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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
引きこもりルート

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347 2nd_War(13)

■第二次世界大戦(6)


 1944年秋、もはや戦争の大勢は決定していた。

 あとはベルリンに誰が一番に到着するのかというのが、将兵たちの話題だった。

 

 そして補給という面と、ドイツ人もしくはヨーロッパ人にとって東方からの侵略者への潜在的恐怖心が「ベルリン競争」に大きく影響したと言われることが多い。

 

 10月に連合軍は、ルール工業地帯の包囲作戦を実施したが、2週間で完全な成功を収めた。

 同時に北部沿岸を突進したイギリス軍は、最初にエルベ川に到達した。

 南仏やイタリアから北上してきた日本軍は派手な進軍はなかったが、ドイツ南部の丘陵や山岳地帯の占領はほとんど日本の担当だった。

 

 その頃ソ連軍は、バルカン半島に大規模な侵攻を実施していたが、東部ではポーランド正面から進めていなかった。

 大軍過ぎるため、補給が追いついていなかったからだ。

 ここでソ連軍では、南部の補給物資を北部に回すべきだったという意見が出るが、実のところあまり意味はない。

 

 ソ連軍にとっての問題は補給路を整備することが第一で、前線への物資の備蓄はその次の段階だからだ。

 だから南部の物資を回そうにも、進軍したばかりの北部に回す手段がなかった。

 

 ポーランド方面のソ連軍は、早くても11月末でなければ進軍できなかった。

 一度無理をして中規模の攻勢を仕掛けたが、ドイツ軍の反撃を受けて手痛い損害を受けただけに終わった。

 そしてソ連軍が地団駄を踏んでいるのを後目に、連合軍は一気にドイツ西部を進軍した。

 

 国内戦になるとドイツに地の利があるように思えるが、主に都市での破滅的な市街戦をする気でもなければ、鋼鉄のローラーのように「面」で進んでくる連合軍への対抗が難しかった。

 しかもすでに兵力もなく、最有力の生産拠点を失って武器も全く足りていなかった。


 なお、連合軍にとってドイツ軍の戦車は高性能で、個々で対決したら劣勢は明らかだった。

 1対4かそれ以上で当たるのが普通なほどだった。

 

 特にアメリカは、戦略レベルで対戦車戦を合理的に考えすぎていた。

 量産と海路の運搬を重視して、戦車が戦車と出くわすのは戦場での不幸な事故に過ぎないと割り切り、強力な戦車の開発を怠っていた。

 

 対照的なのは日本陸軍で、西日本列島では絶対に使えないと言われた、本来はソ連に対して開発されていた50トン級の重戦車を1943年には生産開始し、南仏の戦いから実戦投入を開始。

 さらにベルリンに向けた最後の進撃までに、ドイツ最強の戦車と互角に戦える改良型の重戦車まで戦場に持ち込んでいる。

 

 この連合軍最強と言われた重戦車は、戦場のアメリカ軍将兵からも羨ましがられ、日本からアメリカに供与された兵器の一つとなった。

 

 この戦車は、いまだ日本軍の一部で使われている猛獣の名をとって「剣歯猫サーベル・タイガー」と言われ、その名称で両軍の将兵を勘違いさせることがあった。

 何しろライバルの名も「ティーゲル」、「虎」だからだ。


 ソ連軍が11月末に慌てるようにドイツ本土前面で大攻勢を開始する頃には、連合軍はエルベ川一帯まで進軍し、ベルリンへの最後の進撃を行う寸前だった。

 

 そして連合軍がドイツ国境に迫ったあたりで、連合軍とソ連軍との間に問題が持ち上がっていた。

 どこで握手するか、つまり「ドイツや東欧の占領をどの国が行うか」についてだ。

 

 ソ連は、当初ソ連軍によるベルリン占領とエルベ川での握手を極めて強く求めていた。

 しかし連合軍の進撃の方がかなり早く、イギリス、日本がソ連軍の行動を強く警戒していたため、占領した軍隊による占領統治とオーデル川での握手を提案する。

 

