102 ファイト、国内国家たち(2)
◆◆◆分岐(1)◆◆◆
※ここから、「世界進出ルート」、「ノーマル ルート」または「引きこもりルート」に分岐していきます。
■「魔王」信長の出現
あらゆる戦国大名の中で、最も有名で破天荒なのは(議論は果てないだろうが)織田信長(1534-1616)だろう。
宗教勢力に厳しく当たったり多くの同族殺しをするなど、当時から「第六天魔王」と言われるが、戦争での天才性は疑うべくもない。
桶狭間の戦いでは「少数で多数を撃破する」という禁じ手を弄して完勝している。
言うまでもないが、奇策は敗北に至る確率が高いため、”常勝の”と修飾詞が飾られるような軍事的天才が常用することはない。
1570年代の信長包囲網結成時には、「二方面作戦を避けよ」の鉄則に背きながらも敵を各個撃破していった。
信長は少数の例外を除いて、常に「物量戦」のドクトリンを愛用していたし、そもそも戦略的に勝利できる環境を創りだす能力が秀でていた。
戦いの勝敗を開戦前に決するのだ。
常にライバルをリードし、敵を振り回す。
壮麗な”見せる”城、安土城。
鉄甲軍船。
どれも信長が真っ先に考えたことではないだろうが、他人のアイデアを過去に例のない規模で本当に実行してしまうのが彼だった。
1568年、上洛直後に大津・堺・山崎など商業都市を直轄地としたり、楽市楽座制を敷いたのも経済でリードするため。
新時代の軍隊……兵農分離、鉄砲の量産と弾薬の補充、すべて経済力が肝要だった。
金ヶ崎の戦いや三方ヶ原の戦いでは織田軍が敗北するも、「戦略的不利は戦術的勝利の積み重ねで克服できない」という原則に従えば、長期戦が信長包囲網に不利なのは明らかだ。
国力に勝る織田側は姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破り、武田氏も信玄亡き後に長篠の戦いで破った。
足利義昭を伴っての京への上洛は、各地の大戦国大名を刺激した。
残り時間が乏しくなりつつあることが、誰の目にも明らかになったのだ。
小戦国大名や国人・豪族の統合は更に激しさを増した。
■天下統一
織田氏は国内国家として日本の過半を占めても尚、信長を頂点とする中央集権国家建設に向け武力による統一を推進していた。
もし、信長が単なる征夷大将軍になりたいのなら、1570年代に充分に可能だった。
大東が既に実現しているように、一重権力体制の社会を建設して自らが皇帝の座につく。
「日本国」という小さい殻を守るための天皇と朝廷は歴史的役割を終えた。
そのように考えていたのかもしれない。
1582年は織田氏にとって輝かしい年となった。
かつては強大だった武田氏は勝頼の時代になってから斜陽化が進み、この年の3月に滅亡した。
6月には、明智光秀の軍勢と時を同じくして、池田恒興らの近畿勢(直衛軍)を合わせた約4万と共に山陽道を西進して羽柴秀吉が率いる3万と合流した。
この時点で、毛利方は織田軍の援軍接近の報により敗北を受け入れ5ヶ国を割譲していた。
この時の講和は羽柴秀吉が半ば独自に進めていたため、秀吉自身は信長から表向き激しい叱責を一度受けているが、それ以上の咎めは無かったので、この講和案が信長の求めていた状況に近い事を示していた。
そうした毛利との講和条件の一つに、毛利水軍による瀬戸内航行の安全保障があった。
織田氏は瀬戸内海を内水化し、四国攻略を確実なものにしたのだ。
当然先鋒は、降軍である毛利が行い、兵站面の負担も毛利が賄った。
同6月、北陸の上杉氏(上杉景勝)は、春日山城からの救援も間に合わず柴田勝家率いる4万の軍勢に越中の魚津城を陥とされた。
