016 ゲットピース トゥ リーヴ、ND WAR 2nd(4)
今回の戦争も、日本による大東の侵略という形で推移した。
だがこの時の戦争は、7世紀に行われた最初の日本人による征服戦争ではなく、国家対国家の戦争という点で大きな違いがあった。
そして戦争の発端は、日本政府(室町幕府)の安易な国内向けのガス抜き政策と、海外貿易という商業関係だった。
■「二十年戦争」前半(前哨戦)
明帝国が建国された頃、明帝国が表向きは海禁(鎖国)していた。このため、中華域内にあって別の国という扱いになる琉球が、俄に中継貿易の拠点として注目を集めるようになる。
日本=琉球間の中継貿易も盛んになったが、これは日本にとっても対明朝貢貿易に柵封体系に入らず参加するための方策であった。
対する大東は、貿易の規模もまだ限定的だった事もあって、平安時代の日本のように直接的な対明貿易を推進した。
日本・大東と朝鮮の貿易は、日本の塩浦・富山浦・乃而浦に限定されたが対等だった。
だが日本にとっては、「逆賊」や「蛮族」に過ぎない大東に、自分たちの貿易シェアを奪われているという負の感情があった。
これは容易に大東への攻撃へと傾き、いつしか室町幕府の政策にまでなってしまう。
そして日本の船は、明と密貿易と掠奪外交を行う「前期和冦」を行うよりも大東への攻撃に傾き、室町幕府は日本全体の水軍、つまり海軍力の増強に力を入れた。
目的は言うまでもなく、「逆賊」の本拠となる大東へと駒を進めるためだ。
そして一定程度の準備が整ったと見た室町幕府は、正式に大東への攻撃を命令する。
・1372年
「二十年戦争」(第二次日本・大東戦争)勃発。
日本の室町幕府と商人達にとっての私掠活動は、大東と明の貿易を遮断する目的があった。
海での優位は常に日本水軍(大半は海賊や漁民に属する)が優勢で、大東の海上貿易は大きな打撃を受けた。
日本への対向が難しい大東国は、直接貿易相手国でありアジアの世界帝国でもあった明帝国に仲裁を求めた。
そして当時まだ「前期和冦」が東シナ海で横行していた事も重なって、明帝国は日本を自らの「海禁政策」つまり鎖国の対象として、国家間の貿易から閉め出した。
この結果、日本と大陸交易は大打撃を受けることになる。
さらに日本国内では、博多・堺の国際貿易が衰微し、代わりに博多・堺から琉球へ、もしくは伊勢の桑名や常陸の那珂湊、陸奥の塩釜から大東へ向かう中継貿易(偽装貿易)が盛んになった。
室町幕府は各地の守護代による大東との私貿易を禁じたが、効果は薄かった。
関東地方では、幕府に反抗する鎌倉府を策源地とした反乱の火種は常に燻っていたためでもある。
同年、有力御家人や足利氏の一門、有力守護大名や地方の国人などから選ばれる幕府直属の武官官僚(奉公衆)が創設される。
これにより、幕府は直接指揮できる武力をもったが、その経費を巡る各地の守護大名との対立は深かった。
そうした中にあっても、国内のガス抜きとしての側面を持つ大東への侵攻準備は進められた。
1374年までの間に、旧大東島南端の茶茂呂氏(と茶茂呂人の多く)を寝返らせ、日本軍が旧大東島に上陸していた。
茶茂呂人は、人種としての発祥が東南アジアでさらに大東の南方に住み続けた為、北東アジア系の人種よりも肌の色が浅黒く、顔立ちも若干違う。
このため大東で人種差別を受け、中央政府からも常に虐げられていた。
このため日本側の甘言に簡単に乗せられたとされている。
実際は、大東での自らの権限拡大のため、日本を利用しようとしたのだった。
しかし大東側も、日本の侵略を察知して様々な手を講じた。
