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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
第二章「世界進出ルート」

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106 ファイト、国内国家たち(6)

 大東と日本に共に訪れた「戦国時代」。

 しかし大東と日本には、一つの違いがあった。

 

 日本の戦国時代には、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に代表される個人としての英雄が数多存在した。

 だが大東の戦国時代の最終的な統一には、飛び抜けた英雄が存在しなかった。

 戦乱の途中での有名人、著名人はいくらでも見付けることが出来るが、最後を締めた「この人」と呼ぶべき人物を捜すのに苦労する事が多い。

 

 


■皇族の離散・戦国の幕開け


 戦国時代が、それまでの水面下の闘争から中央政府の打倒をも目指すサバイバルに発展したのは1562年であった。

 


 旧大東島の半分(直轄地は4分の1程度)を支配下においてきた天皇領には、血縁で繋がった皇族貴族が千氏以上も集中していた。

 長子相続の抑制はとうに失われ、子の全てに爵位と領地を与えようとした親心が招いた事態だった。

 

 天皇領には、爵位を剥奪された地頭有力者が不満を鬱積させ、民衆レベルの不満が1562年の「壬戌大良五年の役」の原動力となった。

 

 有力地頭が各地で蜂起し、朝廷の要請により大東軍の召集命令が発せられた。

 

 これに応える形で近隣の保科氏が軍勢を率い、天皇領各地に展開した。

 天皇領の主要な城や町を短期間で支配下に置くと、保科軍は大東政府の軍政当局に指揮権の委譲を拒否した。

 

 事態がここに至って、領地から弾き出されなかった有力皇族は危機感を意識し、自領の兵の動員をはじめた。

 

 保科領の南隣に位置する黒姫伯領でも米の大量購入がみられ、保科軍は天皇領から撤退せざるを得ない。

 皇族は東京に逼塞しながらも事態を楽観していたが、この期待は木っ端微塵になった。

 

 保科軍は黒姫軍の領内通過を認めたのだ。

 いや、それどころか同盟関係にあった。

 


 天皇領が決定的に崩壊したのは、古くから朝廷に官職を得て、皇族とも浅からぬ関係にあった坂上伯の天皇領侵攻だった。

 

 1563年、北部天皇領は坂上軍により失われ、西部天皇領は照神道信徒が蜂起することで失われた。

 

 脱出する決断が遅れた中小皇族の、家族と金銀財宝を満載した馬車が各地で襲撃・掠奪された。

 多数の皇族が慌てて東京に逃れる過程で命を落とした。

 

 大東天皇は、騒乱鎮圧のために全国に叛徒討伐の詔を発したが、それは大東政府の命令ではなく、皇族という一つの爵位を持つ貴族の”要請”という形態をとった。

 なぜなら、大東国皇帝としての軍召集命令と反乱鎮圧命令はとうに発せられていたからだ。

 

 この二重命令は、才覚次第で領土を切り取り放題の戦国の世の到来を実感させるものだった。

 



■馬名行義の台頭


・1563年

 加良勲爵は大東政府の召集命令に応じて兵を動員したが、同年の坂上伯による天皇領侵攻に際して踏み潰され、そのまま再起不能になっていた。

 

 加良氏の当主は、無謀にも坂上伯に城付きの騎馬隊だけで立ち向かい討ち死にしていた。

 その後の加良氏の混乱を鎮めたのが、当時19歳の若き当主だった馬名行義であった。

 


 馬名氏は、加良勲爵領内の地方行政区域を統治する地爵であった。

 古州街道・小苗街道といった主要街道の分岐点の整備と関所の管理を代々の官職としていた。

 

 行義は境都・永浜から大消費地東京につながる内陸交通路を管理するだけあって、経済感覚に優れていた。

 また、優秀な船乗りを多く輩出する素島勲爵の娘が輿入れし、妻となっている。

 このため海に関しても深い理解を持っていた。

 


・1564年

 馬名行義は加良勲爵内の同爵位の敵対勢力を次々と下し、勲爵の地位を獲得する。

 この時点で、人々は「若き英雄」の登場に喝采を叫んだ。

 


・1565年

 馬名行義は坂上伯の領内通行を禁じ、高埜公と同盟を結び挟撃することで坂上伯は衰退した。

 坂上伯領の半分を獲得し、更に旧天皇領を吸収することで馬名氏は100万石を超える大国に成長した。

 その後坂上氏は、貴族としての命脈は辛うじて存続するが伯爵の位も名実共に失う事になる。

 


・1568年

 高埜公は馬名氏の先導で首都東京城に入り、朝廷の再建と大東国の行政刷新を成し遂げた。

 

 馬名氏は功績により勲爵から伯爵に取り立てられ、朝廷内で重要な官職を得た。

 

 大良天皇の正妻は若すぎる死を遂げ、高埜氏の娘が大良天皇と再婚した。

 こうして、高埜朝大東国の基盤が着々と整いつつあった。

 


