349 Start Cold_War(2)
■戦後の枠組
大西洋憲章以後、国際連盟に続く国際機関の設立に関する話し合いは、連合軍主要国の間で話し合われていた。
しかし組織を作るよりも戦争が早く終わってしまったため、まだ新たな組織の設立に至っていなかった。
ポツダム会議の時点では、いまだ後の「国連憲章」の草案すら完成しておらず、まだ話し合いはこれからという雰囲気も強かった。
会議は、アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、そして日本帝国が中心になって行われた。
日本の参加には、日支戦争や満州国問題などもあって中華民国が強く反対したし、アメリカ、ソ連も苦言を言った。
しかし、連合軍として大軍を派遣して戦った国を疎かにすることは不可能だったし、中華民国は準枢軸陣営と見られていたので発言権はほとんど無かった。
一時期中華民国は、敵国条項に含まれかけたほどだった。
このためアメリカとソ連は、世界の次の覇権をより確かなものとするため、日本を自らの側に引き入れる事を考えるようになる。
そうした情勢下で会議は進み、拒否権を持つ常任理事国の椅子には、そのまま米ソ英仏日が座った。
だが、すんなり決まった常任理事国よりも問題とされたのが、列強が有する植民地だった。
広大なアフリカ大陸など、当時の独立国は少し甘く見ても4つしかない。
アジアについても、東南アジアではタイだけだった。
イギリス、フランスなどヨーロッパ各国は、基本的に植民地の独立に反対していた。
植民地から吸い上げた富で借金を返済し、国を再建しなければならないから、各国にしてみれば死活問題だった。
それでもイギリスは、英連邦として以後各植民地に徐々に自治を与え、白人居住地域は独立させていた。
そして遂にインド帝国を解体して独立させる事になり、インド、パキスタンが新たに独立国家となる運びだった。
ヨーロッパ以外では、日本が半ば交換条件を付けて各国との交渉を実施した。
要するに、満州国を全ての意味で正式承認すれば、保護国の韓王国に独立を与えるというものだ。
これに対して欧州各国は、戦争での日本の貢献と活躍もあって今更文句を言うつもりは無かった。
敢えて言うのなら、なるべく目立たせずに朝鮮半島を独立させて欲しい、と言う程度のものだった。
これに対してアメリカは、日本が支配権を持つ他の保護国も同様にするべきだと、半ば内政干渉を行ってきた。
アメリカが言っているのは、ハワイ王国の事だった。
アメリカの思惑としては、ハワイの独立を機会に経済的進出を強めて、自らの勢力圏、出来るなら衛星国にしてしまうのが目的だった。
しかもアメリカは、今後世界を自由主義体制に本格的に移行させるので、満州国独立の代わりに日本の市場を全て解放するべきだとも迫った。
アメリカは、戦争が終わるとすぐにも日本に対する圧力を強めた格好だった。
アメリカの長期的な外交目的がアジア、特にチャイナ進出で日本が最も邪魔だったのだから、ある意味当然の外交回帰でもあった。
ソ連は、当初は日本に対して好意的だった。
満州国についても、戦争中に正式承認していた。
目的は明白で、自由主義陣営として中途半端な立ち位置の日本に自らの側に立ってもらうことで、今後のアメリカとの競争で少しでも優位に立とうという意図だ。
無論、レナ川、満州などソ連にとっての辺境地域の多くで国境を接する日本との関係を良好なものとして、自らの安全保障の拡大を図りたいという意図もあった。
だがソ連は、日本に対する甘い言葉の一方で、東トルキスタンやモンゴル方面から中華共産党への軍事支援などを行っていた。
これは日本にとって不利益だった。
しかもソ連は、朝鮮半島に対しても、共産主義活動を支援し、ソ連国内でのゲリラ訓練などまで実施していた。
ソ連の真の目的がどこにあるのかは明白すぎたが、逆に日本への脅しでもあった。
自陣営に属さなければ、共産主義を輸出し続けて混乱させるぞ、という事だ。
そして、ソ連と日本を結びつける可能性を高める事の危険性は誰もが分かっていたので、満州国承認など日本の要求と意見は概ね自由主義国家群に了承されることになる。
無論、朝鮮半島の独立との引換だった。
また日本は、自由主義陣営の一角であることを証明するため、段階的に保護国としていた朝鮮半島、ハワイへの主権返還を約束しなければならなかった。
