表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
引きこもりルート

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

137/189

346 2nd_War(12)

 ■第二次世界大戦(5)


 アメリカは参戦から2ヶ月(1943年2月)で、イギリス本土からの戦略爆撃を開始した。

 だが、国内で様々な準備をしていた事もあって、当初から日本軍よりも大規模だった。

 

 英本土からの爆撃開始は日本も同時期だったが、日本が100機程度で開始したのに対して、アメリカは最初から300機の4発重爆撃機を飛ばせた。

 そして1943年2月にシチリア島上陸作戦が、日英米三国合同で実施され、これが事実上初の共同作戦となった。

 

 日米が競うように大艦隊を派遣したので、制空権、制海権共に圧倒的で、枢軸側が付け入る隙はなかった。

 そして2月にシチリアに上陸したのとほぼ同じ部隊がイタリア本土に上陸すると、戦争開始から枢軸を抜けることを考えていた人々が中心となって、6月にイタリアは呆気なく降伏した。

 

 ただしドイツが即座にイタリア北部を占領し、一度は失脚したムッソリーニを救出して傀儡としたため、イタリアでの戦いはその後も続く事になる。


 だが戦争の趨勢は、もはや明らかだった。

 日本、アメリカが加わった事で、枢軸側は世界の生産量の70%以上を相手にしなくてはならなかった。

 待っている未来は、圧死しかなかった。


 1943年1月14日、北アフリカ、モロッコのカサブランカで、アメリカ、イギリス、日本のトップ会談が実施された。

 主な内容は、今後のヨーロッパ戦線での事だったが、会議の最後アメリカのルーズベルト大統領が、何の事前協議もない状態で爆弾発言を行う。

 

 それこそが「無条件降伏」を原則とするという、枢軸陣営の国々に無条件降伏以外の条件で停戦を求めないという過酷なものだった。

 アメリカ側の発言は、当の大統領以外ほとんど誰も知らなかったもので、アメリカとそれ以外の国々との間に見えない溝を作ったと言われることも多い。

 

 その後の戦争展開は、非常に早かった。

 国力、戦力、生産力の比較から見ると当たり前と言える状態で、ドイツに匹敵する国力の日本、ドイツの三倍以上の国力を持つアメリカが、ヨーロッパに注ぎ込んでくる兵力と物量によって、ドイツは一気に窮地に追いやられていった。

 

 日英米によるブリテン島からの大規模な戦略爆撃は、ドイツの戦時生産を混乱させると共に空軍を拘束した。

 イタリアでは陸戦を展開し、圧倒的な連合軍艦隊が地中海側から締め上げた。

 

 しかし、連合軍内で小さな対立が発生する。

 本格的な西部戦線構築の際の強襲上陸地点だ。

 日本は、自らの地の利から南仏上陸を推していた。

 イギリスは、屈辱の地でもあるドーバー海峡のカレーを推す向きが強かった。

 

 これに対してアメリカは、フランス北西部のノルマンディー半島の付け根の上陸を意図していた。

 しかし国力、兵力の大きさが、問題の多くを押し流した。

 

 上陸作戦は、南仏上陸を敵側に情報リークする形で進め、さらにドーバーに上陸すると見せかけて、本命をノルマンディーに注ぎ込んで一気にパリを解放するという形にまとめ上げられた。

 

 この作戦で日本は貧乏くじを引く事になったが、その後のギリシア作戦、さらにバルカン半島では主軸を占めるし、フランス上陸後も抵抗の少ない西部戦線の南部方面を担当することとされた。

 また上陸支援では、日米海軍が総力を挙げる事となった。

 

 一方東部戦線は、43年夏以後ドイツ軍は防戦一方となった。

 ドイツは同年7月頃に大規模な攻勢を計画していたが、同年春の連合軍のイタリア侵攻で全面的な中止になった。

 

 以後ドイツ軍は、ソ連軍に対して機動防御戦術で対抗していくが、多少の時間を稼ぐことは出来てもじり貧でしかなかった。

 本格的な反撃を開始したソ連軍の進撃速度は凄まじく、圧倒的な物量でドイツ軍の防衛計画を破綻させていった。

 そして連合軍の欧州反攻に呼応した1944年6月22日から、極めて大規模な突破作戦を実施することで、東部戦線での帰趨をほぼ決することになる。


 連合軍による欧州反攻は、1944年6月に入り1日に南フランス、6日にノルマンディーの順番で連続して実施された。

 もはや、これを止める力はドイツ軍にはなかった。

 

 南仏では、日米のパイロットが「鴨撃ち」、「ターキー・シュート」と言ったほど、枢軸側の制空力が落ちていた。

 無数の戦艦や空母を並べた攻撃は、費用対効果を無視した過剰攻撃だと言われるほどだった。

 

 そして圧倒的兵力差によって防衛網が破綻したドイツ軍は、一定程度しか連合軍をノルマンディーの橋頭堡に押しとどめる事しか出来なかった。

 丁度一ヶ月後の7月6日、パリは解放された。

 

 南フランスでは、ロシア人による東方大隊ばかりかヴィシー軍が次々に降伏し、ドイツ軍が構想していた遅滞防御戦は内から瓦解した。

 このため南北の連合軍の間で「パリ競争」が起きたほどだ。

 

 8月には、連合軍の全ての空挺部隊を結集した空前の規模の大空挺作戦、それに連動するアメリカ海兵隊による敵前上陸作戦が行われた。

 これほど早く連合軍が大規模な機動的作戦が行えたのは、6月の上陸作戦が失敗した場合に備えて9月に再度行う為の物資や資材をある程度確保していたからだった。

 そして戦力不足のドイツ軍を出し抜く事にも成功した為、9月までにライン川東岸のアルンヘムを奪取に成功。

 

 これでドイツ本土への扉が開かれ、「クリスマスまでに戦争が終わる」と将兵達の間で言われた。

 そして同年10月には日本軍主導のギリシャ作戦が実施され、東欧にも連合軍の橋頭堡が築かれた。

 

 その頃の西部戦線は、どの部隊が一番にライン川を渡河するかの競争になっており、先に越えたアルンヘムのあるオランダ方面ではオランダの解放が進んだ。

 ドイツ軍は急速な戦線の瓦解に対応できず、ドイツ工業の心臓部であるルール工業地帯が風前の灯火となり、しかも連合軍の攻撃で生産能力を激減させていた。

 

 だがこの時点で連合軍は、急な進撃のツケを払うべく補給線を前線に伸ばすことに努力しなければならなかった。

 それでもライン川河口部に思いの外簡単に進軍できた事から、10月にはドイツ本土に向けた進軍が可能となっていた。

 

 東部戦線でも、8月末にはポーランドの首都ワルシャワ前面までソ連軍が一気に進軍し、ドイツは東西双方から自らの国境を圧迫される状態に陥っていていた。

 日英軍が主力を占めるイタリア戦線はまだ北イタリア前面だったが、ドイツにとってあまり慰めにはなっていなかった。

 

 しかもドイツ中枢では、同年7月にヒトラー総統暗殺未遂事件とクーデター未遂事件が勃発して大混乱に陥った。

 連合軍の大規模空挺作戦や、ソ連軍のドイツ北方軍集団の包囲はこの混乱を突いた形にもなっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