析していた。
・1589年
2月、包囲下の境東府が開城。
兵糧攻めの結果だった。
これで新大東島が戦場になることがはっきりした。
田村氏は動揺し、新大東諸領主の多くは田村氏への協力を拒みはじめた。
また、北府や央都の商人は北軍への新規融資を一切取りやめた。
次なる死闘の舞台になるのがほとんど決定している北府の豪商たちは、早くも主要な幹部従業員を他都市に移転し、現金の備蓄も密かに船便でどこかに持ち去りはじめた。
仮に北軍が戦争資源を一滴残らず搾り取り南軍に抵抗するならば、大東経済に残す傷跡はさらに深く、かつ広範なものになっていただろう。
田村氏が抗戦・降伏いずれの道を選ぶか天秤にかけられていたこの最もフェータルな局面において、突如として動いたのが駒城氏であった。
駒城氏は領土的野心などないかのように振舞い、田村氏には好意的中立を保っていた。
このような穏健な姿勢を半世紀にわたり貫くことは、かなり困難だったと推測される。
周囲の競争相手が次々に領土を獲得するなか、それを指をくわえて見逃すことを非難する重臣や血気盛んな若手が必ず家内にいるはずだからだ。
馬や木材も軍事援助としてではなく、通常の商業ルートで北軍に販売していた。
このように抑制した経済活動を続けてきたことも驚くべきことだ。
商人とは最大利益を求めるものだし、利益追求の邪魔をする者をあらゆる手段で矯正しようと試みる。
民主主義社会でなくとも、為政者は民衆にある程度操作されるものなのだ。
戦争に 全面的に参戦すれば、駒城商人は一時的には大儲けできたはずだ。
それなのに過去半世紀間、南軍に駒城攻撃の糸口すら与えぬよう領民を従わせてきた駒城伯の力量は相当なものだった。
1589年2月、駒城伯が挙兵し南軍に加勢した。
これまで戦国の世にありながら全く無傷で通してきた駒城氏に対し、田村・川鹿・小牧・向坂・古室氏などは疲弊している。
精強な駒城騎兵に抗すべくもなかった。
1589年3月、中立を保ってきた陸南の新谷から、夜陰に紛れ密かに陸を離れる大型直船があった。
この船には、田村氏の当主、主戦派の重臣及びその家族が乗船したという。
病弱で頼りにならないとみられてきた田村氏宗家の八男の清隆が、突然の雄弁で主戦派の父や兄弟と話し合った。
そして、南軍に降伏すれば確実に腹を切らねばならない血族や重臣を密かに国外に逃がしたのだ。
坂上田村麻呂を祖とする誇り高い名門の田村氏の命脈が絶たれることだけは避けなければならない、と説得したのだ。
病弱で、いつまでたっても意味のわからない数字遊戯に熱中し、見るからに頭の悪そうなご面相の田村清隆ならば、馬名行義も彼を軽視して田村氏を完全にお取り潰しにはしないかもしれないとの希望もあったからだ。
同月、田村氏は降伏し北軍は解散した。
田村清隆は馬名行義との一対一での面会後に助命され、御沙汰が決するまで東京に出頭する運びとなった。
結局、清隆は表向きは蟄居を命じられることになる。
そして、田村氏の家督は爵位降格のうえ清隆の幼い娘(清隆は彼の正妻にほとんど指を触れなかったと言われている。
)に譲られた。
表向き、というのも、清隆は数年後に馬名行義の肝いりで設立された大東帝国自然哲学協会の数理部門長に納まり、全国から選りすぐった同年輩の若者と議論三昧の毎日を送ったからだ。
清隆は行義とも位を超えた親交を育んだ記録も残されており、後には西洋解剖学部門でも大きな足跡を残している。
そしてその業績を揶揄し「魔法使い」と呼ばれた。
なお、「宗教」の存在しない大東では、国家(または天皇)が学問を振興するのが一般的であり、この行いは規模や先進性はともかく特に珍しいことではない。
戦後、馬名行義は晴れて皇族に叙爵された。
外部から皇族に編入されるのは、300年近く続く現行制度の歴史でも数えるほどしかないことだった。
そして現天皇が崩御した後に、行義の娘が皇族との間に成した子が天皇位につく事になった。
南北戦争の終結と大東再統一がここに成ったのだ。




