002 ウェルカム、ゴルディロックス・ゾーン(1)
■大東島 基礎データ
●MAP 01海を仮想想定上で取り除いた、大東島及び西日本列島及びその周辺部の衛星画像
◆地理
南北2000km(最大) 、東西500km(最大) 、北は北緯49度から南は北緯30度まで広がっている。
一見二つの島に見えるが一つの島で、南北に細長い。
面積は約69万平方キロメートル(※島の面積としてはボルネオ島に次ぎ世界第4位)。
中央部が地峡でつながった大小2つの陸塊は、北の大きい方を新大東州、南の小さい方を旧大東州と呼ぶ。
面積は新大東州が約46万平方km、旧大東州が約23万平方kmである。
(※合わせて日本の本州のほぼ三倍の大きさ。)
地形の変動が起こらず長期の浸食を受け続けたことから、本州とは異なり利用できる平野(+台地)が面積の9割近くを占める。
急峻な山地が非常に少ないことから、河川の数と流量は全般に少なく流れは緩やかである。
現在は、島内最高峰でも2000メートルに満たない。1000メートルを超える山脈でも斜面は非常に緩やかで、最高峰が500メートル程度の標高の山だと感覚的には「大きな丘」程度となる。
一方で、巨大な陸塊のまま大東洋を押し渡った影響で、海岸部の地形は砂浜や低地よりも絶壁状で海岸線になる地形が多い。
平坦な陸が終わるとすぐに20~100メートル程度の落差がある巨大な「壁」となり、小さな砂浜などの先にそのまま海に出る、というのが大東での一般的な海岸線の地形だった。
国土の大半を占める平地も、海抜100メートル程度が一般的だ。
氷河期が終わって温暖化が進んだ時期も、平野部が海水面の下になることもなかった。2011年の東日本海大地震の時には、津波の多くは大東島の巨大な「壁」に当たっただけで済むという効果も発生している。
例外は最後の氷河期が終わって以後発達した河川の河口部の沖積平野と一部の海岸線だけになる。このため、天然の良港となる場所は限られている。
現在、北極プレート下に沈み込みつつある太平洋プレート上にあるため、大東島西部ではときおり地震が見られるが、西日本列島の本州近辺に比べると遥かに少なく安定している。地形にも断層といったものは皆無だ。
しかし時折プレート境界に近い場所では、大規模な地震が発生する場合がある。
(プレートがずれた後の揺り返しによる地震が主となる。)
降水量が西日本より少ないため、西日本列島より森林被覆率は低い。
新大東州北部の森林資源は現在も豊かではあるが、旧大東島の森林は17世紀以降大規模な破壊に見舞われ、現在でも森林被覆率は30%程度にしか回復していない。
(原生林は、新大東州北部の一部にしか残っていない。)
●MAP 02 (スケール、名称など)
◆歴史 (人類が定住するまで)
1億6000万年前にローラシア大陸西端から分離した陸塊が大東島である。
同島東岸各所に正断層が見られるため、島南部から引き剥がされる様にローラシア大陸から分離していったと推測される。
当初太平洋プレート上を西北西に移動していた古大東島は、インドプレートがユーラシアプレートにぶつかった約4000万年前に真西に移動方向を変え、日本海溝付近まで移動した。
およそ1000万年後には大東島は北極プレートに飲み込まれ、日本列島に付加体となって一体化するものと考えられている。
ちなみに、ローラシア大陸から分離する時に、当時ローラシアに住んでいた生き物、その祖先の多くも遠大な旅の道連れにしたため、遺伝的にユーラシアよりもそちらの遺伝子の系譜を有する生物がある。
特に植物において顕著。
一部は、どういう経緯かいまだ解明されていないがほ乳類にまで及んでいる。
西日本列島を含めた日本を形成する島々のなかでは、圧倒的に古くから存在する島である。
古大東島は1億年前には3000メートル級の山々が存在したと考えられているが、太平洋プレートを西に移動するうちに侵食によりブリテン島と同様の大規模な平野が形成された。
なお大東島は、本来は人類が最も遅く到達した地域の一つになる。人類全体の足跡を辿れば、本来はそうなる筈だった。
だが、新大東州北部に10世紀頃まで生存していたとみられる(20世紀初頭の目撃証言もある)「隠鼠人」は約10万年前に渡来したとみられている。
しかし、正確な年代や渡来方法は解明されていない。
最新の遺伝子解析によると、このヒト科ヒト属のクロマニョン人の親戚は約7万5000年前のスマトラ島トバ火山噴火後の人類の減少期にボトルネック効果により大きくその姿態を変えた現生人類の子孫であると見られている。
なお、氷河期によっては、大陸と大東島の間は冬の間は流氷により完全凍結する場合があり、この間移住してきたという説が有力となっている。
しかしこの時期、対岸となるユーラシア大陸北東部に人類が到達した形跡が存在しないため、「隠鼠人」は人類学上での謎の一つとされている。加えて、人類としては特徴のある外見のため、オカルトの題材とされる事もある。
次に、大東島に現生人類が住み着いたのは、1万5000年前に北東アジア方面から本州の東北地方に旧石器時代人が定着したのと同時期に、大東島に縄文人と同一のルーツを持つ集団が移住したと考えられている。
そして本来の人類の足跡から考えれば、彼らが最初に大東島に到達した人類に当たる。
正確な年代はB.C.13000年~12000年ごろだと推定される。 まだ海を越える船を人類が発明していない時代のため、最後の氷河期に冬季に固く凍結した北の海を越えてきたと考えられている。
以後、全島に広がり、約1万年の間は狩猟採集を基盤とした縄文文化が継続した。
3000年前(紀元前1000年)、マレーシアやインドネシア、フィリピンからマレー・ポリネシア系の遺伝子を持つ主にチャモロ人(茶茂呂人)が移住してくる。
茶茂呂人は大東島南部から北上し、同島中央部で大規模な戦闘がみられた。
そして茶茂呂人により台湾島発祥と考えられているアウトリガー・カヌーが伝えられ、これが広まって日本列島と大東島の交流と移民が開始されたと考えられている。
2500年前、縄文海進期末期に本州から弥生人が訪れるようになると、既に茶茂呂人に圧迫されていた北方系縄文人は本州系弥生人の文化と積極的に同化し、稲作がはじまった。 これが「古大東人」となる。
その後、西日本列島の有守島辺りから「アイヌ人」がたどり着き、新大東州の西部に住むようになる。