これは、戦争中のレンドリースなどでアメリカから多くの支援を受けた事などに対する政治的譲歩であり、また多くの天然資源をアメリカ、イギリスなどからの輸入に頼っているからだった。
だが一方で、アメリカの権高な姿勢は、日本国内にアメリカへのマイナス感情を増す要因となった。
■大戦直後の日本の立ち位置
大戦が終わると、日本は再び孤立感を深めていた。
大戦中は同盟国ということで、イギリスばかりかアメリカとの関係も比較的良好だった。
少なくとも、軍人同士の関係は非常に良くなったと言われることが多い。
数々の交渉、外交で政治的な交流も進んだ。
しかし戦争が終わり講和会議が終了すると、時間と共に大戦以前の状況に少しずつ戻っていった。
近隣諸国だとソビエト連邦、中華民国との対立が再燃し始めた。関係の深まった西ヨーロッパ諸国は、距離的に遠い上に戦災復興で日本や東アジア情勢どころではなかった。
そして日本自身は、二度目の世界大戦でさらに大国となった事からくる傲慢もあって、大国的な振る舞いが増えて諸外国からひんしゅくを買うことが多くなった。
米ソに次ぐ、世界第三位の大国となっていたからだ。
また日本は、自らの安全保障政策の一環として、東アジア全体に自らの覇権を拡大する向きを再び強め、大戦前と同じようにアメリカとの関係を悪化させた。
アメリカは、日本の独自性が強い行動に対して再び悪感情を募らせていたが、日米間の不仲の隙をソ連に突かれて、日本がソ連と共闘関係を結ぶ事を強く危惧していた。
もしそうなれば、日本が持つ北太平洋、北東アジアの勢力圏が東側陣営に移り、アメリカは本土防衛を考えなくてはならなくなるからだ。
しかも日本は強大な海軍を持ち、太平洋に向けて大きく広がっているので、押し込めることが非常に難しい地理的条件にあった。
日本とソ連が組めば、アジアのほとんどが飲み込まれる可能性もあったので、危惧の大きさは尚更大きかった。
そして日本の立ち位置を危惧していたのは、西ヨーロッパ諸国も同様だった。
日本とロシアが組む事もそうだが、日本の眼前には疲弊した自分たちが有する植民地が、血の滴る肉のようにぶら下がっているに等しいと考えていたからだ。
一方では、一度総力戦を終えた以上、もう一度総力戦を行うだけの国力と気力を持っている国は無かった。
アメリカですら、例外ではなかった。
戦後になって究極の破壊兵器を手に入れたと言っても、少なくとも向こう5年、出来れば10年ほどは大規模な戦争が起きない事を祈っていた。
確かにアメリカの圧倒的な国力なら、総力を挙げれば日本を叩きつぶして滅ぼす事も可能だった。
だが、戦争の可能性が高まるだけでソ連と日本が手を結ぶ可能性が高まるし、アジア地域の不安定度はさらに増す。
そして何より、総力戦を行う時代は第二次世界大戦の終わりと共に過ぎ去っていた。
故にアメリカは、日本との関係を大戦前の状況がウソのように気を遣うようになっていた。
一方、アメリカへの対向を目指していたソビエト連邦ロシアだが、アメリカが危惧した通り第二次世界大戦の終盤頃から日本への接近を露骨に強めていた。
講和会議でも、日本に対する気持ちの悪いほどの接近を行った。
満州国を承認したのもその一例だった。
しかし日本人にとって、ロシア人と共産主義は19世紀からの敵であり邪魔者でしかなかった。
第二次世界大戦中こそ共通の敵を持っていたが、戦争が終われば根強かった不信感が再び大きく首をもたげていた。
ロシア人にとっても、日本は自らの東アジア、太平洋進出を邪魔する存在だった。
シベリア北東端部と極東共和国を奪った相手である事も、決して忘れてはいなかった。
このため日本の側からソ連への接近は、アメリカから日本に対する譲歩を引き出すために行う外交手段という向きが強かった。
そして日本の行動が分かっているソ連、アメリカ共に、自らの陣営強化と相手の足を掬うという名目で、日本の行動に付き合わざるを得なかった。
1930年代に外交を迷走させた日本は、いつ演技が真実になるかが分からないとも考えられていたからだ。
だが日本人の感情としては、赤いロシア人よりもアメリカ人との関係強化を模索していた。
ロシア人(ソ連)とは長年の対立がある上に、ソ連が中華民国内の共産党を支援して内戦を拡大させているからだ。
それに共産主義とも相容れる筈がなかった。
加えて言えば、ロシア人は国際条約をあまり守らないからだった。
日本としては満州防衛のため、そして日本自身の安全保障の為にも、ソ連に対向できるだけの力が必要だった。




