015 ゲットピース トゥ リーヴ、ND WAR 2nd(3)
■大東国の国力
表.1 西暦1400年の日本及び大東の人口規模
面積(万km2) 人口密度(人/km2) 人口
西日本列島 36 28 1000万
新大東島 46 10 460万
旧大東島 23 35 800万
日本(西日本列島)は、荘園制度移行後の人口停滞期から抜け出していない。
日本の国土面積は、有守州(蝦夷島)を含む当時の主要4島のもの。
日本の国土の7割が山岳地帯のため、平野部に限っての人口密度は約80(人/km2)と推定される。
しかも当時は、有守州の開拓はあまり進んでいなかった。
大東島の方は旧大東州に限ってみると、古くから日本人の移住が見られたため農地の開発も進んでいた。人口密度は、日本の1.25倍程度まで増加している。
しかし、大東島は国土の大部分が平野であることから、実質的な人口密度は日本の平野部の人口密度と比較するのが妥当だろう。
その場合、旧大東島の人口密度は日本の2分の1以下となる。
1400年の時点では大東国の総人口は1260万人前後に達し
、日本のそれを上回っている。
人口扶養能力が高い平野ばかりの地形のため、今後東日本列島の人口は西日本のそれを下回ることはなかった。
■動物兵器
人類にとっての一番の動物兵器とは「馬」だった。
兵器という言葉を聞いて意外に感じられる方もいるかもしれないが、「馬」こそが近代に入るまでの最良の移動手段であり機動兵器だったのだ。
だが馬は、重量で比べると人の10倍も食べる。さらに水も多く必要となるので、簡単に運用できる兵器ではなかった。
当時、大東馬は日本馬よりも大柄で飼料がより多く必要だった。
馬50頭は、1日に2km四方(4平方キロ)の天然飼葉を必要とした。
牧場ならばもっと狭くても同数の馬を養えるだろう。
また、天然飼葉は土地を休ませれば数週間後には再度利用できた。
広大な牧場が多くある大東島だから、多くの馬を養うことができた。
日本においては、未だに騎兵は偵察や連絡用部隊が専らの用途だったのだが、大東国の武士たちは随分と積極的に騎兵を運用している。
騎兵の発達には、大東島で10世紀頃から徐々に発達してきた新農法についての説明をしなくてはならない。
新大東州の気候風土は、夏雨型・比較的寒冷な北ヨーロッパ型に近い。
低温と日照時間の短さのために土地の生産力は低く、山地が少ないために降水が積雪の形で保持されることもないため水資源も偏在している。
よって、水不足に比較的強い麦類の生産が行われてきた。
似たような気候の中世北ヨーロッパでは、三圃制と呼ばれる農業方式が発達していた。
冬穀(小麦など)・夏穀(大麦・ライ麦など)・休耕地(放牧地)と、ローテーションを組んで土地を利用した。
休耕地では家畜が放牧され、その排泄物が肥料になった。
また北ヨーロッパは最後の氷河期が終わるときに、氷河が北に去るときに土をまるごと持ち去った為、土地が痩せていた。
この事も三圃式農業が行われる理由となっていた。
大東国でも、新大東島の一部で三圃制に近い農法の痕跡があるが、本格的に土地を酷使するようになるには、あと数世紀を待つ必要がある。
大東島はまだ利用可能な土地に対して人口が少なく、農業するには効率の悪い土地を放牧専用の土地にしてもまだまだお釣りがくるほど土地があった。
加えて大東島の土は比較的肥沃なため、一つの土地で毎年作物を育てても特に地力(土地の滋養分)が衰える事もなかった。
家畜の飼育の方は、古くは隠鼠人のトナカイ放牧にはじまる歴史がある。このため、新大東島での生活様式を模索してきた古大東人も、放牧を生活に取り入れるのは容易だったと考えられている。
むしろ最初に放牧があり、気候の温暖化に伴い、その合間に農作物の栽培がはじまったのではないかとの説もある。
そして麦の栽培すら難しい北の大地では、草さえあれば何とかなる牧畜は魅力的な農業だった。
本格的な牧場の造営は、年貢米の代わりに牛馬の納入の記録がある11世紀頃にはじまったのではないかと推定されている。
農業に適さない土地を中心に牧場が建設され、唐の時代に古大東人に伝わった騎馬民族系乳製品の酥、酪、醍醐(原始的なヨーグルトとバター)が安定的に生産されるようになった。
さらに数世紀後には、恐らく独自の発展によって、より保存に適したチーズの生産も開始された。
各種乳製品とトナカイなどの各種保存肉(薫製または塩漬け)は農作物とバーター(物々交換)で取引され、大東人の食生活を変えていった。