・1570年

 高埜氏が復興した朝廷を偽朝と断じる田村公は、全国に偽朝打倒の檄を飛ばした。

 

 高埜包囲網が結成され、高埜公は田村・草壁・保科・黒姫・笹森・西原・長瀬の包囲攻撃を受けることになった。

 

 馬名氏は、主に遷鏡南部の保科・黒姫を相手どり、苦しい戦いをすることになる。

 


・1571年

 馬名氏は征東の大国である多田野氏と同盟。

 

 大坂の富豪たちの意向は、多田野氏が馬名と同盟して、素島海軍の力を得ることを当てにしていた。

 

 大東海軍における反乱の結果、海軍艦艇の多くは馬名-素島同盟が掌握していた。

 だが海軍維持費に困りほとんど活動できずにいた。

 そこに富裕な大阪が素島海軍に金を提供すると約束したのだから、馬名氏にとれば渡りに船であった。

 

 大坂は、南都商人の支援で強大化する茶茂呂海軍の海賊活動で損害を受けていた。

 また、南都は琉球経由の南海貿易で伝統的に有利な立場にあった。

 大東で当時まだとれなかった砂糖や明の生糸・織物の貿易競争で劣勢に立ち、大阪は危機感を抱いていたのだ。

 


 同年、名門貴族の椎名氏が滅亡。

 


・1572年

 「鳥島沖海戦」。

 素島海軍と茶茂呂海軍が戦う。

 以後、海上の覇権は大坂側が得る。

 この海戦は、西欧と同程度の直船(ガレオン船)同士が、大砲の舷側砲火の応酬を行い、その後に切り込み合うという戦いをした最初の例となった。

 以後、従来型の戦闘よりも大砲を撃ち合う近世的な戦い方が主流となっていく。

 


 同年、馬名・多田野同盟と保科・黒姫・茶茂呂同盟が「亜麻畑の戦い」で交戦。

 馬名・多田野同盟が勝利。

 

 馬名軍は、大坂・東京の二大都市で町民を徴募した民兵と火縄銃を組み合わせた”軽装銃兵”を投入した。

 鎧をほとんど身に着けず、剣技の教育は一切ないため銃と槍しか使えない。

 一方で、指揮を円滑化するために、士官の数は一般的軍団の倍とした。

 

 金で集めた民兵であるためほとんど実戦力として期待されなかったが、密集隊形で運用した際は、意外な頑強さを発揮することがわかった。

 


・1573年

 高埜氏が頼りにする境東府が、総力を挙げた田村氏らの軍勢によって攻略される。

 この戦いでは、多数の大砲が使用されており、大東の新大東州の人々が火力増強に大きな努力を図っていた事を見て取ることができる。

 

 強大な騎兵を有する田村氏に、高埜氏は野戦では勝てない。

 

 「境都の戦い」で高埜軍と田村軍が激突し、予想通り田村軍が大勝した。

 この戦いでも、騎馬や剣歯猫だけでなく、大砲、鉄砲も大いに活躍した。

 この頃田村家に仕え「鉄砲馬鹿」と呼ばれた太田二郎左右衛門が、境東府攻略以後の戦いを担い、そして多くの勝利をもたらす事になる。

 

 敗北後、高埜氏は馬名氏に援軍を要請したが、馬名行義は援軍を送らなかった。

 


・1574年

 高埜包囲網は狭まり、片脇氏までも高埜氏を攻撃した。

 東京近辺の高埜公爵領からも兵が抽出され、馬名領を通過して包囲網に必死で抗戦した。

 


 同年夏、馬名氏は高埜氏との同盟を破棄。

 

 断末魔の高埜氏を滅ぼしたのは、もと同盟国である馬名氏による侵攻であった。

 自分の身を守れぬ国が同盟国からも見捨てられるのは、歴史が証明するところである。

 

馬名氏は、東京周辺の高埜領を次々と併呑した。

 東京御所と政庁も馬名氏の支配下に入り、その石高は400万石を上回った。

 


 今や1000万石近い領域を支配する巨大な同盟体となった高埜包囲網。

 田村氏を議長とする論功行賞会議は、高埜領分割で大きく揺れた。

 

 このような分割競争では、誰もが満足する論功行賞など不可能である。

 不満を持った貴族が次々と会議を中座するなか、会議は物別れに終わった。

 

 田村氏は、次なる敵をつくることで同盟の結束を図ろうとしたが、そんな展開はとうに行義が読んでいた。

 次なる敵として最適なのは、もちろん東京を押える馬名氏だからだ。

 

 馬名氏と田村氏の密使が全国を飛び交い、1576年までに大東島の主要領主は2大勢力に取り込まれた。

 

 これ以後、大東の二つの勢力はそれぞれの主要地域から単に「北軍」、「南軍」と呼ばれるようになる。

 


 照神道と主神道は、それぞれ馬名氏と田村氏の支援を受けるようになった。

 両宗派がつく2大勢力のうち、勝った方が新しい大東国の国教となる約束を、それぞれのパトロンと交わしていた。


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