014 ゲットピース トゥ リーヴ、ND WAR 2nd(2)
■軍隊の編成
■大東軍の編成
律令時代日本の朝廷は、貴族層を国司として派遣するとともに、現地で徴兵された人員より成る軍団を国司の下に置いた。
これを軍団制といった。
後世の国民国家における徴兵制に近似している面もある。
大東軍の兵制は、平安時代の”軍団”制度を直接の祖先としている。
大東国でも11世紀頃には、のちに武士とよばれるようになる集団が形成されつつあったが、日本における武士のように政権を取るほどまでに力は持っていなかった。
大東国成立後は、再編された身分制度をもとに、国司に代わり領主に軍事力の運用権限を担わせるようになり、武士もその制度に取り込まれた。
また、貴族の子弟が武士となるのも一般的だった。
指揮制度は、同時期の日本のそれに比べ簡略かつ合理的だった。
同一単位の戦力が基本とされ、必要に応じて上位の戦力単位が編成された。
平時の軍団は各領主の下に置かれた。
標準的な1個軍団は千人編成で、大毅一名が率いた。
これを後に”大隊”と呼ぶようになる。
指揮官名称 - 単位戦力(名)
大毅 - 1000
少毅 - 200~400
校尉 - 200
旅帥 - 100
隊正 - 50
火長 - 10
伍長 - 5
人数などは違うが、近代以後の軍制での火長は”分隊”、隊正は”小隊”、旅帥と校尉が”中隊”に相当する。
これらの兵力は、動員を知らせる旅帥の伝令が来ると、大抵の場合、一つの農村からは村の武士・村長の子息が火長として徴用されて出陣した。
指揮官の大毅と少毅は爵位を有する領主層出身者で占められていたが、必ずしも将の出身地と兵の出身地は同一ではなかった。
この時代の兵団の基本単位は後世でいうところの”大隊”単位となる。
大東国の騎兵1個大隊は200人、騎馬200騎弱より成った。
歩兵1個大隊が約1000人より構成された。
日本・大東軍ともに、騎兵はロングボウ(長弓)を主用兵器とする弓騎兵が中心だった。
もちろん、大東貴族の子息は騎兵が多くなっている。
歩兵は当然ながら刀か槍が中心となった。
しかし槍が日本で普及し始めたのは14世紀に入ってからで、大東との戦争で一気に歩兵の主力武器となった。
大東の方は12世紀序盤の混乱の頃に、動員される兵士が習熟が比較的楽で扱いやすい武器として広まっている。
大東国の軍制は取捨選択を経て、16世紀にはスペインのテルシオのような強力な戦力単位に成長していく。
後に日本軍も真似することになる軍制だったが、明白な利点があってのことだ。
まず、指揮官の代替が容易なこと。
ある大毅が戦死しても、代わりの指揮官をあてがえば短期間で再利用できる。
軍団は領主の私兵ではなく、一個の戦力単位として訓練されているため、このようなことが可能だった。
欠点もある。
主従関係や私兵でないため、大規模なクーデターなどで国家転覆の危機になった場合、敵対勢力にとっても既存の政府軍を利用しやすくなるとい点だ。
もう一つは、よく領主になついた兵の士気に比べ、どうしても士気が下がる欠点がある(少なくとも歩兵部隊では)。
同じ共同体の防衛のためなら、同一地域の出身者は仲間意識と目的意識を持って戦えるだろう。
だが、大東軍はあまり知らない指揮官に率いられ、遠くの戦場まで駆り出されるのだ。
よって大東の軍制の下では、軍の人事が重要性を増した。
指導力のある指揮官が、出身地の違いを乗り越えて朝廷のために兵に戦わせなくてはならないからだ。
この必要性が、数世紀後に各種軍学校と参謀本部の創設に結びつく。
この時代においても、大坂で貴族達は様々な事を専門家から学ぶようになっていた。
■大東国中央政府が常時扶養可能な軍団
(括弧内は農閑期の最大動員兵力)
歩兵:19個大隊・約2万名(200個大隊20万名)
騎兵:4個大隊・800騎(1万騎)
この数字は、一カ所に集中できる数ではない。
大坂などの重要拠点を中心に、広大な大東各地に分散配置されている。
