348 Start Cold_War(1)
■世界大戦の後始末
第二次世界大戦は、1945年1月5日にドイツの無条件降伏の調印によって実質的に終了した。
しかし一つの終わりは、次の始まりでもあった。
まず問題となったのが、ドイツの占領問題だった。
ドイツの最後の総統となったデーニッツが連合軍に降伏のサインを行った時、連合軍、ソ連軍の握手した場所は多くがオーデル川とドナウ川だった。
つまりドイツ主要部は連合軍の占領下だった。しかもソ連の占領した地域からは、ドイツ人は殆どが逃げ出して半ば無人状態だった。
旧オーストリア、チェコ、ハンガリーの一部、ユーゴスラビアの山岳地帯、ブルガリアも連合軍の占領下で、それ以外の東欧地域はソ連の占領下となった。
ドイツ以外での進撃では、日本がほとんど独自に進軍した。
しかしソ連は、ドイツの分割占領、ベルリンの共同占領を求めるばかりか、全東ヨーロッパ地域の占領統治も求めていた。
これに対して連合軍は、ベルリンの共同占領については快諾していた。
しかしそれ以外については、既にソ連が行っている行動もあって、なかなか決まらなかった。
連合軍の中では、当初アメリカはソ連に譲歩する姿勢を示していた。
だが、自由ポーランド、自由チェコスロバキア政府は、ソ連の占領統治をさせてはいけないという論調を終始崩さなかった。
イギリス、日本もソ連、共産主義に対する安易な譲歩や妥協は否定的だった。
ソ連と米英仏それに日本が、ドイツ各地、一部東欧での軍事的な占領を実施したが、そもそも分割占領が大きな間違いだったと、後世強く批判されている。
しかも日本軍は、チェコスロバキアのチェコ領内、ブルガリアなどに進駐しており、ドナウ川を挟んでソ連軍と対峙しているので、尚更ソ連との妥協に否定的だった。
何しろソ連は、占領した先々で共産主義政党を作ったり共産主義国家建設の準備を行っていたからだ。
その光景は、明日の極東アジアの光景に見えた。
結局、なし崩しに占領した国がそのまま統治する方針が基本とされ、ポーランド、ルーマニア、そしてハンガリーはほとんどがソ連占領下だったのでソ連の管轄となった。
チェコスロバキアもアメリカから半ば見捨てられ、チェコとスロバキアに分割する方向で進んだ。
このためチェコ占領でソ連と対立した日本は、アメリカに対する不審を強く持つことになる。
東欧諸国も、アメリカがアテにならないと考えた。
それよりも連合国にとっての問題は、ドイツの占領だった。
オーデル川より東のドイツ領は、現地住民がほとんどドイツ西部に疎開したため、ほぼ無人になっていた。
当然ソ連が占領したが、ソ連はオーデル川ではなく最低でもエルベ川より東はソ連が占領するべきだと強硬に主張した。
これは流石のアメリカも認める気はなく、当初アメリカだけが持っていたソ連に対する楽観論も徐々に消えていった。
だがアメリカは、これから講和会議に向けた首脳会談を行おうという時、延期を求めてくる。
ルーズベルト大統領の容態が3月以後悪化し、とても海外渡航出来る状態でなくなったからだ。
このため会議は5月とされ、その間外相などがベルリンに集まり予備会談と準備が進められることになる。
しかし4月18日にルーズベルトが脳溢血で死去したため、各国首脳を交えた国際会議はさらに延期して6月開催とされた。
そしてこの時間を一番利用したのがソ連だった。
ソ連が占領した東ヨーロッパ各地で、共産党が勢力を拡大したからだ。
しかも、連合国がソ連に民主的選挙による民主的政府を作ると約束させたにも関わらず、共産党独裁政権の道に急速に進んだ。
ヨーロッパ各地でも、共産主義運動や場合によってはテロが盛んに行われた。
それでも首脳会談まではソ連も露骨な行動には出ず、半ば仕切直した形での連合軍首脳会談がベルリン郊外のポツダム宮殿で開催される。
アメリカ、イギリス、日本、ソ連の四カ国の首脳が集まり、今後の国際社会の枠組みについて語り合った。
フランスも会議への参加を望んだが、戦争中は準枢軸的な立ち位置だったため、各国から認められなかった。
同じように会議への参加を望んだ中華民国の扱いは、フランスよりもずっと下でほとんど敵国扱いだった。
会議参加の四カ国のうち、アメリカはトルーマンが副大統領職から大統領になったばかりのため、主導権が握れなかった。
イギリスのチャーチルは老獪な政治家だったが、彼の政党は7月末の選挙で敗北すると予測されており、こちらも十分な政治力を発揮できなかった。
ソ連の首相は、もちろんヨシフ・スターリンだった。
この時の日本代表は、1940年から首相の座にあった田村馨だった。
彼は大貴族(田村公爵家の傍系)出身ながら、擬似的に戦時内閣となった日本政府を主導して戦争を乗り切り、戦争中各国首脳との度々の会談にも臨んだ。
年齢は既に70才を越えていたが、老練な手腕と話術で日本の利益を引き出せる人物だと諸外国からも見られていた。
欧米のジャーナリズムが彼の事を「サムライ・マスター」と呼んだ通り、彼は大東武士の出身だった。
日本有数の一族に連なり、イギリスでバロンに当たる地爵の地位を持つ貴族で、さらに人生の過半を政治家として歩んできた人物だった。
日本代表にとって最も厄介な相手は、ソ連のスターリンで、次がアメリカのトルーマンだった。
トルーマンは副大統領から大統領に昇格したばかりで、基本的にルーズベルトの政策を踏襲する事を考えていたが、それは日本にとって不利益の多いものだった。
このため田村は、最も関係の深いチャーチルと共にトルーマンの考えを改めさせる事に腐心した。
またスターリンに対しては、イギリスと日本の連携が目立った。
日本とイギリスの努力は実り、ソ連軍は今以上西に進むことは遂に出来ず、会談でのソ連の強硬姿勢もあってアメリカは共産主義に対する警戒感を強めた。
しかし、ソ連占領下の統治については諦めねばならず、東ヨーロッパの半分がソ連の勢力圏として固定する事になる。
一方ドイツ占領は、ソ連側が求めた首都以外のドイツ中枢部の占領統治は遂に叶えられなかった。
この事が、余計にソ連を頑なにしたと言われているが、譲歩したところで結果は同じだったというのが通説となっている。
なおこの時に限らず、アメリカがロシア人と共産主義に対して甘いのは、直接脅威を受けた事がなかったという点が大きく影響している。
ただし、ルーズベルト政権下では親共産主義者や明らかなスパイもいた事は忘れるべきではないだろう。
世界大戦の結末とルーズベルトの死は、共産主義の拡大を抑えるギリギリのラインだったのだ。