更に越後には、武田氏を討伐した森長可率いる織田軍が侵入していた。
上杉家臣新発田重家の寝返りもあり、9月には既に春日山城で四面楚歌状態の上杉は降伏を決意した。
和議では信濃の一部を含む越中の割譲を受け入れることになる。
そのすぐ後に上杉氏は佐渡に転封、越後は新発田氏に与えられたが、同時点では佐渡を上杉氏は支配していなかった。
非常に過酷な仕置き(戦後処理)である。
それでも滅亡させなかっただけ穏便ともいえるが、これは関東管領の上杉という名を政治的に残す意義があったからだと言える。
同年7月、織田信孝(副将:丹羽長秀)率いる四国攻略軍1万5000が阿波の三好康長と合流、長宗我部元親討伐を開始。
毛利水軍と織田水軍に守られ、北からも羽柴軍の宇喜田勢を先頭に織田軍が上陸、長宗我部方の城を相次いで攻略した。
河野通直は上陸した織田軍の先導を申し出たが、信長は伊予を召し上げると通告した。
河野軍は湯築城にて防戦するも、7月中に開城した。
8月、長宗我部軍は阿波海部の戦いで信孝軍と対戦し勝利するも、北からは土佐に織田軍が侵入しつつあり、野戦で対戦して織田軍に敗北し長宗我部無敗神話を汚す前に長宗我部元親は降伏した。
9月、信長は淡路に上陸し、四国仕置き。
その間8月に、石山本願寺跡地にて石山城の建設がはじまる。
次の自らの政庁とするべく、実用性と見た目の双方を重視した巨大な規模だった。
12月、信長の圧力により、毛利氏が豊前を織田氏に割譲。
毛利氏は来るべき九州征伐では軍船の提供だけが求められた。
これは信長流の毛利家への優しさであった。
1583年
4月、織田軍による紀州攻め。
同月、降伏した長宗我部軍を先頭に九州攻略戦開始。
同月、織田信忠率いる北条攻略軍が木曾軍を先頭に上野から武蔵に侵攻。
同時に、徳川家康率いる軍勢が東海道を小田原城に向け進撃。
九州には、肥後の隈部氏、肥前の有馬氏、筑後の筑紫氏などが存続していた。
島津氏は有馬氏と結んで竜造寺氏と対立しており、薩摩・大隅・日向・肥後の一部を領有していた。
竜造寺氏は肥前の大半、筑前や筑後、肥後の一部を領有していた。
織田氏による九州征伐に先立ち、信長の外交が展開される。
筑前・豊後を支配する大友氏は筑前を放棄することで存続を認められるも、対島津戦の先頭に立たされた。
秋月氏と筑紫氏は転封となった。
島津・有馬・竜造寺氏以外は織田勢に恭順し、軍役を課せられた。
5月、竜造寺軍が久保田の戦いで大敗。
7月、白川の戦いで島津・有馬軍大敗。
8月、八代の戦いで島津軍敗北。
島津降伏。
肥前・肥後は織田氏直轄となり、竜造寺氏と有馬氏は滅亡した。
島津は辛うじて(誰も欲しがらない)薩摩を安堵された。
九州の半分は織田氏家臣に再分配され、在地の織田氏に協力した戦国大名には一切恩賞はなかった。
旧来の所領を安堵した事こそが、事実上の恩賞だったからだ。
なお、竜造寺氏、有馬氏滅亡の過程で、一部キリスト教徒が弾圧されたと言われているが、これは単に両氏に味方した武士、民衆の抵抗を排除したに過ぎない。
だがこれ以後、九州でのキリスト教伝搬が大きく退勢したのも事実だった。
一方、北条攻略軍による北関東攻めは順調に推移していた。
これは基本的に、関東がいまだ西日本列島での「田舎」だったからだ。
下野の宇都宮氏・小山氏、常陸の佐竹氏、下総の結城氏、上総の里見氏など織田側に付いた諸将軍が、北条方の城を相次いで攻略した。
主力を率いた織田信忠と滝川一益は軍勢を二分し、武蔵の過半を6月までに制圧した。