騎兵の場合いざ戦争となって動員を増やせば、大東国軍は1万騎を調達できるが、活動できるのは夏に限られる。
飼葉を大量に得られる季節であり、同時に農閑期でなければならない。
通常の騎兵の運用方法は、偵察と伝令以外だと30-200騎での荷駄(輸送部隊)の襲撃や小規模な敵歩兵野営地の奇襲などだった。
また、大規模な運用をする際には、騎兵による攻撃側は兵站上の問題から、常に先手を打って野戦に持ち込もうとした。
馬は大量の飼葉を消費するからだ。
しかし、貴族や武士となれば馬を持つのは当然の事であり、各貴族は自らの臣下に向けた軍事力の整備を常に心がけていた。
■日本軍の編成
大東遠征に際して室町幕府は、大東島を切り取り放題の”新恩の地”と宣伝し、西日本列島全体から兵を集めた。
いまだ「戦国時代」が到来していないため、「足軽」と呼ばれる歩兵はないので、それぞれの武士や守護が率いる一族郎党だけで、大規模な侵略部隊を編成できない為だ。
そして呼びかけに応じて、各地の浪人や食い詰めた小作農、国人の次男坊以下の武士たちも”国軍”として参加した。
守護領国制度により、鎌倉幕府時代に比べ高い独立性を確保していた領主層も応分の負担を命じられた。
関東の上杉氏・三浦氏・千葉氏・佐竹氏、東海の今川氏・斯波氏・細川氏・一色氏、四国の細川氏、対馬の宗氏、五島氏などが中心となって兵を拠出した。
大東からは遠い西国の守護が動員されたのは、船の運航を行うためだった。
奥州からは大崎氏・伊達氏・南部氏、有守州からは渡島氏・庶野氏・陸中氏などが参加したが、造船用木材の供出で兵の代わりとしたため、実際に大東島に上陸した人数は数百名と考えられている。
総兵力は、最大時で6万とみられている。
同時期のヨーロッパにおける戦争に比べ、大人数での戦闘が行われていた。
これは、ヨーロッパより日本の方が基本的に人口密度が高いためだ。
なお、この時の日本軍の動員や編成、そして遠征自体は欧州での十字軍の遠征と比較される事がある。
西の日本人にとっては領土奪回の戦いなので、幕府を教会、領主を国とすれば構図がかなり似通うためだ。
■大東島の防衛戦略
大東島の地形は、防御には向いていない。
西日本列島のような峻険な山岳がほとんどないため、日本における山城のような城は、太虎山地や黒石山地で若干数あるだけである。
日本では平城が少ないのに対し、大東国ではほとんどの城が河川に面した河川要塞として建設されている。
水濠と煉瓦を積んだ城壁から成る大東城構えは、大陸の中原で見られる城のように、赤茶けた色合いをしている。
日本と違い、大東を流れる河川は流れが緩やかで川幅も広い。
大規模な水運は昔から発達しており、水上からの補給ができる河川要塞が自然に発達してきた。
また、この特徴は攻城側にも当てはまる。
軍隊は河川が利用できる時だけ、大規模な補給を受ける可能性があった。
大東周辺の海洋において勝利し、河口を支配したならば、日本軍の補給は格段に有利になるだろう。
もし、河川の支配権がないならば、攻城側に勝ち目はあまりない。
なぜなら、当時の軍隊は全て”移動性軍隊”だったからだ。
当時の軍隊は、大量の補給品を載せた輜重隊(小荷駄隊=輸送部隊)が本隊の後に続いて進軍する、という形をとってはいなかった。
輜重隊は、あったとしても小規模か補給源が近距離にある場合だけだった。
軍隊は例外的な場合を除いて現地徴発を行い、敵地を疲弊させ祖国の負担を軽くした。
万を超える大規模な軍隊は、基本的に敵地から食料を分捕らなければ維持できなかった。
そもそも、自国の軍隊を腹いっぱい食わせられるだけの兵糧を用意し、はるばる敵国まで輸送できるだけの財政的余裕など大抵の国にはなかった。
それに輜重隊を構成する馬匹(輸送用の馬やロバ)は、飼葉を消費する上に速度も遅いから移動するうちに彼ら自身も物資を消費する。
輜重隊は自らを維持するための物資を運ぶだけの存在だと、当時の軍隊指揮官が考えたとしても無理はない。
軍隊は次から次へと田野を食いつくして移動するイナゴのような存在だった。