トナカイ放牧は最も北東地域でのみ存続していた。
そうした食生活のため、旧大東島は他の地域の日本人と比べると背が高く体格が良い。
馬以外では、剣歯猫が牧畜の発達とともに頭数を増やしてきた。牧畜猫として、ヨーロッパにおける牧羊犬のように活用されてきたためだ。
もっとも、基本的に猫科のため、時には家畜を食べてしまうこともあった。
しかし集団での活動も行うので、古い時代から戦時には「攻撃兵器」としての活用も見られた。
14世紀には犂(牛馬に引かせる耕作道具)が元から日本に伝わり、日本では定着せずに大東国に伝わった。
この違いは、大東島が平坦で各農地も広い区割りがされているため、犂の使用に適していたためだった。
15世紀には、日本から大東に輸入された犂はけっきょくは「唐犂」と呼ばれ、鉄製農具として鉄犂が利用されている。
これは1730年にイギリスで開発されたロザラム犂に酷似している。
そして犂用の農耕馬として、荷駄用の駄馬として、乳製品の供給源として、軍馬として馬が活用される事になった。
軍馬としての需要は戦時以外にはさほどではなかったが、潜在的な馬の供給能力は非常に大きかった。
加えて大東島では、日本列島と違って馬車の利用が一般的だった。
理由は簡単で、土地が広くどこまでも平坦だったからだ。
そして馬車の利用も、馬が広く使われる大きな要因となっている。
そして大東での馬は様々な用途で使われるため、より目的に合致した品種の改良がほぼ独自で開始されるようになる。
大東の馬は、北東アジア特有の足と首の短い、一見小柄な馬である。
そして島での暮らしがさらに体格を小さくさせていたため、大東馬は日本馬ほどではないがモンゴル馬よりも小さかった。
しかし小さいからと言っても、力が弱いわけではない。
足が短いので走る速度はサラブレッドやアラブ種に比べるべくもなかったが、これらの馬と体重や体格は同程度あった。
馬力も相応にあり、軍用、産業用としては十分な力を持っていた。
それを大東人達は、優良な品種同士を掛け合わせて、様々な亜種と呼べる種類を作り出した。
中には「重種」とすら呼べそうな大型馬も生まれたほどだ。普通の馬は体重500キログラム程度だが、大東馬の中には800キログラム程の種類もいた。
大東人にとっての馬とは、それだけの努力を傾ける価値のある動物、家畜だったのだ。
二大家畜である剣歯猫と馬は、戦虎小屋と馬小屋として併設して飼われる例がしばしば見受けられた。
剣歯猫は価値ある換金動物だったので、人の居住スペースと重複していることも間々あることだった。
そのためか大東馬は、戦虎の鳴き声にも頓着しないという性質を獲得している。
大東馬自体が、性格的に安定した(悪く言うと頭が悪い)馬であることも寄与しているだろう。
こうした要因も、剣歯猫の家畜化を助長した。
そして剣歯猫は、家畜の中でも軍用家畜として重宝された。
見た目から「動物兵器」の代名詞とされる戦虎こと剣歯猫だが、こちらも家畜として数を増やすと共に軍事組織でも集団で運用されるようになる。
数が増えた事で兵器としてのコストも低下し、供給が容易くなった為だ。
だが戦虎は、せいぜい10頭程度から編成された中隊規模の運用しかされていなかった。
また、オス同士、メス同士でしか戦わせなかった。
基本的に「陸の鯱」と言われるほど頭が良い動物だったが、剣歯猫を操る「戦虎匠」以外の人間の言うことを聞かない個体も多いため戦術的には損耗に弱かった。
よって大規模な戦闘で使われた例は戦史でも少ない。
主な使用方法は小数での奇襲、遊撃戦、戦場偵察で、それも遮蔽物の多い場所での運用が多かった。
剣歯猫の嗅覚による「捜索能力」が高く兵士も熟練者が多いので、通常は嫌われる森林での行動も日常的に実施された。
古大東人や蝦夷の隠れ里では戦虎専門の戦闘部隊もおり、特殊戦では傭兵として戦った記録は数多く残されている。
日本列島の「忍者」と並んで、時代物の映画などではお馴染みの「虎匠」がこれに当たる。
補給線の破壊活動が有効な戦術となる16世紀後半の戦国時代以降には、戦虎は遊撃隊に配属されて威力を発揮した。
特に夜間戦闘が得意な戦虎は、たった1対(1頭の剣歯猫とその戦虎匠)だけで使い手の能力次第で100人の護衛から成る輸送中隊を全滅させる事例もあった。
特定条件で非常に有効なので、近代に入っても運用されたほどだった。
だが、14世紀後半の時点では、まだ有効な戦術兵器として戦虎は見られていなかった。