・1375年
「波多野反乱」勃発。
相模国波多野氏を中心とした大規模な反乱が起きる。
大東国の支援を受けた波多野氏は、鎌倉府の黙認のもと奉公衆への兵糧負担を拒否、更に伊豆の国府に波多野反乱軍が進軍した。
駿河湾沿いの江尻・沼津には、数年前から準備されていた大東侵攻のために1000隻の軍船と2万の兵士(武士と郎党など)が待機していた。
三宅島・八丈島には兵糧・替えの帆布・麻縄、予備の漕ぎ手、島の物資集積所から沖の船舶に物資を配達するための小舟、その漕ぎ手などが集積されていた。
しかし、2万の兵の一部が大東攻略軍が国府防衛に転用されたため大東島上陸の予定が狂い、この年の大東上陸は不可能になった。
・1377年
大東国に逃れていた波多野氏一族の一部が、有守州東部のトカチに上陸。北有守に残存していた蝦夷の部族に食糧・弓矢などを供与し、宇曽利氏を攻撃するよう要請。
宇曽利氏は幕府に支払うべき国役の大部分を横領・着服していたため、莫大な富を蓄えていた。
波多野軍は有守城を攻略して多量の金塊を含む財宝を獲得し、その一部を地元の国人に分配し懐柔した。
この戦術は功を奏し、国人の一部が寝返った。
財宝の件は時の将軍足利義満のもとに届けられ、逃げのびた宇曽利氏は幕府の不興を買うことになった。
このように、決して一枚岩とはいえない室町幕府の統治体制に干渉することで、大東島は2度の日本軍の上陸の企図を粉砕した。
しかし一方では、室町幕府による大東侵攻の準備は進められた。
・1378年
大東でのマイノリティーである茶茂呂が、大東国を裏切る。
形だけは日本の侵略を受けた形だったが、事実上無抵抗で日本軍の大東上陸を許す。
茶茂呂に日本から2万の軍勢が到着。
日本軍の大東侵攻が本格化する。
同年、室町幕府は「花の御所」に移転。
室町幕府と呼ばれるようになる。
そしてこの御所の中に「征東所」と呼ばれる一種の司令部が設置され、室町幕府による大東侵攻が一気に本格化する。
改めて日本各地で軍や武器を運搬する船が建造される。
■「二十年戦争」後半(大東本土決戦)
侵略者と 闘うよ
某たちの場所 この手でつかむ迄
この戦の中に 平和な生を得るが故
只素直に生くるために♪
大東歌人古室哲弥の作とされる。
彼が大応五萬両疑獄事件で刑部省に捕縛(捕まる)まで、大東衆の間では上記の歌が流行ったとの説もあるが、恐らくは当時の時勢が作り出したただの風聞だろう。
徴兵によって境東府に集まっていた武士の中には、家門の家長から命じられて仕方なく戦場に向かったはいいが本当は戦場が嫌で嫌で仕方なく、色恋歌曲に傾いていた軟弱な者もいた。
そのような永続性のある例外的存在がいたことは、大東社会が正常だったことの証だろう。
いずれにせよ熱狂があった事、日本の侵略が多くの大東人の若者に命を賭けさせた事は事実だった。
この戦いは、大東人にとって間違いなく「祖国防衛戦争」だった。
しかし大東側の迎撃準備は、広大すぎる土地が邪魔をしてあまり進んでいなかった。
このため、当初においては個々の武士の働きによるところが大きかった。
そして大東武士の戦い方といえば、騎馬を用いた戦闘だった。
このため大東武士の事を、「騎武者」、「騎侍」と日本の武士と分けて呼ぶ事もある。
中には戦虎(剣歯猫)を連れた「侍虎」もいた。
そしてそうした武士達は、騎馬遊撃隊を編成して日本人達にとって慣れない戦いを強いた。
開拓が進んだとはいえ未だ黒々とした原生林が覆う大東島には、地の利に明るい者が隠れる場所がたくさんあった。