そもそも根拠地から伸びる補給線がないため、移動する軍隊の補給線を断つことはできなかった。
唯一可能な補給破壊活動は、敵軍が略奪する前に防衛側が地域の物資を徴発するか買取ることだった。
そうした視点から見ると、要塞の存在価値も分かってくる。
近世以前の軍隊が要塞を包囲できるのは、要塞周辺の食料が底を突くまでの間だけである。
攻城側の数が多いことは、早く略奪品を消費してくれることを意味していた。
逆に言うと、守備側は敵軍の略奪品が尽きるまで城を守れれば良いのだ。
こうした観点から、当時まだ人口密度が低く、陸稲や小麦の作付け比率も高い大東国の城壁は、町民が多く住む市街をすっぽり包む城壁都市が主流となった。
大東での城壁都市の規模は、大坂や東京で周囲10キロ近くに達するが、たいていは1キロ四方もあるかどうかだ。だが、当時の都市の規模は人口1万人もあれば十分大都市なので、これで十分だった。
また街の内部の建造物は、城壁に近いほど不燃性の高い石や焼き煉瓦など用いた建造物が多く、これらの建造物は建材の関係上で恒久的なものが多い。
このため城壁共々現在にも遺構が残されている事が多い。
また、単位面積当たり収量が多く、保存性にも優れるコメという食料が存在する東洋諸国では、同時期のヨーロッパよりも大規模な軍隊が長期にわたって攻城戦が可能だった。
荷駄の有効性もヨーロッパにおけるそれよりは高かった。
それは、高い人口密度とコメの作物としての優位性(収量・カロリー・保存性など)に依存していた。
一応荷駄があったとはいえ、同時期の日本国内でも兵糧は領民から個々の村々に対して石高に応じて徴発され、小荷駄に用いる駄馬と人足も徴発された。
徴発といえば聞こえがいいが、合法性があるように見える略奪のようなものだ。
人口密度が相対的に少なく、従って徴発できる物資が面積に対して少なく、略奪しても小麦を加工して主食のパンにするには手間隙がかかるヨーロッパの軍隊の方が、兵站に対する必要性が大きかったことになる。
17世紀前後にヨーロッパで軍事革命が起きてからは、ヨーロッパの軍隊の扶養できる軍隊の規模は急拡大した。
ナポレオン時代には、50万もの軍隊を作戦行動させられる位に兵站能力は向上した。
また、火器(特に攻城兵器)の発達がヨーロッパにおいて早かったのは、人口密度が低く長期の攻城戦が難しかったことも理由の一つだろう。
攻城迅速化のために、火器は非常に有効だった。
火器普及後は、城の高さは重要性を失った。
それまでは高い櫓から攻城軍を監視できたし、弓矢は重力加速度の分、威力を増した。
一方、大砲は櫓や城壁を破壊できた。
よって、要塞は高さよりも大砲の攻撃に耐える厚さを重視するようになった。
城の優位は火器の普及によって着実に低下していった(火縄銃が普及してから暫くの間は、城壁に銃眼が作られ、防御力が増した時期もあった)。
もっとも、第二次日本大東戦争が戦われた時代には、まだ日本・大東に火器は伝来しておらず、大東国でも従来型の高い城壁を巡らす城壁都市全盛期であった。
大東国においては、水資源の不足に対応して、大陸における華北平原と同じく粟・麦の作付けが近代に至るまで多かった。
近代になり、水路の構築などのインフラ整備が進み、農法も進歩するに従い米作も増加した。
つまり、東洋にあるにも関わらず、ヨーロッパ的な気候風土が、日本とは違った軍隊を組織する下地となっていた。
当然ながら、大東国の初期の戦略は防衛的なものだった。
大東軍は、日本軍が周囲の作物を食い尽くすまで城に篭り、もし騎兵が外部から援軍に来るなどして自軍優位になれば、城から打って出て反撃する。
敵軍は一度通った地域を二度と通らないため、守備側は敵が去るまで待てれば勝利できる。
また、敵軍は道沿いに幅20km以上遠くまで移動して略奪しない。
そして要塞都市が占領されない限り、周辺部の恒久的占領はあり得なかった。
「守れば勝ち」なのだ。
主要道路から離れた各地の村々には、敵軍に一撃離脱を試みる地爵が一族郎党を引き連れて腕を磨いていた。