徳川氏は小田原攻略を任じられていたが、織田軍が中部関東で快進撃を続けるのを指をくわえてみているしかなかった。
小田原城が堅城であることを北条軍はよく知っており、徳川軍が得意な野戦には絶対に手を出さなかった。
加えて言えば、小田原に至るまでの箱根を攻めるも難しく、所領から近いという表向きの理由をよそに、徳川氏は最も貧乏くじを引かされていた。
9月、信長直率軍が沼津に到着し徳川軍に合流、このとき織田信長は仕事が遅いと徳川家康を痛烈に批判した。
もはや、表向きは対等な関係であるはずの同盟国の指導者に敬意を表する必要性がなくなった証だった。
北条攻略に乗じて、厄介なお荷物と化した徳川氏を滅ぼす、もしくは勢力を減退させるための伏線を張るのが、信長が直接戦場にまで出陣した理由……信長の周りの誰もがそう思った。
同月、ついに北条氏の野戦軍は壊滅し、小田原城以外は全て織田勢に制圧された。
織田勢の総兵力21万。
田畑は刈り入れ時を迎え、食料は充分にあった。
一方、北条勢は小田原城内の大筒用火薬を全て使い切っており、もはや織田勢の一貫大筒が石垣山から打ち込まれるのに耐えるばかりだった(※ほぼ当時の大筒の最大射程での射撃だった)。
城内には籠城した6万もの北条軍が待機していたが、故郷の惨状が尾ひれ付きで城内に流布しており士気は低下していた。
1584年
1月、北条氏降伏。
北条氏傍流が相模一国を与えられた。
武蔵は織田氏直轄となり、当面は各地に代官が置かれた。
織田側についた宇都宮氏・小山氏、常陸の佐竹氏、下総の結城氏、上総の里見氏などに一切恩賞はなかった。
こちらも状況は九州と同じだった。
陸奥では伊達政宗が家督を継いで領土拡張に着手し、戦国時代にありながら血縁で固まっていたが故に千日手状態になっていた陸奥に大規模な戦乱が巻き起こっていた。
政宗は政戦両面で目覚しい成果を挙げつつあった。
北の離島である有守(島)では、渡島氏が札幌を中心に勢力を拡大していたが、未だ本格的な戦乱は起きていなかった。
5月、織田氏の居城が石山城に移転。
”覇府”と別名で呼ばれるようになる。
まだ基礎工事の段階で本丸は建築中だったが、かつての石山本願寺には政務所が真っ先に建設されていた。
同月、信長は”日本帝国”の成立と、自身の”日本皇帝”への即位を宣言する。
過去2つの幕府、鎌倉及び室町幕府は朝廷から征夷大将軍の称号を頂いて権威付けを図ったが、信長は自らの権威の拠り所を自らに求めたのだ。
”王道”を歩む天皇家及び付随する朝廷勢力が、武家政権の”覇道”の権威付けになるという考えそのものがおかしいと信長は考えた。
そして、自らの政権が覇道を歩むならば、明帝国・ティムール帝国・オスマン帝国・神聖ローマ帝国のように、”王国”に優越する政体としての”帝国”という称号を得るべきだった。
以後、”朝廷”とは独立して、日本の諸国主の主、”織田帝家”が皇帝の称号を得た。
また、東アジアにおいて”王”は中華帝国の冊封国を意味するため、信長は朝廷を含め、現存する大名家を”王”ではなく”国主”と呼称する内容の帝勅を下した。
”国主”の称号を得られたのは帝家に任じられた一国以上の所領を支配する領域国家40国、そして天皇家であった。
一国を複数の領域国家が分割する場合は”準国主”、帝国政府の地方行政機関や官職に与えられる”城主”の称号も創設された。
一方、律令制における官位は消滅した。
1584年、織田氏、というより織田信長という一個人による日本での絶対帝政時代の幕開けである。
また織田信長による新国家成立宣言は、西日本列島に閉じこもっていた日本という世界の、世界に向けての拡張宣言でもあった。