平坦な地形が続くため、日本列島から来た人々にとっては似たような景色ばかりが広がっていた。
そうした土地のそこかしこに、日本列島の越後地方に見られるような豪農(何が入ってるのかもはや誰にも分からない蔵がたくさんあるような、小領主のごとき存在。実際、地元武士などの少領主も多かった)が旧大東州にも数多存在していた。
当時大東国に雨後の筍のように誕生していた騎馬遊撃隊に、必要な飼葉や馬、隠れ家を提供したのはそのような森の合間にある大東各地の豪農だった。
大東の豪農は石敷きの道路や水路、ため池を率先して作ることで社会に富を還元する、一つの良心を持っていた。
意識的なものだっただろうが、豪農が善行を働く事は、大東武士たちにも利他行動や率先垂範を伴う規律を自然に身につけさせていた(勿論例外はあるが)。
当時の人口と農耕馬の密度から、1380年代の騎馬遊撃隊は総数で5万騎に達したと見られる。
この数字は、大東国が軍隊として組織可能な数量の5倍だった。
騎兵はその速度を生かして高台から日本軍に弓を射かけ、反撃を受けると逃げ、騎兵仲間が十分揃ったならば日本軍に突撃を仕掛けた。
大東騎兵はこうした遊撃戦をアイヌ語で「狩り」を意味する「ホロ」と呼んだ。
大東騎兵は、まだ小型種が多かったものの新大東島の気候風土が馬の飼育に合っていたため、日本軍よりも騎兵の数量は大きかった。
この時代の兵団の基本単位は後世でいうところの”大隊”単位となる。
騎兵1個大隊は200人、騎馬200騎弱、より成った。
・1380年
日本軍が2万が、大東島南端の茶茂呂地方から黒石山脈を越える。
大東を裏切った形の茶茂呂は、少なくとも戦闘には参加せず。
大東側にこれに対向できるだけの兵力がないため、散発的な遅滞防御戦、遊撃戦を展開しつつ大坂まで後退。
日本軍は大坂を包囲するが、大陸にあるような巨大な城塞都市となっていた大坂城に対して兵力が足りなかった事と海上封鎖が甘かった事がかさなり、大坂に籠もった大東側は持ちこたえた。
すぐに日本軍は転戦し、広大な和良平野を北進。
地元の大東地爵との低強度の小競り合いが無数に発生。
ここで大東での騎兵の有用性を認め、現地徴用(強奪)の形で騎馬の数を増やそうとする。
日本軍が動き始めた時点で、大東皇室は都を北東の豊海に移し、臨時首都”東京”を置いた。
このため、首都大坂陥落による短期決戦を目指していた日本側の意図は全く外れてしまう。
・1381年
旧大東島に「茶茂呂国」建国。
大東の正統な政府を名乗り、その後すぐに日本列島の京にいる天皇に対して臣従の姿勢を示す。
これに大東人は激怒。
各地で徹底抗戦の雰囲気が醸成されるようになる。
東海(東日本海)において相次ぐ海戦。
同年、大東水軍は新大東島沿岸の警戒を強化、遠距離航海で疲れた日本水軍の軍船の多くを屠った。
日本軍の騎兵は蒙古襲来以後、大陸種の馬の飼育や馬の繁殖奨励によって大幅に強化されていた。
日本軍は和良湖低地帯の水上都市要塞、矢納倉城を攻める。
片脇勲爵家が300年にわたって、日本の利根川・多摩川・入間川が注ぐ関東の香取湾周辺の低湿帯を数倍上回る広大な和良低湿帯に水路を掘り、干拓してきた。
防御力は旧大東州随一と言われる。
日本軍の侵攻に際しては、水門を解放して和良低湿帯を水に飲み込ませる力技で対抗した。
(しかし、のちに過剰防衛だったことがわかり、片脇家は復興のために多大な努力を傾けなければならず、自分の首を絞めることになる)。
日本軍は、いまだ大きな成果を得ることができないが、略奪的な補給を続けるために半ば惰性で進軍を再開。