 しかも連合軍は、仕事の少ない日米の海軍主導でデンマーク作戦、ノルウェー作戦、さらにはバルト海作戦までを計画し、1945年春には実施予定だった。

 バルカン半島では、ギリシアからブルガリア進駐と、ユーゴスラビア地域への進撃が44年秋から開始されていた。

 

 この積極姿勢は、ソ連の受け入れられるものではなかった事も、ソ連側の態度をさらに硬化させた。

 しかし物量に勝る連合軍も、勝利の分け前に対して譲る姿勢はほとんど見せなかった。

 結局、話しは明確にはまとまらず、占領した軍隊による占領統治を行うという方針しか決まらなかった。

 

 そして連合軍、ソ連軍双方ともに進撃を強化したのだが、ドイツ軍はソ連軍に対してより強く抵抗をしたため、ソ連軍の進撃ははかばかしく無かった。

 何しろ自分達がロシアの大地で何をしてきたのかを知っていたので、自分達の祖国が蹂躙された時に何をされるのかを、誰よりも熟知していたからだ。

 

 このため連合軍がエルベ川を越えても、ソ連軍は東プロイセン以外ではポーランド領内で足踏み状態を強いられた。

 連合軍は、アメリカ、イギリス軍が中心となってベルリン攻略を行い、ベルリン各所には星条旗とユニオンジャックがはためくこととなる。

 

 終戦は1944年12月28日。

 クリスマスまでに戦争は終わらなかったが、ヒトラーの自殺は20日、ベルリン陥落は22日なので、実質的にはクリスマスまでに戦争が終わっていると賭けに負けた者達が騒ぐ一幕も見られたという。

 

 そんな事より重要なのは、連合軍とソ連軍がオーデル川で握手した事だった。

 またベルリン進撃をさせてもらえなかった日本軍は、ドイツ南部を経てチェコ地域、オーストリアまで進軍し、チェコとスロバキアの境界近くとウィーンでソ連軍と握手した。

 

 また他方でも、北イタリアからユーゴスラビア地域北部に進撃と進駐もしているし、ブルガリア方面でもルーマニア地域でソ連軍と握手している。


 なお、ヨーロッパでの激しい戦闘の中で、日本帝国は基本的に「外様」であり補助的な役割に終始した。

 国力ではドイツ、ソ連に匹敵したが、日本からヨーロッパの距離の問題があって(※アメリカよりもずっと遠い)大きな力を発揮できなかった。

 

 それ以前の問題として、アメリカの存在感があまりにも大きすぎるため、日本の存在が1943年後半ぐらいから霞んでしまったという方が正しいだろう。

 

 日本軍は軍人、軍属併せて700万人を国内で動員し、そのうちのべ300万人をヨーロッパなどに派兵した。

 だが、アメリカからレンドリースを受けた事もあり、国力に応じたほどの戦費は使わなかった。

 

 日本が戦争経済を維持しつつ根こそぎ動員を実施したら、最大で1500万人以上の動員が可能だったからだ。

 祖国防衛戦ならば、ソ連に匹敵する2000万人以上が動員可能とも言われる。

 

 この実質動員数こそが、戦後は経済的にアメリカが牛耳ることが分かっているヨーロッパでの戦争において、日本が本気になっていなかった証拠だった。

 

 それでも日本が比較的積極的にヨーロッパで戦ったのは、戦後出現するであろう新たな体制と対立構造の中で、出来る限り自分の席を広くしておきたいという考えがあった。

 前回の世界大戦での消極姿勢が、結果として1930年代の国際孤立を招いたという考え方があったからだ。

 

 だからこそ、アメリカではなくヨーロッパに協力するという姿勢を強めて戦争を実施し、出来る限りアメリカとは一歩距離を置いた。

 このため戦争では、補助的な役割だったとも言えるだろう。

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